インタールード − 智美+夕実(前編)

待ち合わせた駅の改札で落ち合って、庇の陰から通りに一歩踏み出した。
鬱蒼と茂るケヤキの街路樹の陰に入ると、朝方の渇いた空気が少し湿ってきたように感じた。中途半端に賑やかな駅前通り。ほんの数分。彼と何度も通ったレストラン。
タイル張りのステップ、浅いオレンジ色のざっくりと荒っぽい塗り壁に小さく穿たれた扉。その重い樫の扉に、さっきまで晴れ渡っていた夏空を覆う雲が黒い影を落としていた。

“市場が休みのため、13日から17日まで休業させていただきます”
まったくもう!
そうだった。世間は盂蘭盆なのだ。
暗い焦茶色に沈んだ分厚い堅木に薄緑色のピンで留められた白いボードが一瞬、風で浮いた。
振り返った彼女の顔はちょっとくすぐったいような柔らかな笑顔で彩られていた。
「いい匂い」
澄んだ声が普段よりはずっと静かな雑踏の喧騒に浮き上がった。
彼女の白く尖った鼻が僅かに上を向いた。小麦が焼ける香ばしい匂い。
長い睫毛に縁取られた視線の向こう。通りの向かいには美味しい自家製パン屋があるのだ。
「パンにしようか?」
頷いた彼女の笑顔が雲間の陽光に一瞬きらめいた。

わたしが持ったトレイにどんどんパンが載せられていく。
チーズ、ガーリック、バケット。硬く香ばしい皮が擦れて渇いた音を立てる。
柔軟材が入っていない昔のパンだから噛み締めるほどに味が出る。最後に冷蔵ケースからトマトとバジル、玉子のサンドイッチを選んでレジにトレイを置いた。
けっこうな量。
「凄いお腹空いてるから……」
わたしの心配を見越したように彼女が応えた。

まだ温かい袋を手に通りに出ると思いもかけず冷たい風が頬を撫でた。
雨の匂い。
視界はネガのように暗転して、ときおり雷の重い響きが轟き渡る。歩き出した途端、大粒の水滴が頭を打った。
たいした距離ではない。
顔を見合わせて、目が行こうと語った。
小走りに通りを折れて近道の公園に踏み入ったとき、堰が切れたような猛烈な雨が叩きつけた。稲光と雷鳴の間隔が狭すぎてどちらが先かわからない。
パンのビニール袋をお腹に抱え込んで悲鳴を上げながら前屈みになって走った。
公園の向かいにあるはずのマンションが灰色の滝を透かし見るようにぼやけて滲んだ。
エントランスに飛び込んだとき、わたしたちは服を着たままプールに落ちたように水を滴らせ、歩く後に水溜りを残していた。

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身を挺して走ったおかげでパンは無事だった。
濡れた服をさっさと脱ぎ捨てて、彼女には乾いたバスタオルを手渡した。
「脱水して乾かさなくちゃ」
久野夕実は一瞬躊躇って、「すいません」と小さな声で答え、ぴったりと身体に張り付いた服を脱ぎはじめた。脱いだ服を適当に仕分けして洗濯機に放り込んだ。

予想通り。
大きなガラスのテラス戸の手前。
キャビネットに置いた写真立て。
取敢えずの替えの服をざっと選んでリビングに戻ると、彼女は眉一つ動かさず、それに見入っていた。
彼女が見ることを念頭に、周到に選び、何気なく逆さまに壁に向けて置いておいたわたしと木南のツーショット。
背後からわたしを抱いて、耳元に口を寄せている。蕩けそうに優しい笑顔と悪戯小僧の目。前に回された手の平が乳房を抱えあげるように持ち上げて、二本の細い指先がわたしの膨らみかけた乳首を挟んでいる。
――強く。
何度見てもそこに目がいってしまい、離せなくなる。
半開きの口から悦楽の吐息を漏らし、濡れた目を彷徨わせているわたしはあまりにも夢見心地で、溶けてしまいそうな表情を晒しているはずだ。

