インタールード − 智美(後編)

もちろん松崎は一次会で帰るつもりだった。
今年も去年とまったく同じように水泳大会が行われ、まったく同じように否応なく選ばれて泳いだ。去年は参加しなかった慰労会と称する打ち上げも今年は逃げるわけにはいかなかった。
さすがに今回は去年のことがあったから、荷物は更衣室のロッカーに入れず職員室のロッカーに置いた。不便だがここなら人目が常にあるから安心だった。いつもわたしを見て、守ってくれる人がいないから、水着も下着も地味なものに替えた。疲れるけれど、着るものや着替えにも必要以上に神経を使うようになった。そんなことをせざるを得ない自分が惨めで少し悲しかった。
それが功を奏したのかどうかはわからないが、今年は何もなく無事に大会は終わった。

慰労会は体育教官を含め総勢10名で始まった。
久々のアルコールが気持ちよい。
天気が良いこともあって、誰がセットしたのか知らないが、レストランの屋外テラスという場所も気が利いていた。夕方になって気温が落ちてテーブルを渡る川風が頬に心地良かった。
わたしはもっぱら体育教官たちに混じって話をしていた。
普段は滅多に話す機会もないが、中堅の男性教官である品田先生に呼ばれたのをきっかけにその輪の中心にいた。
わたしの同僚や上司たちに比べ、立場も関心も違うから、さっぱりと話も弾む。
女性教官も大らかで気さく。化粧だのエステだの着るものの話題が出ないのには助かった。
彼らが普段わたしをどう見ているのかは知らないが、若いわりに優秀な先生と持ち上げられれば悪い気はしない。
ときおりいつもの同僚たちから声が掛かったが、わたしは聞こえない振りをしていた。
今年はわたし以外にも美術の立木先生がいる。
彼女はずっと平野の傍に付っきりだったから、バランスに問題はないだろうと思っていた。

二、三時間は楽しい時間を過ごしただろう。夜がとっぷりと暮れて空気が僅かに湿りはじめたころ、
「じゃあ、そろそろお開きにしましょう」
品田先生が閉会の音頭をとった。
わたしは挨拶をしてその場を辞そうと歩き出す。
そのタイミングを計っていたかのように、背に平野の猫撫で声が掛けられた。
無視しようか一瞬迷ったせいで足の動きが鈍った。
すかさず立木の嬌声が背後に近づいて腕を絡め取られてしまった。
「もう、松崎先生〜。帰っちゃうんですかぁ? わたし一人置いて〜」
立木は強引にわたしを彼らの輪に引き戻す。
「これから料亭に連れてってくれるんですって。先生も一緒じゃないとわたし困っちゃいますよぅ。ね、ね」
「でも……」
「《木暮》ってけっこう有名ですよ。行きましょうよ」
平野が寄って来てとどめを刺した。
「松崎先生、ちょっとご相談したいこともあるんです」
「学校ではいけませんか?」
にやっと笑った平野が声を落とした。
「できれば内密に」
立木に引き立てられて行くわたしを品田先生がじっと見ていた。

繁華街の裏手にあたるのだろうか。
背の高いビルに遮られて風が澱んだ。路地に入るとネオンと照明が一気に減って闇が忍び寄ってきた。板塀に囲まれた一角、重々しい瓦葺の門をくぐると世界が一変した。
生い茂る樹木と的確に配置された目隠しで、方向感覚を失う。
燈篭の灯が庭をぼんやりと照らしていた。打ち水がされた長い石畳を立木と平野に挟まれて歩く。大川と北田はわたしたちの後ろを奇声を上げながら付いて来る。
もみじだろうか。枝ぶりの整った樹木の角を直角に曲がると青白い照明に照らしだされた檜の格子戸がすぐそこにあった。
軽快に引き戸が開けられて、わたしは少し安心した。
丁寧な番頭さんと仲居さんが迎えてくれた。玄関で靴を脱ぎ、仲居さんの後を迷路のような廊下を進んでいく。磨かれた床板。美しく刈り込まれた庭が見える。
離れのように小さな池を渡った先に部屋が用意されていた。
開け放たれた障子の先に竹垣で区切られた白砂敷きの中庭が見えた。
「こちらでございます」
10畳ほどの和室に縁側がついている。両側は襖で仕切られていた。
畳に座布団が並べられていて、当たり前のように平野が床の間の前に座った。
「御飲み物はいかが致しましょう」
最初の一杯くらいは付き合わねばならないだろう。下座を選んで仕方なくわたしは席についた。

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立木の乱れ方に最初は困惑していたわたしもいいかげん腹が立ってきた。
あちこちと酒を注ぎ回りながら、男性教諭にしなだれかかり、短いスカートから生々しい足が剥き出しになっている。肩を抱かれ足を引き寄せられても逃げもしない。
調子に乗った北田が胸元に手を入れている。大川はビデオカメラを取り出して盛んにその光景を収めていた。困惑して目を背けていると膳を回って平野が寄って来た。

平野が膝をにじって肩を寄せてくる。
「おや、先生。お気に召しませんか」
「わたしこういう趣味はありません」「不愉快です」
帰るつもりできっぱりと叩きつけるように言葉を返した。
平野は頷くようににやにや笑った。
「その、相談なんですが、よろしいですか?」
平野の息は酒臭いがそれほど乱れていないのが救いだった。
平野が鞄から取り出したA-4版くらいの封筒を渡された。
「先日、6月の末くらいですか、こういうものがわたしのところへね、送られて来まして……、一応、先生にも見ていただいたほうがよいかと思いまして……」
猫撫で声が薄気味悪い。
わたしはさっさと片付けて一分でも早くこの場を立ち去りたかった。
封の開いた封筒を斜めにして中身を膝の上に取り出した。

コピー用紙? 10枚ほどの白い紙。
クリップを引き抜いて、ざっと中身を改める。
ひときわ高い立木の鼻にかかった嬌声が聞こえた。
でも、わたしは振り向きもしなかった。
わたしの身体は凍りついていた。

