インタールード − 夕実

十月九日

きょう、ぼくはしばふの上でねているおねえさんを見ました。ねむいのなら家にかえってねればよいのに、と思ったのですが、ババからしょくぶつえんにくる人にはなしかけてはいけないといわれているのでおこしてあげませんでした。
ちゃいろのふくと黒っぽいスカートがとてもよくにあっているおねえさんでした。

十月十四日

きれいなおねえさんはきょうもしばふでねいていました。ぼくはおちばをあつめてちりとりにほうきでいれました。おねえさんの近くに行くと、目をさましたおねえさんがぼくを見てわらってくれました。とてもうれしくなって、それからおちばをいっしょうけんめいあつめました。夕方、ババにたくさんあつめたねってほめられたのでうれしかったです。

十月十九日

きょう、おねえさんがやってきたのはちょうど昼くらいでした。ぼくはババとおべんとうをたべていたので気がつきませんでした。おねえさんはベンチにすわって空をみていました。あごと首がババよりもずっとほそくて白くてきれいだなって思いました。ベンチの下におちばがたまっていたので、ぼくははじからじゅんばんにおちばをあつめました。おねえさんがすわっているべんちにいくと、にっこりわらったおねえさんが《すいません》といって足をりょう手でかかえました。べんちの下のおちばをちりとりにいれると、おねえさんが《ありがとう》といいました。

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試験の九月が終って後期に入った。
大学のシステムにもすっかり慣れて新入生の緊張感はもうない。
履修簿を提出して、新しい教科書を購入すればあとはまた前期の繰り返しだった。
生れた余裕が隙間風のように身体を吹き抜けた。
明るい澄んだ空気が気持ちの良い季節になったがわたしは寂しかった。
時間が空くと何となく植物園に足が向いた。芝生に寝転がるときもあったし、ベンチでぼんやりしていることもあった。目を瞑ると過去の記憶が頭を駆け抜けた。
ひんやりと冴えた大気の感触が顔を撫で、わたしは肺いっぱいに吸い込んだ。

木々が色付きはじめた頃、いつも屋外の掃除をしているおばさんの他にもう一人、若い男が、やはり落ち葉拾いをしているのに気付いた。おばさんのように作業服を着ているわけでもないし、最初は同じ学生か研究用の試料採取でもしている院生だと思った。
それでも、ときどき清掃のおばさんから指示を受けているようで、これから落ち葉が増えるからアルバイトでも入れたのかとも思えた。
一心不乱に落ち葉を集める姿はちょっと微笑ましかった。

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十月二十六日

きのうとおとといはお休みだったのでおねえさんと会うのはひさしぶりです。いつもとおなじベンチのおねえさんに「こんにちは」というと、おねえさんも「こんにちは」といいました。おねえさんはふしぎそうなかおをしてました。
おねえさんはぼくの左手をずっと見ていました。左手にはむかしいじめられてけがしたときのきずがあります。いまでもそのときのことを思いだすとくやしいです。

十一月二日

ババがきょうはそうじをしなくていいというので、ぼくはおねえさんのところに行きました。おねえさんがあそんでくれると思ったからです。おねえさんが「ここにすわって」というのでぼくもベンチにすわりました。
いろんなお話しをしました。名まえをきかれたので「新一です」ってこたえました。
ぼくがかん字をせつめいしたら、おねえさんはおどろいていました。
おねえさんが左手のきずを見せてというので見せました。
「けんかしたの?」とおねえさんがきくので、ほんとはちがうけれどそうだと言いました。

十一月七日

きょうはさむかったです。いきが白く見えました。さむかったからいつもババにするようにおねえさんにくっついたら、おねえさんはびっくりしました。おねえさんがぼくの左手をにぎってくれたので、ぼくはうれしくてずっとそのままでいたいと思いました。
でもババがきてぼくをひっぱりました。ババはおねえさんにあやまりました。ババにあたまをたたかれていたかったです。でもぼくはわるいことはしていません。
おねえさんは「新一君、またお話ししようね」と言いました。もちろん、ぼくはうんって言いました。

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びっくりして突き飛ばそうと身体が動いた。
でも、彼にはわかっていない。わたしはそう判断した。
寛だったらブラジャーの上からだって正確に乳首を探り当て、指先と歯で愛撫を繰り返し、結局は我慢できなくなったわたしが自らブラジャーを外し、ショーツを脱ぎ捨てる情態に追い込まれてしまう。
でも彼は違う。彼にとってわたしは母親と同じなのだ。
わたしのセーターの胸に頬を押し付けている彼の幸せそうな、安堵に浸りきった顔がすべてを語っていた。
だから、わたしはもう慌てなかった。
彼が望むなら、しばらくそうしてやろう。わたしは腕を廻して痩せ細った彼の背中を軽く抱いた。

「こら! 新一!」「おまえは何度言ったらわかるんだい!」
水色の作業服を着た小柄な女性がわたしに抱きついていた新一君を引き剥がした。
勢い余って彼は芝生にもんどりうった。女性はその彼を引き起こすといきなり顔といわず身体といわず平手で殴りはじめた。
「ごめんなさい。許してください。まだ、何もわからない子供なんです」
小柄な女性は息つく間もなく彼を打ち据えながら、わたしに謝り続ける。
「ずうたいはこの通りですが、生まれつき頭が弱いんです。許してください」
「もうやめてください」
泣いて謝る新一君を庇うように二人の間に割って入ると、泣き崩れた彼がわたしの胸に抱きついた。がっくりと膝を折った女性がわたしの前に頭をついて、地面に額を擦りつけんばかりに平身低頭した。