その写真を目を見開いて凝視して、やがて、それを見ているわたしに気がついた彼女は最初に置かれていたように写真立てをキャビネットに戻し、ちょっとだけ目元を染めて肩にバスタオルを掛けルーフテラスに出て行った。
「乾燥機よりもテラスに干した方が早いね……」
雷鳴は嘘のように去って、見る見るうちに疎らになりはじめた雲間から夏の光が垂直に差し込みはじめた。取って返して乾燥機のスイッチを切った。中身をカゴに取り出して、ルーフテラスの物干しを雑巾で拭った。
テラスの床を白と黒の強烈なコントラストで染め上げて、藍色の雲の隙間から差し込んだ日差しが荘厳なパノラマを演出した。東の地平線、遥か彼方に明るく晴れた海が霞んだブルーのラインになった。

タオルでごしごしと頭を拭っている久野夕実の背から尻、きゅっと締まった足首までが降り注ぐ灼光の下で白く輝いた。
なんの躊躇いもなく躰を向けた彼女は子供のようにはしゃいだ。
「気持いい。凄い見晴らし」
タオルを手に、前を隠しもせずに、夏の光に自らのすべてを与えるように躰を広げる。
まだ少女の面影を残す、伸びやかで、すっきりと無駄のない、若々しい肢体。
値定めするように無意識の、瞬間的な一べつ。
背丈はわたしよりも少し高いかもしれない。色白。思ったよりもずっと着痩せするタイプだろう。華奢な手足や細面の顔からは想像も出来ないほど胸もあるし、腰も豊かに張っている。鮮やかで柔らかい、花のような乳房の頂点は絶妙のバランスを保って若さと清潔さを主張している。そして一際目立つのは、生硬いカーブを描いた下腹の終端には陰毛がほとんどないこと。完全にその奥が割れて見えていた。
軽い驚きと予想通りの美しさ。その清潔な白さと大胆な伸びやかさが癪に障った。

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わたしの不躾な視線に気付いた彼女は、心もち広がって大胆に夏の光を受け入れていた太腿を閉じた。
「こんなに高い所に住んだことないから……、それにいろいろあって楽しそう」
彼女はルーフテラスに置かれた陶器の甕や鉢植え、白いテーブルと次々に目をやって、最後に雲を蹴散らし侵食していく空の青を仰いだ。
まるで躰のかたちを見せつけるように。
上を向いた顎と滑らかな白い喉。流れる髪。華奢な肩の下の釣鐘を伏せたような乳房の堅い弾力と丸い膨らみ。胸元のアクセサリが白く鋭く輝いた。優美な曲線は大きく膨らんで、先端にピンと尖った優しい花を咲かせていた。その色がまさに言葉通りの桜色であるところがなんとも羨ましい。引き締まったウエストと腰の女らしい丸み、すっきりとした下腹のラインは女のわたしでも思わず目を止めてしまう。
不意にその白く若い躰を木南が抱いて蹂躙したことを思い起こし、嫉妬と羨望が同時に湧き上がった。そして多分、木南しか知らない、木南によって女になって、女の歓びを教えられた未熟な若さに憎しみすら感じた。

「あ、自分でやります」
わたしが洗濯カゴから取り上げた下着を見て彼女が駆け寄ってきた。
恥ずかしそうに微笑んだ彼女は、抱きつきたくなるような滑らかな背筋を伸ばして物干しに自分の下着をぶら下げた。
シンプルで清潔な、如何にも木南が好みそうな白のブラジャーとショーツ。
……。
記憶の底を掠めたそのかたちとデザイン。……見間違えるはずがない。
「その下着……プレゼントでしょ? 去年の誕生日の」
虚を突かれた彼女の目が見開かれた。