「……」
言葉も出なかった。
紙を捲る指先が震える。
最後まで見終わって一ページ目のワープロで打たれた細かい文字を読んだ。

貴校の数学教諭、松崎智美は教育者に有るまじき人間であることをここに告発します。松崎智美は前年度、自ら担任する男子生徒と肉体関係を結び、校内、校外を問わず自らの欲望の赴くままに生徒との関係を続けました。同生徒は結果的に大学受験に失敗したものであります。このような教師は教育者としての資質に欠けていることは明らかであるといわざるを得ません。よって、厳正な処分と生徒に対する謝罪を求めます。

一父兄より

衝撃に頭が麻痺した。
いつ、どこで? 目に焼きついた写真の光景が思い浮かぶ。
体育祭のとき、放送室? 控え室? 新館のトイレ? 気を付けていたはずなのに。
何で今ごろこんなものが……。
写真をゼロックスでコピーしたものだろう。鮮明ではないが写っているのが誰なのかぐらいは十分にわかる。
スウェットスーツの上をブラジャーごと首にぶら下げて、下はショーツもろとも膝まで引き下ろされて、立ったまま後ろから貫かれている女。顔は歓喜に歪んでいる。
素っ裸で両手を縛られて、掲げるように足を広げ、若い男の怒張したものに舌を這わせ、噴出する精液を舌なめずりしている女。
どの女もわたしだ。
どれも言い訳の出来ない光景が角度を変えて鮮明に写し撮られていた。
おまけにそんな写真をよりによって平野に見られるなんて……。
絶望と悔恨が同時に噴き上げてわたしは取り乱した。

「まぁまぁ」
平野が身体を押し付けてきて肩に腕を回した。
わたしは抗うことすら忘れている。
「いやぁ、先生。僕は信じてません。この文章。ちょっと作りすぎですよ」
「でね、写真を見る限り、これ被害者なのは先生のほうでしょう。手を縛られて明らかに強姦されてるとしか思えないんですよ。表情も苦痛に歪んでますしね。だから上にも上げず僕のところで止めておいたんですが、どうなんですか? この生徒、木南とかいいましたね。タチの悪い奴だったでしょう。だからこういったことも十分あり得るし、先生のことだから表沙汰に出来なかったのもわかります。でも、こうして証拠が出てきたらほっとくわけにはいかないでしょう」
「告発してね、遡って卒業取り消し、退学処分にしないと示しがつきませんよ」

何を言い出すのだろう、この男は。
そんなことをしたら彼の人生は滅茶苦茶じゃないか。
「そ、それは……」
「さぁ、先生。勇気を持って被害届を出しましょう。僕も及ばずながらお手伝いしますよ」
「そ、そんな。やめてください。違うんです。彼はそういう生徒じゃありません」
平野の目に不思議な光が宿った。わざとらしい驚きの表情。
「それはどういうことですか? ここに書かれている通りという意味ですか?」
「そ、それは……」
「即刻木南を呼び出して、警察立会いでとっちめましょう。こういう人間は放って置くと罪を重ねるだけですよ」

この男はあくまでも木南を悪者に仕立てあげたいのだ。前から彼を目の敵にしていた。
わたしは彼につまらない影響が及ぶことを恐れた。大事な時期にごたごたに巻き込むわけにはいかない。
「ち、違います。彼はなにもしていません。わたしが進んでしたんです」
「いやぁ、信じられないなぁ。こんな奴、庇う必要ないですよ」
肩に加わる力が強くなって、わたしは初めて肩を抱かれていることに気付いた。
「だから、違うんです。わたしが誘ったんです」
「う〜ん。それはそれで大きな問題ですけどねぇ。ほんとですか? 校内でこういうことされちゃ。まぁ、僕が目をつぶればいいってことになるんですかねぇ」
「それは、そ、そうしてくれれば……」
肩を締め付ける力が更に強くなって、はじめてわたしは抗った。
「困ります」
「そう邪険にされるとなぁ。せっかく先生のためになると思ったのに」
大きな手の平でいきなり胸を掴まれてわたしは悲鳴を上げた。
「冗談はやめてください。そんな」
「おや、強気ですね。もう少し自分の立場を理解した方がよいのでは。我が校はじまって以来のスキャンダルですな。公になったら彼の退学は免れないですよ? 大学入れませんよ?」

ようやく、わたしは罠にかかったことを理解した。
平野の手がいやらしく胸に貼り付いて、揉みしだくように力を加える。
手で引き剥がそうとするがびくともしない。
助けを求めようにも北田に抱かれ半裸の立木とそれを執拗に撮影する大川には何の希望も見出せなかった。

「じゃぁ、別室が用意してありますんで僕らはそちらへ参りましょうか」
平野が後ろ手に隣室との境の襖を開けた。
暗い照明に下品な朱色の布団が二組敷かれているのを見て、わたしは驚いて、次には逆上した。
「ふざけないでください! 帰ります!」
平野の腕を振り払い、バッグを持って立ち上がろうと腰を浮かすが、あっけなく手首を掴まれて引き戻された。
平野は下卑た笑いを浮かべて、更に抱き寄せるようにわたしの身体を引いた。
「嫌だから帰るなんて、子供と同じですよ、先生。木南君のことも考えてあげないと……」
本能的な嫌悪感と、意のままにならなかった場合の結果に逡巡して板挟みになる。
完全に判断力を失って、もうどうしていいかわからない。
それでも握ったバッグを振り回し、本能がその手を強く振り払った。
入り口には北田たちが陣取っていたので襖の反対側へ逃げる。迫ってくる平野の顔に浮かんでいる笑いを見てわたしは絶望的な感情に囚われた。
切羽詰って反対側の襖を開けると小さな水屋があって、その脇に浴室らしいガラス戸と扉がもう一つあった。
わたしは祈るような気持ちでその扉のノブに飛びついた。

