黒と白の領地(1)

序章:Déjà vu

7月もまだ始まったばかりだというのに真夏のような日が続いていた。
取材から戻った山科楓(かえで)は、編集室のヤニで薄汚れたエアコンの前に陣取って、シャツの襟をぱふぱふ摘み上げながら胸元に冷気を送り込んでいた。
「写真すぐ見ますか?」
後ろを通ったカメラマンが声を掛けた。
「5分待ってください」
この場所をすぐに動く気にはなれなかった。

楓は去年この中堅出版社に就職した。それも彼女の希望通り事務でも営業でもなく、いきなり編集に配属された。
もちろん今のところ、部内での扱いは雑用係兼長時間肉体労働者でしかないが、いくつかある雑誌の中でも比較的柄が良い、隔月刊と時間的な余裕もある看板美術雑誌の編集部に潜り込むことができた。
最初は有頂天になったものだが、今はそこまで楽天的ではなかった。一つは今は亡き父の妹であり、最近それなりに著名なカメラマンでもある下条律子が推薦してくれたらしいこと、そして決定的と思われるのは会社の大株主でもある母の実家の立川家の力が働いたからだろうと思っていた。
《今年もまた夏が来る》
楓の頭の中で封印していた記憶が鮮烈な彩度とともに少しづつ甦り始めた。

「楓ちゃ〜ん、準備OK〜」
一気に現実に引き戻された。
汗が引いて助かった。と同時に頭にきた。
「ちょっと! 何度言ったらわかるんですか」「名前で呼ばないで下さい!」
着ているものだけは若いが実は中年、家に帰れば妻に加え子供三人が待っているという外注カメラマン氏は人をからかうのが趣味らしい。もっともそれは他の社員も同じだからこの頃はもう諦め気味で、どうでもよくなってきた。雲の上の人である編集長は最初「山梨さん」と呼んだ。それに比べればはるかにましなんだろう、そう思うことにしていた。

今撮って来たばかりの写真がサムネイル画像になってモニターに表示されていた。
さ来月刊の特集は「遊戯」。古今東西の美術的に価値のあるゲームを俯瞰的、あるいはその由来や歴史を中心に眺めてみようという企画だった。ゲームといっても種類は膨大だ。
例えば、西洋ならダーツにビリヤード、東洋の投扇、輪投げなど体を動かすものから、トランプに代表されるカードゲーム、ボードゲームなら西洋のチェス、東洋の将棋、囲碁に至る知略型まで膨大な種類が存在する。それほど人類は暇だったのだろうかという疑念が吹き飛ぶほどの種類があるのだ。
更に、美術品としてはニッチなせいか、これまでもそれほど統計的に分類されてはいない点が特集として取り上げる価値があると考えられたらしい。そして、楓にはその中でも絵的に見映えのするボードゲームが担当として割り当てられていた。
既に先週から中堅の美術商や個人蒐集家をいくつか取材していて、今日はそのなかでもかなり視覚的にインパクトのある、おもしろいものに巡り合えた。

取材先は歴史はそれほどでもないが、なかなか目利きだと業界でも一目置かれている古美術商だった。それは普通のものよりはかなり大ぶりな、75cm角ほどはあるチェスボードと、それに見合った大きさの迫力がありながらもなんとも言えない柔らかい形状をした二色の駒だった。
現代のチェスは、キング、クイーン、ビショップ、ナイト、ルーク、ポーンの6種類、計16個の駒で争われる。キング、クイーンはそれぞれ一つ、ビショップ、ナイト、ルークは二つ、ポーンは8個、計16個が一揃いで、8x8の市松模様の盤上で争われるのが一般的だ。

中世には既に一般化していたといわれるチェスの駒のデザインは、人形のような具象に近いものから、幾何学的立体に至るまで、ありとあらゆるバリエーションが存在した。実用的なものから飾りに近いものまで、大きさもデザインも千差万別だ。近代に入って量産品が登場するまではすべて手作りなわけだから、古くて質の良い由緒のあるものは当然工芸品としてそれなりの蒐集対象になっていた。もちろん、駈け出しの楓が知っていたわけではなくて、取材の割り当てと内容、方針と下調べをチェックする副編集長の受け売りである。