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十一月十三日

きょうは、おねえさんが家にあそびにきました。ババが早く帰っていいよと言ったからおねえさんといっしょに帰りました。帰りみち、おねえさんはずっと手をつないでくれました。おねえさんのほそくて小さな手はやわらかくてすべすべでした。ぼくがうれしくなってはね回ると、おねえさんはあぶないから道路であそんじゃだめっておこりました。でも、わらっていたから本当におこったのではないと思います。

おねえさんはいえでぼくの作った工作や絵を見てくれました。ほめてもらったのでうれしかったです。この日記ははずかしいからやっぱりみせませんでした。代わりにかん字のれんしゅうちょうでかん字をおそわりました。おねえさんの字はとてもきれいでびっくりしました。何も見ないでむずかしいかん字をすらすら書けるのがすごかったです。ババにきいたらおねえさんは大学生だそうです。ぼくも大人になったらおねえさんと同じ大学に行きたいです。

新一君の母親は房江と名乗った。彼の年齢から考えれば随分と老けて見えたが、それは彼女が置かれた境遇の過酷な現実を物語っていたのだろう。感じていた通り、彼は精神遅滞といわれる知的障害を持った子供だった。年齢は16歳で発育障害はなかったが、その年齢に相応しい知能は欠如していた。8歳ぐらいなんですかねぇ。そこで止まっちゃいました。疲れて深いしわの刻まれた母親はそう答えた。
彼も母親も父親の話をまったくしないところから、先天性の病気なのか後天的な事情なのかはわからなかったが、そのあたりにも原因があるように感じた。

でも彼はけっこう明るい。
着ているものや行動のちぐはぐさは別にして、情緒は安定していたし、見た目もけっこう凛々しくて可愛い。寝癖のついた髪を手櫛で直してやると恥ずかしそうに笑うのだ。
そして、やさしい。
わたしだったら耐えられない人生を生きているという意味で、わたしは彼を不憫に思う一方で、その無垢で純粋な魂を愛すべきものとして捉えはじめていた。

その一方で、今、こうやって彼の家にやって来て、一緒に漢字を書いたり絵を描くことが良いことなのかどうか、わたしにはわからなかった。彼は喜んではしゃいでいるが、根本的にわたしには彼をどうすることもできないし、いずれ会えなくなるときが必ず来るはずだ。
深入りすれば、結果的に彼が傷ついて悲しむことにしかならない。無邪気に自分をさらけ出してわたしに甘える彼を見てわたしは迷いに迷っていた。

でも、わたしは見てしまったのだ。彼の左手の傷を。
無造作にその手を取って眺める。
見れば見るほどそっくりな手。間違えようのない手。わたしを掴み、さすり、撫で、摘み、抉り、まさぐって何度も気が狂いそうな夢見心地にした寛の手。
わたしはその手から逃れられなかった。
傷跡に頬擦りする。
新一は不思議な顔でわたしを見ているが、わたしの欲望は止めどもなく溢れつづけた。

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12月に入ってわたしは軽い放心状態に陥っていた。
植物園は11月いっぱいで冬季閉園になり、同時に彼らの仕事もなくなった。
最後の金曜日、彼はわたしをクリスマスに誘った。
これといって予定もなかったからわたしは快く誘いに乗った。
彼は招待状を作って送るからと言って、母親に手を引かれて帰っていった。
鉛色の冬空に彼より小さな母親に引かれて帰っていく姿を見たのが最後になった。
12月の中旬を過ぎても招待状は来なかったのだ。

年末も押し迫り、川の対岸は一年で最も明るい照明に華やかに彩られていた。
目抜き通りのケヤキの並木は落ちた葉の代わりに発光ダイオードで装飾されて、息を凍らせたカップルがその下を行き交っていた。
わたしは、それで良かったと思っていた。
どういう事情か知らないが、クリスマスに行けば正月、正月に行けば……と彼の期待は膨れ上がるだろう。それを裏切るときが必ずやって来る。
わたしは冷え切った街を一人で家路につきながら、心底ほっとした。

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一段と冷え込んで、西の尾根を越えた雪が青空をときおり白く染めた日、わたしは図書館に逃げ込んで暖房の効いたブラウジング・ルームで参考書籍の検索をしていた。
検索システムはX端末と呼ばれるユニックスで全学部の分館にある書籍もすべて検索できる。もっとも今一つ使い方がわかっていなくて、こんなとき寛や佐々川君がいたら一発なのにな、と回想モードに浸ってしまう。
落ち込みはじめる気分から逃れようと雑誌架を眺め、閉じられてぶら下がっている新聞を手に取った。この街ではいちばんメジャーな地方紙。うちでは全国紙を取っていたから普段は見る機会がないけれど、一週間分が読めるようになっている。わたしがたまたま取り出したのは、数日前のものだった。