トイレだった。
間一髪、ロックが早かった。
ノブがガチャガチャと荒っぽく動く。
ほんの一瞬ほっとして、すぐに慌てる。こんなところに立て篭もってどうしようというのだ。逃げ道は今入ってきたドアしかないじゃないか!
そうだ。バッグを引っ掻き回して携帯電話を取り出す。液晶の隅に電波状態を示すアンテナが三本立ってわたしは涙が出るほど嬉しかった。
誰? 誰? 誰にかけるの? 木南はいないのに。
いちばん上に登録された電話番号は何度かけても通じないことはわかっているはずだった。
警察? そんなことしていいの? あの写真が人目に触れたら……彼の将来はめちゃめちゃだ。
わからない。わからない。どうしよう。
思い余って液晶をスクロールさせる。涙が滲んで文字が良く見えない。
せめて、この同じ街中に住んでいて、わたしを助けてくれる人、そんな人は……。
一つの名前が目に止まり、同時にコールボタンを押していた。

一回目のコールで相手が出た。

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「松崎先生、おしっこはもうお済ですかぁ? 開けますよ?」
「この扉10円玉で開いちゃうんですよ」
平野の勝ち誇ったような嘲笑が聞こえた。
その笑いに合わせるようにロックの部分が回転し始める。慌ててノブを押さえるけれど力では到底敵わない。やだ。やだ。涙が溢れて頬を伝った。
トイレのドアが力任せに開かれて、平野がにやけた顔をして立ち塞がっていた。身を引くより前に手首を掴まれて外に引き出された。

立木は既に全裸に剥かれ犬のように這わされていた。その口には下半身裸になった北田の男根が押し込まれ、高く掲げされた下半身にはえげつない色彩の器具が突き立てられて伸びたコードの先は北田の手に握られていた。ときおり器具が震えるように動くと、鼻から悩ましい呻きを漏らしている立木の顔が快感に歪む。その光景を大川がまとわりつくように執拗にビデオに収めていた。
その大川も下半身には何も着けておらず、醜くく硬直したものが濡れて赤黒く光っていた。
わたしは想像を絶する光景に思わず目を背けた。
「ほらほら、そんなに恥ずかしがらなくてもいいでしょう。僕たちも愉しみましょう」
後ろ手に手首を掴まれたまま躰が立木に向けられた。
「やめて!」
顔を背けるわたしを後ろから抱きすくめた平野が無理やり顔を向けさせた。
「あんただってまんざら知らないわけじゃないだろう。いい躰してるじゃねぇか」
耳元で下卑た声が囁いた。
「え? マンションに毎晩、彼氏連れ込んでたんだろ?」
タバコ臭い男の息に吐き気が込み上げる。
「そんなこと、関係ないでしょ」「いやです! やめて」
わたしはしゃにむに動いて掴まれた腕を振り解こうとするが、頑健な平野はびくともしない。
「まぁまぁ、そんなに慌てないで。大事な彼のためにもね」
その言葉は魔法のようにわたしに染み渡り、身体からあらゆる力が抜けていく。
「大川!」
その一声で、待ってましたとばかりに大川がビデオカメラをもつれているわたしたちに向けた。
「いや! いや!」
平野が背後で悠然と笑った。
「さぁ、立木先生と並んで撮りましょう。先生の分も用意してありますよ、ほら」
彼が取り出したものを見て、わたしはもう一度悲鳴を上げた。
「今、裸にしてあげますからね。それとも自分で脱ぎますかぁ」
わたしを縛り付けていた力がふっと消えて、彼らの輪の中に放り出される。
でも、逃げ道はない。
立木の尻を抱えている北田までがわたしに凶暴な視線を向けている。
「服を脱げ」
平野の野太い声がシンプルに命じた。
立ち竦んでいるわたしには首を振ることしかできない。
「早くしろ」
苦渋と悔恨が入り混じった絶望が躰を蝕む。
両手をブラウスの一番上のボタンに掛けた。
平野のにやついた顔が綻んだ。
ひとつ。ふたつ。でもそこまでだった。それ以上はどうしてもできない。
「なんだ。もうおしまいか? じゃぁ、スカート捲くれ」
夏物のロング。藍色に染められたアネモネの柄。彼に選んでもらったスカートだ。
「そんなこと……で、できません」
「彼氏のことも少しは考えてやれよ」
下卑た笑いが周囲に広がった。
前屈みになってスカートの裾を嫌々掴む。
躰を起こすと、裾が上がりはじめた。
食い入るように見詰めている男たちの目。
屈辱に躰が震え、膝の上で手が止まってしまう。
「木南君が悲しむぞ。智美先生は僕を売り渡したんだって」
わたしは目を瞑り、羞恥に耐えながら更に裾を持ち上げた。
「いい足してんな。そそるぜ。ほら、もう一息だ」
「もう、もう許してください……」
涙が一筋頬を伝った。