意味を図りかねた表情にゆっくりと朱が差して、目元が柔らかな桜色に染まった。
「どうして?……知ってるんですか? 写真?」
わたしはゆっくり首を振る。
「ごめんなさい、覗いたわけじゃないの」
「えっ?」
「えっと…去年、ずいぶん前の話。ちょっとサボってたわけ。図書館の司書室で。眠くてさ……」
彼が一緒だったことまでは言う必要はないだろう。あの時、わたしの中に入っていながら彼女を見て硬さを増した悔しさが甦った。
「菊川さんの誕生日でしょ。あなたの翌日。まぁ、いろいろあって会議までの時間潰しに篭っていたわけ」
さすがに反応が早い。細面の凛とした顔が真っ赤になって視線が揺れた。
「撮った写真は彼にあげたの?」
一瞬迷って、こくりと頷いた久野が両手で顔を覆った。
白く細い指の隙間から、窺うように黒目が覗いた。
「あの……まさか…その後もずっと見てた…んですか?」
わたしはなるべく素っ気無く答えた。
「だって、出るに出られなくなっちゃって……」
背を向けてしまった彼女の白い肩にそっと手を触れた。
「べつに誰にも言ってないし気にしないで。それに、とってもきれいだったよ」
「恥ずかしい……」
背を縮こませて顔を覆ってしまった。

**********************************

そう、あの日。11月の12日。久野の誕生日が11月の11日だからはっきりと憶えている。その翌日が菊川の誕生日だった。
夏ごろから菊川の態度に混じり始めた余裕に加え、その透き通るような容姿に匂い立つような女らしさが加わったことがずっと気になっていた。秋が深まるにつれそれは確信に近いものになっていったが、一方で、体育祭で木南と久野が演じたパフォーマンスのように、あくまでも一時的なものかもしれないという感触も断ち切れなかった。
木南は何も言わなかったが、だからといって、へりくだって尋ねることはわたしのプライドが許さなかった。教員に対する管理強化で報告書の類が急増し、残業だけでは処理できない仕事を持ち帰るまでにわたし自身が忙しくなっていたことも言い訳にしていいだろう。
すっかり余裕を失っていたわたしは、あの日、菊川の目がきらきら輝いているのを見て、担任教師の特権を行使して木南を呼びつけた。
菊川が期待しているはずの、二人きりの誕生日をぶち壊しにしてやるために。

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「飲み物はビールでいいかな?」
「わっ。いいですねぇ。晴れてきたし」
明るいテラスで大胆に夏の光と戯れる久野を見て、しっかりと躰にタオルを巻きつけている自分がひどく堅苦しくて詰まらない女に思えた。
パンを皿に盛り、ハンディタイプの俎板とパン・ナイフ、冷やしたグラスをトレイに載せて、小皿にピクルスと黒オリーブの酢漬けを添える。
あとは白桃とヘビ・イチゴの濃厚なジャム。バターはちょうど発酵バターがあったし、うっかり値札を見間違えてレジで目の玉が飛び出た翡翠色のオリーブ・オイルもある。
普段何もしないわりには準備は万端だ。いや、何もしないから思いつきで買い揃えた物がいつまでも残っているというべきか。わたしの食生活は彼と一緒に食事を摂らなくなって、すっかり以前の状態に逆戻りしていた。
テラスの白いテーブルにトレイを運ぶと気付いた彼女が手伝いに戻ってきた。
冷蔵庫から冷えた缶ビールを二つ取り出して、彼女が未成年であることを思い出した。
「教師の癖に未成年者にお酒出したりして拙いかな……」
といいつつ、躊躇いもなく彼女のグラスに黒ビールを注ぐ。
いつ聞いても気持ちよい音。炭酸が空気に弾け、柔らかな泡が盛り上がる。
「母はいい顔しないけど、父とはたまにググッと飲んでます」
にこにこ笑った笑顔が眩しい。
「泊まっていけるんでしょ?」
似た雰囲気、似た笑顔、木南好みの笑顔。
「ええ。ご迷惑でなければ……」
たぶんわたしも彼女のように笑うのだろう。
「わたしが誘ったんだから……。じゃぁ、たっぷり時間はあるね。夜は岩牡蠣にしよう」
パンを切るナイフの手捌きはちょっと危なっかしい。聡明な瞳が真剣になって悪戦苦闘しているのを見て少しほっとした。