地元版の片隅でわたしは息が止まった。
「障害者遺体で発見」
小さな三段ほどの記事だった。
「11日、午前10時ごろ、南部広域下水処理場で流入するゴミの浚渫作業をしていた広域下水道事業団の作業員Aさんは、汚泥沈殿池の手前で男性のものと思われる死体を発見した。南警察署によれば、被害者が手に握り締めていたネックレスの一部から、発見された男性は今月3日に行方不明になっていた市内北本町の佐藤新一さん(16歳)と判明した。佐藤さんは3日昼頃、家を出たまま行方不明になっていた。近くの排水路に女性のネックレスの一部と共に人が滑り落ちたような跡があることから、ここから転落して水死したものと思われる。叔母の佐藤房江さんが同日夜、捜索願を出していた。新一さんは知的障害者で小学校三年生程度の知能だった」

どれだけの時間そうしていたのだろう。
わたしはしっかりと両足で立ち上がり、新聞を書架に戻した。
コートを着て、ブラウジング・ルームを出た。退館ゲートにカードをくぐらせてガラス張りの風除室から外に出た。
気温が急降下して身が引き締まった。

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玄関のチャイムを鳴らしても何の反応もなかった。
明らかに様子が変だ。彼の死体が発見されたのは三日前だ。それなのに葬式一つした形跡がなかった。
入り組んだ路地の奥にある新一のアパートは日の光に見捨てられたような湿った日陰に密着して建てられていた。冬だというのに隣との境を流れる排水路から湧き上がるどぶの厭な臭いが大気の底を這っていた。
鍵はまだ同じ場所にあった。
吹きさらしの廊下に小さく突き出た台所の出窓の底。新一君がしていたように腰を落とすと、ささくれだった木の隙間に銀色に光る金属が見えた。
手を伸ばして白く光る鍵を取り出した。
念のためもう一度チャイムを鳴らしたが部屋の中で空しく響くだけだった。
手に入れた鍵でドアを開けて、薄暗いタタキに入った。
「こんにちは……」
静まり返った虚空に語尾が曖昧に消えていった。
後ろ手にドアを閉めてロックを掛けた。外と同じぐらい冷えた空気が澱んでいた。

薄暗がりに目が慣れるとがらんとした空間だけがそこにあった。
靴を脱いで部屋に上がる。
何もない。
真っ白な息だけ。
テーブルも冷蔵庫も隅に置かれた小さなTVも、ごちゃごちゃと積まれた台所用品も、以前見たものはなに一つ残されていなかった。白々と薄汚れた壁に薄くなった12月のカレンダーだけがそのままぶら下がっていた。
お風呂とトイレも覗いてみたが、きれいに片付けられて人が住んでいた痕跡はなかった。
開け放しになった襖から新一の部屋を覗いてわたしは驚いた。

粗末な机と塗装の剥げた木の椅子、元々家具はそれしかなかった。
その机の周りだけは、まるで彼が今、帰って来るかのようにあのときのままだった。
唯一大きく違うのは、その中央に白い布に包まれた真四角の箱と黒い小さな位牌、枠に入った写真が無造作に積み重ねられて置かれていることだった。

白い箱はもちろん遺骨だろう。線香一つ灯されることはなかった冷たくて寂しい眺めだった。
房江さんはいったいどうしたのだろう。
これじゃあんまりだ。
手袋を外して机の正面に回った。
投げ捨てられているような写真を手に取った。
学校のアルバムか何かを引き伸ばしたのだろう。写りの悪い酷い写真だった。
その脇に彼が自慢した工作が潰れて打ち棄てられていた。
崩れるように本がのしかかって、絵を描いていたスケッチブック、練習帳などが雑多に積み重ねられていた。遺骨を置くために押しやったのだろう。
その山に、ふと目が止まって一冊のノートを引き出した。
日記帳だ。
ぱらぱらと捲ると稚拙な大きな字が目に飛び込んできた。
半分も使われてはいない。書き始めは夏休みのようだったがすぐに挫折したようだ。
天気だけしか書かれていない日もある。7月は二日おきくらいだが、8月は一週間おき、9月に至っては二日しか記載がない。
ページを捲って10月の頭あたりを探し出した。
その月から、わたしのことばかりが書かれていた。

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十一月二十日

きょうはとてもあたたかい一日でした。だから、おちばをあつめるとぼくは汗をかきました。おひるにおねえさんがやってきて、いっしょにこうどうのにわに行きました。にわのベンチにすわって、生きょうでおねえさんにかってもらったアイスをたべました。ババは何もかってくれないので、とてもうれしかったです。ぼくはアイスをかってくれるおねえさんが大すきです。

帰りにおねえさんが家にきてくれました。ババが先に帰りなさいと言ったのでおねえさんといっしょに帰ってきました。おねえさんに水でっぽうと船を見せてあげようと思ったのでおふろに入ろうと言いました。ババはぼくとあそんでくれません。おねえさんならいっしょにあそんでくれると思ったからです。
でも、おねえさんは困ったかおをしてました。おねえさんはばいやくずみだからおふろにいっしょに入れないと言いました。ぼくがかなしくなって泣きそうになるとおねえさんがあたまをなでてくれました。泣くのははずかしいのでおねえさんにひっつきました。ババとはぜんぜんちがういいにおいがしました。