業を煮やした平野が立ち上がった。
「小娘じゃあるまいし、許すも何も、まだ何もしてねえだろ」
背後に回った平野に抱きかかえられ、再び大川が正面からわたしをビデオカメラで捉えた。
顔を背けようにも身動きもできない。
平野の手がブラウスのボタンに掛かった。上からゆっくりと肌が剥き出しにされていく。
わたしはかぶりを振り続けるだけで何もできなかった。
剥き出しになった肌を平野の分厚い手が撫でまわし、ブラジャーに手を押し当てた。
スカートのボタンを太い指先が探しまわり、はだけたブラウスを肩から引き剥がそうとしている。
いつのまにか立木と交わっていた北田までが寄ってきて、スカートを必死に押えているわたしの手を引き剥がそうとしはじめた。
「やめて! お願い」
いきなり真後ろからスカートに手を入れられた。
押える間もなくウエストまで捲り上げられて、下半身が完全に露出した。
「きゃはは」
スカートの裾を握り締めた全裸の立木が大笑いしながら小躍りしている。
三本の男の手がパンストを引き摺り下ろそうと躍起になった。
引き下ろされまいと必死に抵抗し暴れても、所詮は多勢に無勢だった。
嫌な音を立てながら引き千切られたパンストがその役目を終えると、あっという間にショーツが引きずり下ろされた。獣のような北田の目がぎらぎらと輝いて、ビデオカメラがぐっと剥き出しの下半身に近づいた。
北田と大川が争って足首からショーツを乱暴に抜き取った。
獲得した獲物を二人が奪い合っている。
剥き出しになった尻を平野に撫で回されながら、もう片手がブラジャーの内側に潜り込んだ。
絶望が全身に染み渡り躰からすべての力が抜けた。もはや、自分の足で立っているのか、平野に抱きかかえられているのかわからない。
まぶたの奥の木南の顔が一瞬微笑んで遠ざかりはじめた。
立木が満面の笑みを浮かべ、器用にブラジャーのストラップとカップを繋いでいるフックを外した。カップを蓋を開くように前屈みに引き剥がされて、ぱっくりと胸が露出した。
首筋に湿った生暖かいものが押し付けられて、目を開けたまま意識が薄れはじめた。

挿絵1

『陥穽に落ちて』

「平野様」
よく通る声が襖の向こうから聞こえた。
「なんだ! 邪魔するなといってあっただろう!」
平野が見えない相手に怒鳴りつけた。
「申し訳ありません。こちらの松崎様に佐竹様とおっしゃる方がご面会に見えられておりまして……」
「なんだって!」
平野が喚くや否や襖が大きな音を立てて一気に引き開けられた。
いつもとまったく変わらない老人がたった一人、戸口に佇んで部屋をさっと見回した。
呆気に取られて誰もが硬直していた。
「さぁ、いらっしゃい」
佐竹の柔和な顔が松崎を呼んだ。
平野の顔がすうっと青ざめていく。
その腕の力が弱まった隙を逃さずに、松崎は平野を振り払い、足元のバッグを掴んだ。

廊下に座った和服の女性は目を合わせずにくるりと背を向けると先にたって歩き出した。
下着は取られてしまったがスカートを下ろせばなんとか格好はついた。ボタンが毟り取られてしまったから手で押えていないと落ちてしまう。ブラウスの前が全部開いているのに気付いて慌ててバッグを持ったもう片手で押えた。
「何か羽織るものを」
「はい。かしこまりました」
逃げるように仲居が先に進んだ。
佐竹にすがって、迷路のような板張りの廊下を歩き出すと、目から溢れた涙で視界が流れた。

「なんとか間に合ったようですね」
女将らしき着物の女性や料理人が呆気に取られる中を裏口から外に出た。
一言も喋らない佐竹が門の引き戸をがらっと引くと夜気のなかにネオンと照明が甦って、松崎にようやく生きた心地が甦った。
滑るように寄ってきた黒塗りの車が二人のすぐ脇で音もなく止まった。
ドアを開けた佐竹に促され、深々とシートに沈み込む。
安堵が松崎の全身を柔らかく包み込んだ。
後から後から涙が溢れ、松崎は身体を折って、声を殺して泣いた。
ほんの数分か数十分か、カーブを切って身体が斜めに揺れるとすっと音もなく車が止まった。

運転していた人が後ろを廻ってドアを開けてくれた。
静まり返った夜気の中に微かな声が聞こえて松崎は顔を上げた。
その手を取って、よろける身体を支えた人は小柄な女性だった。松崎は安心して身を任せ、明るい灯が灯る玄関に向かって歩き出す。
初老の女性は、《佐竹の妹で香津子といいます》と名乗った。

「お怪我はないですか」
香津子は一目見て状況を理解したようだ。
抱きかかえるように松崎を導く。
最初に案内されたのは浴室だった。
「さぁ、お湯を使いなさい」
「着替えは用意しますから、お気になさらずに」

**********************************

髪を乾かし、高級そうな浴衣を身につけると、部屋に案内された。
「今日はもう遅いのでこちらでお休みください。細かいことは明日にしようと兄も申しております」
清潔な和室に布団が延べられて、枕元にわたしのバッグと水差しが置かれていた。
「あの、これを寝間着にしてしまってよろしいんでしょうか」
何の遠慮も要らないとばかりに、初めて香津子が笑顔を見せた。
「すぐ近くの部屋におりますから、ご用がありましたらこれを鳴らしてください」
ちりん、と鈴が澄んだ音を立てて枕元の盆に置かれた。

遅い朝、わたしはてきぱきと身の回りの面倒を見てくれる香津子さんに恐縮のし通しだった。
「あの、お洋服なんですけれど、ボタンがいくつか無いようなので、こちらをお使いください」「ごめんなさいね。合う洋服がなくて」
「とんでもない」
用意していただいた服は、夏物の和服だった。
浴衣ではない。必死になって昔何度か着たときのことを思い出す。

素肌に夏物の襦袢をつける。
平野に触られた下着や服など着けたくなかったから、ある意味和服はありがたかったが、肝心の着付けがさっぱりだ。
途中で覗いてくれた香津子さんにすぐに見抜かれた。
手伝ってもらい、なんとか帯を締め上げた。

思ったよりも風通しが良くて、さっぱりとしていた。
着物は駒絽の薄物で白地に紺と紫の大胆なあやめ柄が染め抜かれていた。帯は絣模様の朱色の麻帯。姿見に映ったわたしは思わず自分に見蕩れた。
「お似合いですよ。わざわざ引っ張り出した甲斐があったわ」