一人ではない久々の食事だった。夏の開放的な空気とアルコールが少しづつわたしたちの垣根を溶かし始め、饒舌さが増した。
あまり喋らない子だと思っていたが、そうでもないようだ。半分乾いた髪が癖になっている。手を伸ばし、指で梳いてやるとおとなしくされるがままになって照れている。胸を巻いたタオルが緩んで落ちたが、もう気にするのが面倒になった。

挿絵1

『無謬の夏』

「ねぇ、あなたと彼の関係って不思議でしょうがないんだけど……」
傾げた小首に光が回り込んで、長い睫毛が半分閉じた。
「三年生の頃だけど……付き合ってるようには思えなかったし、会って話をしてるわけじゃないし、でも体育祭のときはまるで恋人同士にしか見えなかったし…どういう感じだったの?」
ぱっと開いた睫毛。彼女の黒目がくりくり動いて真っ青に晴れ渡った空を見上げた。
「えっと、なんだろう。自分でもよくわからない……。付き合ってる人がいるのに携帯や家に電話するのは迷惑かなって思って、だから週に一回か十日に一回くらい…わたしが勝手にメールで詰まらない文章書いて…でも、返事は気紛れで来るときもあれば、来ないときの方が多くて、彼の彼女はわたしじゃないんだと思うと辛くてどうしようもないときもあったけど……」
「ふ〜ん、全然外では会ってなかったの?」
「はい。学校でたまに…偶然顔合わせて話とかしたことはあったけど…ほんのちょっとだけ」
「でも写真は送ったんでしょ? 彼に」
「あぁ、あれ……恥ずかしい。携帯じゃ写りが悪いし自分のデジカメなくて困っちゃって……。それに、その、靴とか手袋だったら見えるから《使ってるよ》って彼にもわかるけど、下着だったから…でも、ちゃんと使ってて、気に入ってて、ありがとうって知って欲しかったんです。サイズも…完璧にぴったりだったし」
「返事はきた?」
頷いた彼女の表情は、まるでそのメールを開くときのように本当に嬉しそうだ。
「オレの見立に間違いはないって……でも、備品のデジカメなんかでそんな写真撮るんじゃないって、壁に耳あり障子に目ありだから気を付けろって怒られて……」
「うん、そうそう。わたしみたいのがいるから」
「そしたら…クリスマスに小さいデジカメ貰っちゃった」
ふ〜ん。顔には出さないが何だか面白くない。
「凄い悩んじゃって」
「ヌードでも撮って送ったわけ?」

彼らしいというか、彼の考えは手に取るようにわかるが、それに応えるこの子もこの子だ。
「あの後…見ればあなたが彼を変わらずに好きなのはよくわかったけど…そのアクセサリとか、あのブーツも彼のプレゼントだったんでしょ?」
自らの下着姿を写真に収めた後、彼女が彼に貰ったプレゼントを使って自らの躰にした行為は今でもはっきりと記憶に残っている。
さすがに既に仄かに染まっていた久野の目元が更に赤くなって下を向いた。