新一が隣の部屋に行って、開いた襖から恥ずかしそうに少しだけ俯いて顔を出した。
「なに?」
彼が両手でおずおずと差し出したものを見てわたしは困惑した。
水色のプラスチックの水鉄砲とビニール製の帆船? そう空気を入れて膨らますやつだ。
「ねぇ、おねえさん。おふろ入ろうよ」
わたしは一瞬虚を突かれて、次に狼狽した。
「え? わ、わたし?」
新一はくりくりした目を見開いて、わたしの答えを待っている。
「一緒に?」
「うん!」
さすがにそれはちょっと困る。
わたしを風呂場へ引っ張って行こうとする彼を何とか押し止めた。
「おねえさん、ババよりすき」
そんなこと言われたって困る。
「ババにはおっぱいはあるけどね、ちんちんはないの」
「そ、そう。それはおねえさんも同じだよ」
「でも、おねえさんは、ババじゃないもん」
「女だからおんなじだと思うけどな」
「ぜんぜんちがうよ〜」
いくら彼の中身がほんの子供とはいえ、見た目は十分に高校生の若い男だ。だいいち、他人の家にやって来て、そんなほいほいと風呂に入るわけにはいかない。
そう、少なくとも寛と一緒でない限りは。
わたしは困惑を押し隠して、彼の希望に応えられないことをなんとか伝えようと努力した。

「あ、あのね。おねえさん、その裸になるのちょっと恥ずかしいし、だめなんだ。ごめんね」
「だって、ババはあんまり遊んでくれないんだ」「早く体を洗いなさいって、ゴシゴシ痛いんだ」
「あ、でも、それはちゃんと洗わなきゃだめだよ」
「うん。おねえさんなら、痛くないと思うんだ」
「え? そ、そうかな」
「だって、いつもやさしいし、代わりにおねえさんはぼくが洗ってあげる」
それはもっと困る。そんな、そのそっくりの左手で触られたりしたら、わたしのたがが外れてしまう。
「ごめん。おねえさん“売約済み”なんだ」
すぐに彼には通じないと思い、言葉を探した。でも、出てこない。
でも、彼の表情は明らかにさっきまでとは異なって、またいつもの少し俯き加減に戻ってしまう。

「それにね、ババはあったまるまで出ちゃダメって言うの」
彼のトーンに諦めが混じり、目の輝きが喪われた。
「それはね、秋になって寒くなってくると風邪ひいちゃうからだよ」
その表情を見てわたしまで悲しくなって、俯いてしまった。

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十一月三十日

ぼくはおねえさんが好きです。およめさんになってください、といったら「ばいやくずみだから新一君のおよめさんにはなれないの、ごめんね」といわれました。ばいやくずみってなんだろう。ババにきいたらうりきれのことだっていってました。

かわりに、おねえさんにペンダントをもらいました。うれしくて、うれしくて泣きそうになりました。でも男の子は泣いちゃいけないって言われたのでがまんしました。「だいじにしてね」と言われたのでぼくは「はい」って元気にこたえました。きょうからまい日おねえさんのように首にかけています。しょくぶつえんが十一月でとうきへいえんになるので、おねえさんに会えなくなるのがつまらないです。だから去年学校でかいたクリスマスのしょうたいじょうを書こうと思いました。おねえさんはよろこんで来てくれるといいました。あしたかいてゆうびんでおくることにしました。

わたしは一気に最後まで読み通した。
最後の日、11月30日のページにカードが一枚、まるで見つけてくれることを祈るように挟まれていた。
クリスマスの招待状だ。

「夕実おねえさんへ」

何度も何度も練習したのだろう。「実」の字を書いたのははじめてのはずだ。
表に漢字で書かれたわたしの名前を見たとき、もう涙を止めることができなかった。

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《お風呂、入れてあげればよかったね。ごめんね。いきなり言われてちょっとびっくりしちゃって……》
《新一君、ほんとはおねえさんの裸が見たかったの? かな?》
《男の子だからそういうことに興味があってもおかしくはないよね》
冷え切ってかじかんだ指先に息を吹きかけた。
閉められたままの薄緑のカーテンを通してしんと静まり返った部屋に冷たい光が注いでいた。

今更遅いけれど、わかっていたけどできなかったせめてもの証に、償いに、わたしが供物になればよい? お線香の代わりぐらいにはなるかな。いや、そうじゃない。わたしが望んだのだ。傷のある手。その左手でまさぐられることをわたしは夢見て求めたのだ。石鹸がついたその手で躰の隅々まで、あらゆる襞を開かれて、すべての膨らみと凹みを揉みしだかれて、すべての穴を犯されることを願ったのだ。