朝食の席で簡単に昨夜の事情を訊かれた。食事は香津子さんが準備してくれたようだ。
他に人影は見えなかった。彼女は黙って食事をしていたが、最後に一言、眉を顰めた。
「まったく、とんでもない連中じゃない。こういうことは兄さん達の事勿れ主義が引き起こすんですよ。今度という今度は主人もとっちめてやるわ。電話したら今ゴルフ場だって言うの。とっとと戻って来なさいって言っておいたわ」
話の内容は掴めないが、彼女が憤慨していることはわかった。佐竹先生は苦笑している。
大きなガラス戸から広大な庭が見えた。
刈り込まれた植え込みと背景の木々が明るい日差しに照らされて、さまざまな緑が萌えて影を落としていた。
昼を回った頃、遠くのざわめきが近づいて、やがて玄関に人の声がした。

最初に居間に入ってきた初老の人物にはなんとなく見覚えがあった。
「主人の浅川です」
香津子さんが素っ気無く紹介した。
白いスラックスにダークブルーのポロシャツ。日焼けした肌が彫りの深い顔立ちを強調していた。
「義兄さん。事情は聞きました。さっそく手配はしました。えっと、こちらは県警の田村君。この手の話のとき相談に乗ってもらっている人です。それからこちらの女性は田村君のところの……」
「今井です」
30代だろう。女性が緊張した面持ちで答えた。
「あとね、こちらも田村君の関係、法医学の先生」
「榊です」
中年の女性が頭を下げた。
いったい何がはじまるのだろう。
松崎は佐竹と新しい闖入者を見比べて途方に暮れた。

ポロシャツの男に田村と紹介された男が口火を切った。
「えっと、松崎先生は……」
「わたしです」
「お怪我はないですか」
「はい。寸でのところで助けていただいたので……」
「えっと、その、手首が痛いとか、痣ができたとか何でもかまいません。医師と刑事を連れてきましたから診断と聴取にご協力願えますか」
二人の女性を指し示されてわたしはいっそう困惑した。
佐竹が代わりに応えた。
「不愉快でしょうがもう一度説明していただけますか」
「香津子」
と、一声掛けるとわたしたち三人の女性は別室に案内された。
松崎はそこで詳細な事情聴取と医師の診断を受けた。女同士だったから今まで言えなかったことも話せた。松崎はそこに佐竹の暖かい配慮を感じとった。
元の部屋に戻ると見知った顔が二つ増えていた。
校長と教頭だ。
二人とも部屋の隅で小さくなっている。
「先生、どうですか」
田村が女医に問い掛けた。
「はい。打ち身と打撲でしょうね。腕と足に痣があるのと、抵抗したときに何かで擦った切り傷があります。全治2週間はみてもよいでしょう」
「今井君のほうはどうだ?」
「加害者のほう、叩けば埃が出そうですね。ビデオを撮っていたそうなので任意で押えた方が得策でしょう。すぐ人を遣ります」
「そう。わかった。防犯にも声掛けて店にも廻ってくれ。じゃ、あとはよろしく頼むよ。少し締め上げてやって」
退出する二人を見送ると、県警の男はポロシャツの男と佐竹先生を加え何事か相談をはじめた。
松崎は自分の居場所がわからなくなって、教頭の後ろに控えた。

「さて、黒木君」
ポロシャツの男が校長を呼んだ。
わたしを見止めた男が手招いた。
「さぁ、先生はこちらにお座りなさい」
佐竹先生の脇を示されたわたしは、校長を君付けで呼ぶ男っていったい誰だろう、と思いながらおどおどと移動した。
「問題の四人ですが、月曜は直接、教委の方へ出頭してもらいます。戻ることはないでしょう。組合の問題もあるから欠員は補充しますが半月ほどは無理でしょう。ま、ちょうど夏休みでしょう。その間のやり繰りをお願いします。あと四人の私物は明日中に片付けさせてください。松崎先生の目に触れないようにね」
「もちろん、あなた方の管理責任は免れません。追って事情の聴取と処分が教委のほうからあるでしょう」
「そんな……。校長や教頭には関係ないことです」
物事が自分の把握できる範囲を完全に逸脱しているのを感じて、わたしは口を挟んだ。
向き直ったポロシャツの男が丁寧に説明した。
「いやね。先生。彼らはこういった問題が起きないように教員や職員を管理するのが仕事なわけです。高い給料を貰っているのだから当然のことなんですよ。黒木君は今年で定年だから最後にケチがついて残念だけど、信賞必罰を崩しては組織は成り立ちません」
今まで黙っていた教頭が平身低頭した。
「その通りです。松崎先生。この度は誠に申し訳ない。いろいろ噂は聞いておったんですが、どうにも対応が後手後手に廻りました。教育長のおっしゃる通りです」
どうにも耳から入った単語が漢字に結びつかなかった。

いつ? どこで? 霧の底からイメージが湧きあがる。
思い出した。
教員に採用されて、最初の研修のときだ。研修センターの講堂で最初に壇上に上がった人だ。だからつまり、県の教育委員会の長ですべての教員の頂点にあたる人だ。
知事が任命して県議会が承認するのだったか。そうだ、県の広報にも顔が載っていた。
それが香津子さんのご主人で、香津子さんは佐竹先生の妹さんで……。

「それで、連中は逮捕されるわけ?」
冷えた麦茶を盆に載せた香津子がグラスを配りながら夫に問い掛けた。
代わりに田村が答えた。
「証拠は十分ですが、裁判になるとかえって松崎先生にご迷惑が掛かるかと。学校にも話が漏れてしまうでしょうし」
「教育長のお考えから懲戒免職は固いでしょう。ただ刑事罰はまったく別の次元の話になってしまうので、できれば私どもに任せて頂けるとありがたいのですが……」
「有耶無耶だけはやめてくださいよ」