「はい。そう……。全部彼に貰った。わたしそういうの…それまで一度もなくて、馬鹿にしてて、でも、貰ったらすごく嬉しくて、自分が恥ずかしかった。彼と会えなければ、それしかわたしにはなくて……。でも、彼には絶対言わないでくださいね。そんなこと知られたら恥ずかしくて死んじゃう」
「あら、彼喜ぶよ、絶対。そういうのびっくりするくらい敏感だから」
事実、彼はわたしを目の前にしながら喜んでいた。表情を消して、何気ない振りを装いながらも隠し切れない興奮がわたしの中の彼を怒張させていた。
それぐらいわたしにだってお見通しだ。
「そうですよね……。わたしも本当はたくさん見て欲しいし……わかってくれてると思う」
こっちが恥ずかしくなるほど率直に、あられもない言葉を吐ける彼女が羨ましかった。今更ながら、忘れていた悔しさと苛立ちが金属を腐食させる酸のようにひりひりとわたしを苛んだ。結局、この子たちはちっとも切れていないのだ。表面的で直接的な付き合いはないのかもしれないが、いちばん肝心の奥底ではしっかり繋がっている。繋がっていることを双方ではっきりと意識している。夢にまで出てきた結ばれた二人のイメージは、あながち的外れではなかったということか。悪い予感だけはけっこう当たるものだ。

「見せてくれる?」
彼女の胸の谷間に手を伸ばすと、一瞬どぎまぎしたように視線が揺れた。
手の平に載せた白く輝く小さなシルバーの塊。けっこう重い。
「ホンモノ?」
彼女が首を傾げて柔らかく微笑んだ。
「わたし……そういうの全然わからなくて。プレゼントしがいのない女なんです」
月のような球体と包み込むような葉は月桂樹だろうか。細かく掘り込まれたデザインが面白い。すっと手を離すと華奢な首から下がった鎖の先で小さな球が重そうにきらきら光りながら左右に揺れる。突き出た胸の先端の色付いた膨らみに鎖があたって振幅が徐々に小さくなった。

「女の最大の特質は、より良い男が目の前に現れれば前の男なんかきれいさっぱり忘れてしまえることなの。まるでなかったことのようにね。でも男はそうはいかない。全部憶えているの。彼なんか特に……」
久野が小さく笑って頷いた。
「きっと、女から見ればタダの自己満足にしか思えないけど、ロマンチックなんでしょ。彼だって忘れていない。あなたを抱いて、有頂天にさせたこと。あなたを好きだったこと。全然忘れてない。悔しくなるくらい」
「そりゃそうよ。あなたみたいな子に惚れられて…悪い気はしないどころか得意満面だったと思うの。だから、全部、微に入り細に入り憶えてる。憶えていてわたしと比較する」
「困っちゃうよ。直接言われたことも、訊かれたことも一度もないけど間違いない。そんな気がする」
傾げた首筋がしなやかに日光を反射した。
「でも比較して先生の方が良かったから…ずっと付き合ったんじゃないですか?」
「そうかな……」
他愛ない話だが、そう言われればやっぱり嬉しい。

久野が胸元のアクセサリを人差し指と親指で摘み上げて離すと、逆光気味の胸の谷間を背景に鎖が振り子のように揺れた。
「わたし……オナニーばっかりしてるんです」
なんの臆面もなく言われてわたしの方がどぎまぎしてしまう。
「彼のこと思い出しながら一日中布団被ってたり、誰もいないとき家で裸になったりして。明るいところで、それも外の太陽の光を浴びながら裸にされて抱かれるのが大好きで、変態みたいですよね。付き合ってた頃、けっこうそんな風にされて、躰に自信ないけど見られるの嫌いじゃなくて、見てくれるの嬉しくて……それが当たり前みたいになっちゃって……お金なかったし、それにわたしホテルとか、不自然に暗いところ好きじゃなくて」
「あ、そうなの? 意外とそういうの気にしない方かなって思ってたけど。うん、でも彼は好きじゃなかったね。なんていうの? 風俗っぽいやつ……。いっつも明るいところで脱がされてこっちは恥ずかしくて堪らないけど、太陽の光の下で見るのがいちばんきれいだとかって言われちゃうともうダメよね。なんでも言うこと利いちゃう」
「ええ。エッチなビデオとか見てもちっとも立たない…だって、やだ、恥ずかしい…面白くないって言ってた」
「それはあなたのほうがずっときれいだから……決まってるじゃない。わたしもそう思う」
「え? そ、そうですか?」
困ったように伏せた顔が可愛らしい。
「先生は……オナニーとかしないんですか?」
真正面から見詰められて、しどろもどろになってしまう。
「え? あ……、ちょっとだけ」
何を今更カッコつけてるんだろう。彼女の真摯な視線に軽い罪悪感が込み上げた。
「あ、ちょっとでもないかな。ほんとはあなたと同じ。休みの日なんか一日中してる日もある……。彼のことばっかり考えてるとおかしな気持ちになっちゃうのは同じ」
安心したように彼女が微笑んだ。