彼の写真を遺骨にそっと立て掛けた。
《ごめんね》
声に出さずにもう一度わたしは呟いた。
コートの前を開ける。椅子の背に掛けてセーターを脱いだ。黒いジーンズを降ろして黄色の靴下を小さな椅子に揃えて置いた。躊躇いなくブラジャーを外し、椅子の背に引っ掛けた。ショーツを足首から抜き取って、左手の腕時計を外す。
もう、身につけているものは何一つなかった。わたしは自分のすべてを晒して彼の前に立った。
《これでいい?》
寒さはまったく感じなかった。
火照った躰に凍りつくような空気が気持ち良いとすら感じた。
《おねえさん、きれいかな?》
《見てもいいよ。触ってもいいよ。さぁ》
わたしは白い息を吐きながら足を広げ乱れた。
冷たい指先をいちばん熱く潤っている部分に埋める。前後に軽く擦るだけで、腰がわなないて砕けそうになる。
陰唇を指で左右に広げて腰を前に突き出す。
《ほら、おねえさんこんなになってるの。見える?》
《熱いから湯気が立ってるでしょ。合せ目のところ、ぷっくり膨れてるでしょ。そこを触って欲しいの。こりこり硬くなってるでしょ》
くらくらする快感に躰が震え、愛撫が欲しくて思わず声が出てしまう。
目の前に傷ついた左手を思い描き、冷たく冷え切った密室でわたしは静かに狂いはじめた。

挿絵1

『弔花』

古い机は直角の角が磨耗して薄光に滑らかに光って見えた。そっと指先でなぞるように触れてみる。つるっとした優しい肌触りが伝わった。
両手を机の縁に突っ張ると自然と内腿が角に触れた。躰を前に傾けながら体重を掛けるといちばん敏感な部分が机の角に触れて圧迫された。
堪え難いものが溢れ出る。
足を閉じたまま股間を支点にして机に寄り掛かる。
背筋を快感が突き抜けて躰全体が海老のように仰け反った。
鼻から抜けるように微かな呻き声が漏れてしまう。
膝を堅く閉じたまま躰を上下に動かすと、滑らかな角が襞にめり込んで固く勃起したクリトリスを直接刺激した。
両手をゆっくりと机から離すと、わたしは性器に上半身のすべての体重を掛けて机の角に乗っていた。躰を揺すりながら自らの胸に両手を這わせる。
膨らんだ乳房を掴み取り、先端を包みあげるように転がした。
押えようと思っても喉から湧き上がる声はもう止まらない。
強く突っ張った全身を一本の棒のようにして、わたしは自らの花芯を抉った。
上下に、前後に、左右に。
繰り返し、繰り返し。
波が押し寄せて躰がふっと軽くなる。
ぬちゃぬちゃと絶え間なく艶めかしい音が立ち上り、生臭い臭いが立ち昇った。
呼吸が乱れて吐く息があたりを白く染める。
はっはっと息を吸い込みながら、甲高いうめきが漏れる。
頭を振りながら仰け反りつづけ、躰全体が発熱し凍りついた空気に白く湯気が立つ。
傷のある手が暗い脳裏に鮮明に浮かび上がった。
触って。
強く摘み上げた乳首の刺激が脳天を突き抜けて、潮が引きはじめた。
津波が来る前のように、どんどん水がなくなって醜い黒い海底が現れる。
硬直した背中。腰は狂ったように角を求めている。
右手を背に廻す。
ぐちゃぐちゃに濡れている膣口に中指を、溢れた液体が湧き出ているような肛門に親指を深く捻じ込んだ。
傷のある手に犯されて、潮が更に引いた。
捻じ込んだ中指を滅茶苦茶に動かした。
目の前が真っ白に飛んで、火花が炸裂した。
角がひときわ強く花芯を抉ったとき、波が巨大な壁になって押し寄せた。
真っ黒な波にすべてが呑みこまれ、すべてがバラバラに砕け、すべてが重力を失って虚空に投げ出された。

気付いたとき、全裸のわたしは新一の遺骨を胸に抱きかかえるように机に突っ伏していた。

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遺骨と工作の間に挟まれるように置かれた、何の変哲もない茶封筒に気付いた。
事務用のいちばん安い再生紙のやつだ。
遺留品と薄い鉛筆で書かれていた。
こころなしか少し膨らんで見えた。
手にとってみると少し重い。逆さにすると、わたしの手の平にするっと輝きながら銀色の塊が飛び出した。
わたしは目を見張った。

瞬きもできなかった。
彼が握り締めて、指に絡まっていたペンダント。そう、見覚えのある形、わたしがあげたペンダントだった。
少し遅れて白い紙が手の平に舞い落ちた。
慌てて広げてみて、わたしは絶句した。
「被害者が握り締めていたものです。左手指に食い込んで絡んでいました。ご確認ください」

鎖が切れたの? どういうこと?
バラバラになった鎖と、銀色に光る丸い輪。
こんなもの、何の価値もないこんなもののために彼は命を落としたの?
高校生のとき買った、500円もしないイミテーションのアクセサリ。
わたしは愕然として、自分の行為がもたらした結果に慄いた。
わたしが彼にあげなければ、彼は死ななかった。
彼と知り合わなければ、彼は死ななかったのだ。

怖かったけれど、アクセサリは骨壷の中に落とし込んだ。
くすっと灰に埋まる音が聞こえて、わたしは手を合わせた。
日記と招待状はバッグに入れた。
茫然として、ただ機械的に衣服を身に着け、わたしは部屋を後にした。
道路に出ようとしたところで声を掛けられた。
記憶にある顔。
アパートの大家さん。
今、部屋でしてきたことの後ろめたさで俯いてしまう。
以前来たときに顔を合わせた。新一がけっこうなついていたのだ。