彼らが目の前からいなくなることは、わたしにとってはありがたかった。
裁判で根掘り葉掘り訊かれることは耐え難い気もしたし、忘れられるものならば一日も早く忘れたい出来事だった。
「何日か休みを取りますか?」
佐竹先生が気遣ってくれた。
「ただ、彼らと同時にあなたが休んだりするとつまらない噂がどうしても立つでしょう」
「大丈夫です。月曜から出ます。たいしたことされたわけではないし……」
「あと、なんだか大事になってしまって皆さん申し訳ありません。お休みなのにこんなにして戴いて感謝の言葉もありません。後のことはお任せします」
わたしは教育長と田村に深々と頭を下げた。
「佐竹先生も、ありがとうございます」

校長と教頭を交えていくつか事務的な指示がなされた。わたしには出る幕がなかった。
はじまってから3時間。あっという間に善後策の協議までが終り、男たちは引き揚げていった。

**********************************

「品田君に頼んでおいて正解でしたね」
首を傾げる松崎に佐竹が微笑んだ。
「なにか妙な動きがあったら連絡するように頼んでおいたのですよ。あなたが二次会に引っ張っていかれたと連絡を受けたとき、店の名前を確認しておいてくれたのが良かった」
意味がようやくわかった。
「あ、ありがとうございます。タイミングぴったりで助かりました」
下を向いてしまった松崎のほの白い横顔に夕陽があたって髪が燃えるように赤く輝いた。
「いやぁ、すいません。厭なことを思い出させてしまって。もうこの話はよしましょう」
「品田先生にもお礼を言わなくてはいけませんね。そう言われてみると、わたしを気遣ってくれていたんですよね。さり気なく」

今改めて考えると、彼の行動の節々にわたしへの配慮が滲み出ていたことがはっきりと思い起こされた。
「でも、立木先生がこんなことするなんて……同じ女性として正直信じられません」
「いや、平野ですか、彼女のところへよくやって来てはこそこそ話し込んでいましたから。あなたはご存知ないでしょうが、あの二人以前同じ職場にいたこともあるんです。ここへ来る前の話ですが。あなたが最近わたしのところへ来ていることを、平野は立木から聞いて知っていたのでしょう。彼はわたしと義弟のことを知っていたのではないですか。だから余計なことを注進されては困ると逆に焦ったのでしょう」

庭に面した戸をすべて開け放した茶室で、炉を挟んでわたしは佐竹先生の向かいに座っていた。にじり口からひんやりとした心地良い風が吹き抜けた。
赤く染まりはじめた空と刻々と形を変えていく影が沈黙と静寂のなかで唯一時間の経過を示していた。
わたしは意を決した。

「実は、物事がどんどん動き始めてしまって、どうしても言い出せなくなってしまったことがあります。実は昨夜、平野…先生からわたしとある生徒の関係の証拠を突きつけられて、それで、あの、困ってしまって……」
「あぁ、そのことですか。あれは偽造でしょう。さっき田村君から報告を受けました。いろんな方法があるそうですが、一見よく出来ていますが、プロが見れば一目でわかる稚拙なレベルだそうですよ。そのあたりもすべて上手く処置しておくように言ってありますから、あなたは心配しなくていいでしょう」
「あ、だから、その、後出しじゃんけんみたいですが、そのこと自体は本当なんです。去年の卒業生なんですが、その生徒の卒業を取り消すって脅されて……」
「それが木南寛君というわけですか」
「はい。彼が在学中、その、個人的に付き合っていたのは事実なんです」
「去年一年間。彼は卒業して浪人して、偶々、親が転勤になって引っ越してしまって…それっきりなんですけど」

「あなたは、その彼のことを話しているときがいちばん良い表情をするようですね」
「そ、そうですか」
松崎の顔が僅かに染まった。
「いやいや。茶化しているわけではないのです」

「わたしが初めて妻に会ったのは教員になって4年目のことでした。もう45年以上前の話になりますが……。最初に赴任した学校が今わたしたちがいる高校です。当時はすべて木造の校舎で、なかでも美術室はバラックを改造したような酷い有様でした。晴れた日には破れた屋根から空が見えましたし、雨が降れば大急ぎであちこちにブリキの缶を置いたものです。もっとも生徒たちは筆を洗う水に丁度良いって喜んでおりましたが。
わたしは教員にはなりましたが、画家になりたいという夢も棄てきれませんでした。だから授業とは別に、いろいろな可能性を自分なりに追求もしていたのです。一日中、朝から晩まで美術室の一角にこもって飯も食わずに、あーでもない、こうでもないと唸っていたわけです」

「そんなころです。当時は男子がほとんどで女子は1割もいなかったでしょう。たまたま受け持っていた三年生のなかにちょっと変わった女の子がいました。昼休みとか放課後とかしょっちゅうやって来ては壁に掛けてあるわたしの絵を見ていました。
当時、わたしは人物の入った抽象画みたいなものばかり描いていたのですが、ときおりその絵の内容について彼女と話をするようになりました。《展覧会の絵は古臭くてつまらない》とか生意気ではありましたが、けっこう的を得たことを言う子だなと印象に残りました。やがて、稲荷寿司を握って来てくれたり、冷たい麦茶を水筒に入れて来てくれたりと、絵に対する興味以外の好意みたいなものを感じましたが、わたしは気付かない振りをしていました」

「そして、ちょうど今ぐらいの季節、夏休みの直前でした。
梅雨明けで、暑く晴れた日でした。
いつものようにやって来たその子が、描きかけのわたしの絵を見て《先生の描く人は人形みたい》と言ったのですよ。
ショックでした。
今ならそうやって話し掛けてくれるだけで嬉しくなってしまいますが、当時のわたしはそれを侮辱と受け取りました。教え子と軽く見ていた相手に痛いところを突かれて激昂したのです。
彼女のいう通り、何度描き直しても、何枚描いてもわたしは人を上手く描けませんでした。
表情が死んでしまうのです。私自身もわかっていたことですが、やはり面白くなかったんでしょう。
わたしは彼女に背を向けました。帰ってくれと言いました。
《先生。ごめんなさい》
微かな声が聞こえましたが、わたしは振り向きませんでした。
しばらくの間、わたしは怒りに震えていたと思います。
《先生。許してください。だって、わたしのこと見てくれないから……》
最後は怒ったような口調に聞こえました。
出て行ってくれ、と言うつもりでわたしは彼女に向き直りました。
でも、わたしは唖然としてしまって、馬鹿みたいに突っ立って彼女を見ていました」