「今日みたいな日って思い出しちゃうんですよね。目を開けると真っ青な空が飛び込んできて。明るい光の中で彼に抱かれてて、目を瞑っているとすぐいきそうになっちゃって、でも一緒にいきたくって、目を無理やり開けて我慢して、焦点合わなくて、わたしの上に乗っかっている彼の影と空の青さだけが見えて、彼の息が聞こえて、わたしはわぁわぁ喚いてて……」
一瞬視線が合って逸れて、真っ白な太腿がぴっちりと閉じた。
「わたし…なに言ってんだろう。恥ずかしい」
頭をぶんぶんと左右に振って、振り払いたいものはわたしにも手に取るようにわかる。
彼女の太腿の合わせ目で、立った今、じゅんと溢れたものはわたしの同じ場所でもその音がまるで聞こえるように溢れ始め躰を潤している。
滴り落ちたものは黒く塗られた木の椅子にくっきりと濡れ跡を作っているだろう。
これでは先に立てない。
「彼が最初だったの?」
こくりと頷いた彼女の黒目がすっかり潤んでいた。

「でも、わたし、最初なんにも知らなくて。もう、びっくりすることばかりで…。最初は死ぬほど痛かったけど、一ヶ月もしたら自分が感じてるんだなってわかって、気がつくとエッチなことばっかり考えていて愕然としちゃって……えっと、その……お尻持ち上げて後ろから犬みたいにしたりするじゃないですか……。ああいうの絶対しないって思ってたのに、いつの間にかしてて、それも自分からして欲しいって思ったり……馬鹿みたいに足広げたり……自分がどんどん自分じゃなくなっていくようで怖いくらいだった……」
「そんなもんじゃない? 女って。なんとなく気持ち良くなることは子供の頃からわかってるけど、好きな人にされるのって全然次元が違う気持ち良さだもんね。それに彼、セックスは上手よね。胸とか足とかすべすべで女の子みたいだけど、抱かれるだけで溶けちゃうみたいな……けっこう力強いっていうか…なんなの? 女の気持ち良さみたいのがわかるのかなって……」
「えっと、あの…そんなに人によって違うもんなんですか? その、上手いとか下手って」
「わたしだって彼以外は学生のときに付き合ってた人しか知らないけど……、う〜ん、こっちの気持ちの問題もあるんだろうけど、やっぱり彼だともっともっとって気持ちになっちゃうから…ずいぶん違うと思う」
「そうなんですか……」
「でも、個人差あるから…それは経験しないとわからないんじゃないかな。エラソーなことは言えないけど、あんまり理想化しないほうがいいと思う」
「わたし、彼と付き合ってほんと世界が変わって見えたんです。たった6ヶ月でしたけど。彼と会えるのが楽しくてしょうがなかったし、手繋いでるだけでもうメロメロで、抱かれることの気持ち良さっていうか……、本とか読んでいてそれまで理解できなかった感情や感覚が、こう、無条件にわかるようになって、今までの勉強は何だったんだろうってかなりショックだった……」
それはわたしも同じだ。あまり意味のある問とは思えなかったが、なんとなく口が動いた。
「あなた…他の男と付き合おうとかって思わないの? けっこうもてるでしょ?」
柔らかい髪が肩の上で小さく左右に動いて黄金色に透けた。
「先生はどうだったんですか? 彼と付き合って……」
さり気なく切り返されて、かえってどぎまぎしてしまう。
「え? わたし? わたしはちょうど1年。春から春まで。最初、やっぱり立場があったから心理的な抵抗はずっとあったのだけど、一月ももたなかった。誘ったのはわたし。彼は迷ってた。悪い教師でしょう?」
久野がカラカラと笑った。
「最初のとき躰中にキスされて……、足の指からお尻の穴まで、わたし泣いちゃった。それまでね、あまり好きじゃなかったの。触られたり抱かれたりって。男ってすぐいやらしい目で見て、触りたがるし…でも彼は違った」
わたしと彼の付き合いのきっかけともなった早春の怪我の一件を簡単に話して聞かせると、久野が目を見張った。
「なんか、すっごく彼らしい」
「だから逆に夢中になっちゃった。最初は年下を落としてやろうって思ったの。でもすっかり逆に虜になっちゃった。一緒にいて撫でられて触って揉まれて……抱かれていないと我慢できなくなるの。あなたも言ってたじゃない。抱かれていないと気が狂いそうになるって。ほんと同じ、わたしも」
数え切れないくらい何度も彼がキスした自らの乳房を見やった。