「あら。いつかの学生さんでしょ?」
「はい」
「あの、房江さんは……」
「ご覧の通り、いなくなっちゃったわよ。あなた連絡先知らない? 家賃は今年分貰ってるからいいんだけど……」
わたしは首を振った。
「遺骨はどうなるんですか?」
「それは今知り合いのお寺さんに頼んできたわよ。あのままじゃ困るから」
「そう、ですか……」「あの……房江さん、叔母って……、わたしてっきり母親だと……」
「あぁ、そのこと? あの人は叔母なの。彼女の妹の子なのよ、新一君」
「そうなんですか……」
「房江さんの旦那がね、妹とできちゃって、それが新一君。酷い女でさ、彼が障害児だとわかると旦那と一緒に逃げちゃった。実の姉に子供押し付けて」
言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「房江さんにとっちゃ、憎んでも憎みきれない旦那と妹の子よ。よく育てたとは思うけどさ、近所の悪餓鬼に苛められてる新一君を黙って見てるのよ。可哀相に」
「見ていられなくて、わたしが蹴散らすと房江さん、にーっと笑ってね……わたしゃ、ぞっとしたよ。なんかもう、世の中滅茶苦茶ねぇ。どうなっちゃうのかしら」

わたしはそれに答える言葉もなく、きらきらと輝くルミナリエの下を歩いていた。
寒さを通り越して、わたしの意識は凍り付いていた。
彼は幸せそうだった。
房江さんは彼の不幸を願った。
虐待? 折檻? それはわからない。
でも、わたしがあげたアクセサリに有頂天になった彼を見て、どう思ったのだろう?
彼が幸福の絶頂にあることをどう感じたのだろう。
彼を殴りつける房江さんには尋常でないものを感じた。
彼女は彼を育てることで復讐を果たしていたのではないだろうか?
自分を裏切って、厄介ものを押し付けていったかつての夫と妹に。
鎖を引き千切って、あの排水路の際に投げ出す。半分汚泥に埋まって雑草が生えている……
でもヘドロだから彼の体重は支えきれない。
新一君はいちばん大事なものを取り戻そうと、わたしとの約束を守ろうと、他のすべては目に入らない。

立ち止まったわたしの肩に道行く人がぶつかる。
舌打ちと怪訝なまなざし。非難と軽蔑。
わたしは底無しの悪意の前に凍り付いて立ち竦んでいた。

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約束の時間にちょうどぴったりだった。
佐々川商店のガラスの自動ドアをくぐると暖房の効いた空気に一気に頬が緩んだ。
レジにいた佐々川君がやぁ、というように軽く手を挙げた。
奥に向かって彼が大きな声を掛けた。
「出かけるぞ。後よろしくな」
向き直った彼が微笑んだ。
ざっとわたしの出で立ちを眺めて、背中に背負った小さなリュックからはみ出た花に目を留めた。素早く、レジカウンターのセロテープで、買ってきた花束の覆いのビニールを固定した。
「OK」
わたしは親指を突き出してそれに応えた。

昨日、電話で話した通りにわたしは完全武装していた。
風を通さないジャケットとパンツ。皮のロングブーツは寛に貰ったやつ。手袋はスポンジ入りで分厚い耐寒仕様だ。
彼の後について店の奥に入ると倉庫。瓶やケースが山と積まれた倉庫を抜けて裏口の先が店の駐車場だ。
ドアの脇に掛けられた黒いヘルメットを手渡された。
重いフルフェイス。顎紐を固定すると佐々川君がバイザーを固定してくれた。
サイドスタンドが掛けられた大きなオートバイに彼が跨ると一瞬の後にキュルっとセルが回り低い振動が足裏から伝わった。
倒されたフットレストに足を掛けて後席に跨った。左手は背後のグリップを握り、右手は佐々川君のスレンダーな腰に廻した。
振り向いた彼の目が「いいかい?」と訊いた。
わたしが黙って頷くと滑らかにアスファルトが動き出した。

久しぶりだったけれどカンはすぐに取り戻せた。
カーブを曲がるのにオートバイはハンドルを切らずに車体を倒して重心の移動で曲がる。当然、乗っている人間も同じバンク角で倒れるのが理想だが最初は倒れそうで怖いのだ。つい反対側に身体を起こしてしまう。もちろんそうなると重心移動が相殺されて曲がれるものが曲がれないということになる。
加速もブレーキもとても滑らかで彼の運転はとても丁寧で安心だ。寛はもう少し荒っぽかった。ほんの何度か、危ないからといって彼はあまり乗せてくれなかった。
わたしはすぐに慣れて、景色を楽しむ余裕すら生れた。

天気は晴れ。ときどき雪が舞う。
典型的な山越えの雪で積もることはない。道路は乾いて陽光が眩しかった。
バイパスを南に向けて走る。
中央の車線に出て大型トラックの縦隊をごぼう抜きにした。ヘルメットから出たわたしの髪が後ろになびいている。それを見たサングラスの運転手が親指を立ててサインした。

川を越えて隣市に差し掛かるところで左折した。一気に交通量が減り、のどかな冬枯れの田んぼが一面に広がった。見渡す限りの明るく淡い枯れ色と世界を半分に分割する空の青。
風を切る冷たさが身に染みてきたが、身体に伝わる振動は快適で心地良かった。