《わたしをそこに描けばいいじゃない!》

「そう言いながら彼女はセーラー服を脱ぎ捨てていました。
スカートも下着も靴下も全部脱ぎ捨てて、素裸になった彼女が挑戦的にわたしを見上げました。
《わたしをきちんと見て、見える通りにそこに描けばいいのよ》
《わたしは生きているから嬉しかったり、悲しかったり、恥ずかしかったりいつも違う顔をしている。生きている人間だからそのまま描けばいいのよ》
彼女の黒い瞳がわたしを真正面から見据えていました。
目を逸らすことすら許さないように。
彼女は美しかった。直感的に求めているものがそこにあることに気付きました。
女性のヌードが氾濫している時代ではありません。
そんな美しい躰を見たことは一度もなかったのですよ。
わたしは教師としての立場を完全に忘れ、夢中で描きました。
彼女の勇気と思いやりを称賛しました。
思い切ったことをする彼女に半端呆れ、半端感激しました。
描ききったと思ったとき、わたしは裸の彼女を抱きしめてその唇に自分の唇を重ねていました。
彼女は最後に顔を伏せて、はっきりと言いました。
《女が誰にも見せたことがないものをすべてを晒したのだから、……わたしの夫になってください》
忘れられない一言でした」

「秋になってその絵を出品した展覧会でわたしは初めて入選、それも一席を戴きました。すべては彼女のおかげでした。恥ずかしさを省みず、わたしに目を開かせてくれたのです。ようやくわたしは彼女に抱いていた感情に正直になれました。
そして彼女の期待に、紆余曲折はありましたが、なんとか応えることができました。
彼女の卒業を待って、わたしたちは結婚しました。わたしは別の学校へ転任を余儀なくされましたが、当時としてはなんだかんだ、けっこう話題になったものですよ」

「あなたが木南君を思う気持は他人がとやかく言うべき性質のものではないし、わたしにはあなたを咎めることはできません。思い上りかもしれませんが、教師としてのわたしは妻の人生を変えてしまいました。でも彼は今、自分の道を歩いているのでしょう。だから、あなたは今、苦渋を呑んで耐えている。それで十分でしょう」

「わたしもそんな風に言ってみたいです。その最後の言葉」
「その着物、妻のものだったのですよ。亡くなった後、香津子にすべてやったのですが、どうもサイズが違うと申しまして。だからといって仕立て直すのは義姉に悪いといってずっとしまいこんでいたようですが。朝、あなたのその姿を見たとき、正直困りました」
「あなたのほうがずっと美人ですけどね」
佐竹は相好を崩して笑った。

「庭、素晴らしいですね。三人でお住まいなんですか」
「いや、香津子は浅川君と一緒。近くに住んでいて、たまに様子を伺いに来るわけです」
「じゃぁ、ここに、お一人なんですか。お子さんは?」
「娘が一人、東京に嫁いでおりますがね。まぁ、ほとんど寄り付きません」
「さぁ、お疲れになったでしょう。香津子に送らせますので明日はゆっくり休んで、月曜日、元気な顔を見せてください」

わたしはすっかり豊かな気持ちに満たされて、その場を動く気にならなかった。
ひぐらしの儚げな鳴き声が夕陽に映えて、鬱蒼と茂った樹間にこだました。
夏の夜の匂いがそっと忍び寄り、大地の底を這うように茶室を包み込んだ。

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月曜日、教育長が言われた通り彼等の顔を見ることはなかった。
校長が珍しく朝の会議を取り仕切って、名前の消されたホワイトボード、何もない空っぽの机を眺めた同僚たちはいったい何事かと顔を見合わせていた。
理由は追って説明があるとしか言われなかったが、それ自体は不祥事が起きたときの常套句だったから、誰も不審に思うことはなかった。

わたしは思いの他早く立ち直った。
もちろん佐竹先生や香津子さん、そして校長や教育長の配慮のおかげだ。
覚悟はしていた噂が立つこともなく、平野に見せられた例の写真に関する話もまるで存在そのものがなかったように立ち消えた。新しい教員が着任して、夏休みが明けると、いつもの二学期が当たり前のようにはじまった。

秋になっても、冬を迎えてもわたしのモデルは続いていた。エッチングの下絵だけでなく、ペン画や鉛筆デッサンのこともあった。
わたしは描かれることで木南寛の不在を埋め合わせようとしていたのかもしれない。
誘われてご自宅にお邪魔する回数も増えた。
落ち着いた庭や縁側、あるいは茶室でモデルを務めることもあったし、お茶を頂くこともあった。香津子さんに、これを機会に憶えてしまいなさい、といわれた着物の着付けも何度か面倒を見ていただいて一通りこなせるようになった。
誰も着れる人がいないからと、頂いた着物を着てモデルを務めることもあった。
亡くなられた奥様の着物だ。佐竹先生にいつになく強い目で見据えられて照れてしまったこともあった。

佐竹先生が今年度いっぱいで退職する黒木校長とともに、嘱託をお辞めになるという話を聞いたときはショックだった。さすがに体力的にきついといわれると、わたしにはもうそれ以上のことは言えなかった。元々は現校長に請われて復帰したということを今更ながらに思い出した。仕方のないことなのかもしれないが、わたしは寂しさが募った。
しょげてしまったわたしを気遣ってくれたのだろう。いつでも、直接自宅にいらっしゃいと言われたことが唯一の慰めになった。