**********************************

「菊川さんとか西田さん。会ってない?」
卒業した生徒のことをいちいち振り返っている余裕はないが、彼女達はちょっと特別だ。まさかわたしを出し抜いて抜け駆けしているとは思えないが、無視することはできない。
「啓子は今予備校通ってます」
「? 来年もう一度受け直すって意味かな?」
「ええ。多分」
まさか彼と共に四年間を過ごそうなどと考えているわけはあるまいな……と思いつつも、あの極めて現実感覚に溢れた西田啓子がそれ以外のどんな理由でわざわざ大学を受け直すというのか。
思わず、溜息が出た。
「やっぱり工学部なわけ?」
こくりと頷いた久野の表情が少し歪んだ。

あの子もよくわからない子だった。わたしに対する反発もあっただろうが、大人びた外見もさることながら、本心がさっぱり掴めない扱いにくい生徒だった。おまけに彼に対するこれ見よがしで馴れ馴れしい態度はわたしをいつも感情的にさせたが、それはまだよい。短いスカートと胸元を開けたブラウスで彼に迫ることよりも、もっと何気ない自然な動作が気に入らなかった。まるで妻が夫にするような……例えば彼の乱れた襟をさり気なく直したり、曲がったネクタイを真っ直ぐにするような気遣い。妙に家庭的で常識的な振る舞いにはっとさせられることが何度かあった。
それは取りも直さず、わたしが気の利かない女であることの証明でもあるわけだが、西田とタイプは異なるが菊川もどちらかといえば“よく気がつく女”だった。

「菊川さんは?」
「あけみは…偶に電車やバスで会うし、時間帯も方向も同じだから……食事したりお茶飲んだり……」
「彼女は知ってるのかな? 連絡先」
滑らかな肩の上で久野の髪が優しく左右に揺れた。
「あけみも溜息ついてたから……。嘘は言わないと思います。あけみは彼が引っ越すとき、駅まで送りにいって……」
あぁ、そうだった。わたしも彼が東京に発つ日時は聞いていたが、年度末の平日でそれどころではなかった。その前夜、まるでちょっと近くのコンビニに行くような調子で「じゃぁ、ちょっくら行ってきます」と彼から電話が掛かってきて、それっきり。
「……でも、鮎ちゃんがべったりでキスもできなかったって」
「鮎ちゃんって妹さん? だっけ」
「ええ。凄いきれいな子で……嫌になっちゃう」
「へぇ。会ったことあるの?」
「ええ。何度か。彼の家に行ったとき」
「で、菊川さんは相変わらず?」
「はい。でも、あけみ、会うたびに見違えるほどきれいになって……羨ましいくらい」
あぁ、そうだった。どちらかといえばいちばん厄介なのはこの子ではなくて、菊川かもしれない。一見おっとりしているように見えるが、一度決めたら梃子でも動かない頑固さと粘り強さはあの儚げな外見からは想像もつかない。何度騙されそうになったことか、苦い思いが込み上げた。彼の肩に頬を乗せて、恥ずかしげもなくありったけの魅力を振り撒いていた菊川の表情が目に浮かんだ。