30分強で目的地が水平線上に見えた。
防砂林の濃い緑が帯状に青と褐色を分離して、もう海もすぐそこのはずだ。
取り付け道路を入って、無機質で素っ気無いコンクリートの箱の前でオートバイが減速した。邪魔にならない位置に彼がオートバイを廻す。エンジンを切ると冷たい西風の吹付ける音だけが耳に入った。

アルミのシャープな庇に向かって閑散とした駐車場を横切った。
その下に唯一の入り口らしきガラス戸があった。
南部広域下水処理場と描かれたブロンズのプレートがこのコンクリートの箱を説明するすべてだった。

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建物内に入ると殺風景な廊下の片隅に小さなカウンターがあって、その奥が事務室だった。
あらかじめアポが取ってあったとみえて、夕実ちゃんが二言三言話すと薄緑の作業服を着た係員が隣の扉から出てきた。
こちらへどうぞと、冷たい蛍光灯に照らされた窓のない廊下を進んだ。
緑色の光沢のある床と淡いグレーの壁が延々と続いていた。
角を二回曲がり、突き当たりの黄色く塗られた扉を開けると悪臭と薬品の入り混じった臭いが鼻を強く刺激した。扉を押えて待っていてくれる初老の職員の脇をすり抜けて部屋に入った。

一気に空間が広がって固いコンクリートの床に三人の足音が甲高く響いた。
背中で金属音を立ててドアが閉まった。
「そこの左手が幹線下水道からの流入口です」
左手を指差した職員が先に立って歩き出した。
15mほどで黄色く塗られたスチールパイプの手摺に行き当たる。
見下ろした底には黒い水が滞留していた。左側の三つの巨大な円孔が下水道の末端なのだろう。底なしの闇がぱっくりと口を開けていた。
下水はいったんプールのような池に溜められるようだ。小さな堰があってその手前にゴミが寄せ集まっていた。
「ちょうどあの辺りです」
職員が中央のゴミ溜まりを指差した。
プールの反対側へ渡るブリッジの階段を登った。鉄の階段を登りきると鈍い銀色に輝く金属のグレーチングが一面に敷かれ、足元が透けて黒く濁った水が見えた。
おっかなびっくり踏み出すと下から吹き上げる悪臭で胸が悪くなる。
長さ20mほどのブリッジのちょうど中央あたりで先を行く二人が立ち止まった。
手摺を握って夕実ちゃんが恐る恐る下のゴミ溜まりを覗き込んだ。黒い水が渦巻いて、ありとあらゆるゴミが浮遊している。
ゴミをすくい上げるのだろう。真上には鉄のレールが走っていてクレーンが端のほうに寄せられて今はバケットを開いたまま静止していた。

リュックを下ろした夕実ちゃんが花束を取り出して、職員に話しかけた。
頷いた職員がどうぞと手を差し出すと、花束が夕実ちゃんの手を離れ、10mほど下の黒い水に呑みこまれた。一瞬浮かんだピンク色の花はすぐに黒く染まりながら、他のゴミと見極めがつかなくなった。
手を合わせて黙祷する二人を見て、雅明も手を合わせた。
閉じたまぶたの内側に夕実ちゃんの横顔がほの白く浮き上がった。

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外に出ると急激な気温降下に耳がつんと鳴った。
傾きはじめた陽が駐車場を斜めに照らし、灰色のアスファルトをほんのり青く染め上げて、白いラインがピンク色に輝いた。
オートバイが長い影を落し、白い息を吐きながら前を行く黒ずくめの夕実ちゃんのきゅっと締まった腰とかたち良い尻が交互に赤く染まった。

突然彼女が立ち止まった。
その肩口から前方を覗き見るとオートバイと彼女のちょうど中間で蹲った影が首をもたげた。
犬? 二匹いる。
まったく無視したかのように歩き出した彼女を見て雅明は慌てた。
こんなところに飼い犬がいるわけがない。野犬だろう。
声を掛けるより早く、犬が躍動した。
でも、吼えてはいるが尻尾が盛んに振られていた。
後ろ足で立ち上がった大きな犬が夕実ちゃんの盛り上がった胸に前足を掛けてじゃれついていた。
夕実ちゃんが振り向いて笑った。
「この犬エッチ〜」
後ろ足で立ったまま、前足で夕実ちゃんの胸をパタパタ叩いているようにしか見えない。
よちよちと踊るように歩く犬がなんとも滑稽で、雅明は思わず笑ってしまった。

夕実ちゃんが犬の首を抱くようにアスファルトにしゃがみ込むと、二匹の犬は争うように彼女にまとわりついた。一匹は肩に乗りあがって顔をぺろぺろ舐めて、もう一匹は胸元に潜り込んでくるくる回っている。
夕実ちゃんは顔を舐められるたびに、きゃぁきゃぁ言っているけれど怖いわけでも厭なわけでもなさそうだ。冷たい風が乾いた駐車場を通り抜けると彼女の髪が赤く染まってきらきらと輝いた。

雅明は犬と戯れる彼女を我を忘れて眺めた。
凛と澄んだ真冬の大気のなかで、彼女は本当にいい女だと思う。
木南の女を見る目は確かだ。それは経験的に認めざるを得ない。
そして、単なる期待を超えた圧倒的なまでの魅力が彼女にはある。
惚れ惚れするような明晰な論理性を持ちながら、常人なら歯牙にも掛けない野良犬や障害者を公正な視線で見極める。いや、むしろ彼らには本能的にわかるのか。彼女が受け入れてくれる人間であることが。