卒業式に続いて終業式が終ると落ち着かない年度末が一気に加速する。
珍しく朝の会議に佐竹先生がいらっしゃった。
案の定、予想していた通り退職の挨拶だった。唯の事務報告のようにほんの数分で片付けられて、それでお終い。移動になる同僚や退職者には派手な歓送会が準備されているというのに、随分あっさりしたものだとわたしは内心憤慨していた。

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午後、時間のやり繰りをつけて美術準備室を訪ねた。
私物が運び出され、壁の版画が剥がされた部屋は殺風景で寒々としていた。机に重ねられた数冊のクロッキーと黒い皮製の無骨な鞄、中央に置かれた石油ストーブだけが微かに最後の命を燃やしているように思えた。どこにいったのだろう。物音一つしない冷たい空気の中で、松崎は辺りを見回した。来るときに覗いた美術室は森閑としてもちろん無人だったし、もう一つの準備室にも倉庫にも人影は無かった。

諦めてストーブの前のソファに腰を下ろして、小さな耐熱ガラスの向こうで燃える炎を見詰める。

「おやおや、入れ違いだったようですね。今、職員室に伺ったのですが……」
「え? わたしですか?」
「そう、そう。ちょっとかさばりますが、これを最後にお渡ししたかったので。できたてのほやほやです」
佐竹がA2版くらいの紙箱を抱え直した。
「かさばるから額じゃなくて安フレームで申し訳ないですが」
「あの……、拝見してよろしいですか?」
「もちろん。あなたに貰って頂ければこれほど嬉しいことはないです」
佐竹はそう語って相好を崩した。

「なんだか、あの、照れてしまいます」
先月だったか、最後にここでモデルになった松崎がふわっと浮きあがるように描かれていた。緻密な線と滑らかな濃淡の織り成す繊細な線画に淡く着色したものだった。
女としての松崎が余すところなく、儚く、切なく息づいていた。
自分で自分に惚れてしまいそうになる。
「わたし、こんなにきれいではないです」
佐竹は笑って答えなかった。
「あの、服が無いほうがいいのかなって……。邪魔ですよね」
「それ以上美しかったらわたしが困ります」
「ありがとうございます。大事にします」

「でも、酷いですよ。こんなに長くいらしたのに歓送会もないなんて」
「いやいや、定年のときはやって戴いているわけですし、十分ですよ。もう、食べるのも飲むのも細くなりました」
「でも……」
「あなたのような人と懇意にさせて戴いて、モデルまでお引き受け戴いて、お礼を言わねばならないのはわたしですよ」
柔らかい空気が流れ、思わず涙が出そうになった。
「彼、木南君、合格したそうじゃないですか」
「はい」
松崎の顔が綻んだ。
「もう会われましたか?」
首を振る松崎だが、表情は暗くなかった。
「会える会えないは別として、本当に良かったし、わたしも嬉しいです」
佐竹は黙って頷いた。
「先生。いろいろ、ありがとうございました」
松崎の黒い目が生き生きと濡れて見えて、佐竹はその表情の向こうに感じた意志と希望に唯何度も何度も頷いていた。

「わたしばかりいろいろして戴いて……。その、最後に一つだけ……」
「あの……、時間ありますか? その……最後に、一枚描いてもらえませんか」
言いながら松崎の顔が見る見る内に赤く染まった。
佐竹は訝しげにクロッキーと松崎の顔を交互に眺めやって、答えた。
「時間は幾らでもありますよ。もう先の予定は何もありませんから」
目を合わせないで頷いた松崎が背後の扉を閉めて内側から施錠した。躊躇うことなく肩に羽織ったカーディガンを脱ぐと背に廻した手でジッパーを引き下した。足元で丸く輪になったニットのワンピース。それでも松崎は手を休めなかった。ブラジャーとパンスト、最後のショーツを躊躇いもなく脱ぎ捨てると、すがるような目で訴えた。
「お願いします」

さすがに佐竹も唖然とした表情を隠せなかった。
何も身に着けていない松崎の美しさに見蕩れたのかもしれない。
若き日に体験したあの日を思い出したのかもしれない。
全裸になった松崎が脱いだ服を隅に片付けて、固く小さな椅子の上で小さくなると、佐竹が黙ってストーブをその傍に置いた。
「どうすればよいですか」
松崎が訊いた。
老人の柔和な目が一度瞬いて頷いた。
「その彼のことを考えてください。あなたの大好きな彼のことを。動いても結構ですよ。流して描きましょう。わたしのことは気にせずに、あなたが彼を思う気持を描いてみましょう。どうでしょう。それが今のあなたの姿にいちばん相応しいように思いますが」
「はい……」
松崎の消え入りそうな幽かな声が準備室の固い木の空間に響いた。

サラサラと濃い鉛筆でデッサンが描かれはじめた。
次から次へとクロッキーが捲られて、椅子で、床で見事な姿態を晒す松崎が描き留められていった。
中空に狂おしい眼差しを向け、あるいは強く目を瞑る。
惜しげもなく大胆に躰を開き、豊かな胸を晒し、尻を突き上げる。
やがて、耐え切れなくなったように、きつく結んだ口元が幽かな声を立てた。
松崎の両手が艶めかしく動いて、自らの乳房を握り、股間を擦る。
広げた足首を手で掴み宙に高く掲げ、床に頬を押し付けながら掲げた尻を光に晒す。
その廻りをあらゆる角度で、あらゆる視点で佐竹が位置を変えながら松崎のすべてを描き留めていた。正確に、力強く。あらゆる形が二次元に還元されて、あらゆる襞が一本の省略もなく、精緻に白い紙上に定着された。
最後のクロッキーに正鵠な松崎の姿が浮かび上がったとき、消しきれない声が長く部屋にこだまし、反り返った裸の背が折れそうにしなった。
早春の夕陽が柔らかくその肌を照らしていた。
佐竹はクロッキーを閉じて置くと、崩れ落ちた松崎の裸身にイーゼルを覆っていた白い布をそっと掛けた。


インタールード − 智美(後編)


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