「あなたは媚びないよね、男に」
一呼吸おいて、久野が困ったように笑った。
「だって、そういう魅力ないから」
そんなことはないと思うが……。夏の光に晒された顔も躰もとても魅力的だ。むしろ、この子の場合はその優秀過ぎる頭脳が最大のウィークポイントになっている気がする。ほんの10分も話せば容姿目当てで近づいた男は尻尾を巻いて逃げ出すだろう。この子にとって彼はその逃げ出さない唯一の男だったわけか。
「どうしていい男って少ないのかな。やんなっちゃうね。気付いてみればみんな同じ男を好きになっているって不思議じゃない?」
「わたしは女だから……いずれ子供を産むなら自分なりに考えていちばん良い遺伝子が欲しい。最高のパートナーのものが一つあればよくて、それ以外はいらない。そして、今までの経験の中からわたしが見つけて選んだのは彼なわけで……だから抱かれてもいいと思ったし、抱いてほしいと思った。多分、先生や啓子やあけみも同じですよね」
白い喉が滑らかに動いて、グラスに残ったビールを一息に飲み干した。
「でも、もしも男もそうだったら、お互いに最高ばかりを探し求めて、結局めぐり会えなければ生物は絶滅しちゃう。だから、男は多様性を求めてなるべく多くの女に自分の遺伝形質を伝えようとするのかな。遺伝的な病気や疫病で一気に絶滅しないように、自分の子孫が生き残るように生物としてなるべく違った相手を選ぼうとするのが本能だと思う。
でも今は社会制度や倫理がそれを縛っていて、強いオスが多くのメスを得ることを禁じて、弱いオスにも均等にメスをあてがう。強いって別に力じゃなくて賢さだと思う。生き残ることに強いって言う意味。でも、その価値観の元で育ったわたしたちはそれが当たり前だと思って、そこから逃れられないんじゃないですか。生物としての本能レベルと社会規範がどうしようもなく乖離しているからでしょう。その代わり、得られた文化や経済的安定はもちろんあると思いますけど」
ゆっくりと正確に話す彼女に見蕩れてしまった。
「……資本主義のための父系主義だけどね。アンチ・フェミニストが喜びそうね。わたし最初に脱落しそう」
三缶目のプルトップを引いた。グラスが再びダーク・セピアに満たされる。発泡したクリームがグラスの頂部に盛り上がり僅かに縁を越えた。

「ねぇ、彼の居所知りたい? その気になればわかるよ、多分。彼のお父さん高裁だっけ? わたしが直接行くか、ちゃんと文書で学校名出して問い合わせれば父親の転勤先教えてくれると思うの……」
久野の口元に透き通るような笑みが広がった。
「先生はどうしてその気にならないんですか? 新幹線乗れば二時間だし、お金だってあるし、毎週会おうと思えば会えるのに」
「う〜ん、プライドかな。カッコつけるほどのものは何もないけど。わたしはここにいて前と変わらず勤めてるわけだし、“ちょっくら行ってくる”んだから、そのうち還ってくるでしょ……という強がり」
「わたしも最初は焦ったけれど、最近はちょっと考え直してます。希望的観測かもしれないけど、付き合ってもいない三年のときプレゼント貰ったりしてるし…今年はどうかわからないけど……忘れられてはいないんじゃないかなって」
「今ごろ必死に勉強してるかな?」
「う〜ん、アチアチとか言いながらビール飲んでますよ。バタイユの『青空』とか読みながら」
二人が同時に見上げた遥かな虚空で、完璧な青が半球を染め抜いていた。


インタールード − 智美+夕実(前編)(続く)


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