「おまえ達。車に気をつけるんだよ。保健所が来たら逃げるんだよ」
夕実ちゃんはまだ野良犬の首を抱きかかえている。
「ごめんねぇ。お腹減ってるの? でも食べ物持ってないんだよ」

駐車場から出るまで二匹の犬は追っかけてきた。まるで俺が悪者のようだなと雅明は苦笑した。

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「お酒はダメだよ」
最後に言おうとした言葉に夕実ちゃんの柔らかい声が被さった。
苦笑いしたウェイターがメニューを持って立ち去ると、雅明は苦笑しながら向かいに座った夕実ちゃんを眺めた。
「きょうはどうもありがとう。忙しいときに時間作ってもらって感謝してる」
「あぁ、たまには息抜きしないとね。ちょうどいいさ」
最初、話を聞いたときはちょっと驚いたが、頼られること自体に悪い気はしない。
むしろ、彼女のような女性に頼られるならば嬉しいくらいだ。
「歩いて行けるところじゃないし、タクシーに一人乗っていくのもちょっと抵抗あるし、ほんと助かった。他にこういうこと頼める人いないんだよね、わたし」
「久野夕実の貞操を守る会の会長としては当然の義務ですよ」
「なにそれ」
夕実ちゃんが吹き出したのを見て、雅明もほっとした。
話の中身がシリアスな上に、もし、彼女の言うように底無しの悪意が秘められているならば、彼女も何らかの影響を受けて落ち込むだろう。
寛と半年付き合ったとはいえ、彼女は箱入りだと雅明は見ていた。

「わたしに関わるとろくなことがないって、疫病神なのかな。寛は怪我させちゃったし、新一君は死んじゃった」
「まぁ、寛の場合は別でいいよ。子供じゃないんだから。そうじゃなくて、みんな夕実ちゃんを求めた結果でしょ。彼らはそうしたかったからそうした。さっきの犬のようにね。それだけ魅力があるってことさ」
しばらく黙って俯いていた彼女が、躊躇いがちに、諦めたように語りだした。
「彼、新一君、左手にね、傷があったの。まったく同じ位置に、まったく同じ大きさで」
「最初にそれを見つけたとき、わたし震えた。手もね、そっくりなの。きめ細かくて、女みたいに細い指。寛の手は見ればすぐわかる。そのわたしが唖然として目が離せなかった」
「彼はわたしに優しいお姉さんを求めたのかもしれない。でも、わたしが求めたのは彼の左手なの」
「左手だけなの」
「ずるいでしょ? 酷いでしょ?」

何を言い出すのかと思ったら……。
あの高2のときの事件がそんなにトラウマになっていたのか。
それでこそ夕実ちゃんだな、と雅明は嬉しくなってしまう。
「そうかなぁ。その彼との付き合いは俺にはわからんけど、それも違うでしょ。だってさっき花を投げたとき、そんな風に考えてた? 手を合わせてる横顔は手だけのために祈ってた顔じゃなかったと思うよ」
「夕実ちゃんが自分の責に拘る気持ちもわからんではないけど、彼が期待したものは夕実ちゃんが期待されたと思っているものとは多分ずれてるし、その逆もまたそうでしょ。端的に言ってしまえば、彼は左手を求められることを望んだかもしれない」
彼女は目元を僅かに染めて俯いている。
傷のある左手が寛の投射であることは明らかだが、彼との間に何かあったのだろうか。

「言わずもがなだったかな。免罪符を公認してくれって言ってるみたいでちょっと嫌味だよね」
「自分でわかってるところがいいね。理子がいなかったら俺も惚れちゃうよ」
雅明はデザートのココナッツ・アイスをスプーンで口に運ぶ、夕実の上品な仕草にほんのちょっと見蕩れた。

夕実ちゃんのまぶたがぱっと開いて、いたずらっぽい表情が甦った。
「理子ちゃん、今度、高2?」
「そう」
「勉強見てあげてるの?」
「あぁ。たまにね。今年はこっちもあまり余裕がない」
「大学はどうするの?」
「私立なんだから、そのままエスカレータなんじゃないのかな」
他愛のない話が続いた。

「誰か高校のときの友達と会ったりしてる?」
「うん。葛西さんとか、山さんは同じだし、あけみちゃんとは朝、バス一緒だったりするし、食事したりしてる。啓子ともたまに会ってるよ。メール来るから」

「予定なかったら、良かったらクリスマスはうちに来ない? タダ酒出そう」
「わたしは大丈夫だけど……ありがとうね。一人でいたら余計落ち込みそうだものね」
「でもいいの? ほんとは余裕なんだ」
「そうでもないけど。じゃぁ、あけみちゃんも大丈夫かな?」
「訊いてみようか? でも、理子ちゃんは?」
「あそこはあれ。カトリックだから、ほら、ミサだよ、ミサ。朝から晩までやるらしいよ」
雅明は年末の予定が少しづつ埋まっていくことに心から満足していた。


インタールード − 夕実(終)


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