安価な市販品だと駒が同じならばすべて同じ形状であるのが普通だが、その駒は同じポーンでもすべて微妙に形が違い、白と黒の同種駒は明らかに異なる形状だった。材質は黒が黒檀、白が象牙、それぞれ色の違う部分には紫檀を染色したものが象嵌されているという。ずしりと思い重量感は底部に鉛を注入してあると聞いた。いちばん大きな黒のキングで高さ20cm弱、最大直径は4、5cmほどもある。
全体の形状はいわゆる著名な値打ちものとは逆に、抽象的とすら云える非象徴的な形態を微妙な曲線と色の組み合わせで作り上げていた。滑らかな突起と凹みが連続して、尚且つ直線的な力強さを失わず、褐色が黒と白に溶け込んでいた。たとえばナイトは普通、馬の頭部を模した形状が一般的だが、このナイトは馬の全身像だった。それも猛だしくいなないているわけでなくて、四肢を畳んで頭を胸につけていたり、背伸びをするように脚を一点に集めて頭と尻尾を丸めていたりと何とも柔らかい独創的な形状だった。
そして、目を近づけて更に驚いた。のっぺりとした黒にも白にも、極めて微細な指紋のように滑らかな細密彫刻が施されていたのだ。うねるような波紋が手に馴染んで頬摺りしたくなるほどの触感だった。もちろん、象嵌の加工精度も申し分なく視覚的にはもちろん触覚的にも継ぎ目を感じることが出来なかった。

「龍なんですかね? このデザイン」
美術商の社長を前にして、なんとなく思い付きで楓が訊いた。
社長は外国人のようなポーズで手を広げた。
「わかりません」「どうしてそう思います?」
「う〜ん。黒檀とか紫檀って中国ですよね?」
痩せて白髪が目立つが、思いの他磊落な社長だと聞いていた。
「起源を辿れば、チェスも将棋もインドに行き着くそうですが、これはヨーロッパのものだと言われております。」「まぁ、確かに材料は東南アジア産でしょう」
「同じデザインで現存するものは約10組。もちろん個人が秘蔵しているものは含まれていませんが、17世紀の始めごろ、ナポレオンに献上されたものというのが定説です」
「それがどうして日本に?」
「これはバブルの頃に某実業家が法外な値段で買い付けたものと云われております」

更に盤が凄かった。一見、単純な市松に塗り分けられているように見えるが、これも細かい絵が彫り込まれ染色されていた。しかもその64個のマスにそれぞれ異なる彫刻が施されているのだ。
「これは何かの像ですかね? 仏教?」
「う〜ん。それはヒンズー教でしょう。ミトナ像と思われます」
取り敢えずは知っている振りをしてと……、頷いた楓は後で調べようとせっせとメモを取った。横では一緒に来たカメラマンが角度を変えながらフラッシュを焚きながら撮影をしていた。

「この盤って、もしかしたらバラバラになりません?」「その、64個に」
えっ? と、社長の顔が驚いたような表情になってすぐに元の笑顔に戻った。
「よく、ご存知ですね」
言った楓がいちばん驚いた。
昔、子供の頃、二色の寄木細工をばらすと二度と元のように組み合わせられなくて悔しい思いをしたことがあった。でも、姉の細くて白い指が器用に動くと、ばらばらのパーツが魔法のように元通りになって、わたしは嬉しさと悔しさを同時に味わっていた。そんな記憶が微かに浮かんですぐに消えた。

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楓が生まれ育った家は都心から電車で一時間ほどの大きな川が流れる古い街道筋の街にあった。広い敷地には鬱蒼と木々が繁り、ありとあらゆる花、それも横文字の聞いたこともないような洋花が咲き乱れていた。
門を入ると左手に母屋、池を挟んだ右手に離れがあって渡り廊下で結ばれていた。
渡り廊下の背後には二階建ての蔵と物置小屋が少し離れて建っていた。

植物の分類学者だった叔父とその妻、その子供である二人の従兄弟、立川貴生と幸生、当時は大学病院の勤務医だった父、山科修。それに母と姉が楓の家族だった。
叔父が代々続く立川家の当主で楓の母がその妹にあたった。二組の家族は賢く聡明な子供達を持って、絵に描いたような幸せな生活を送っていた。しかし、おそらく立川家と山科家にとって最良だったその時期は長くは続かなかった。

楓が小学校に上がった年の夏に最初の悲劇が起こった。
二つの家族が夏の休暇で出掛けた、名もない小さな山のなんの変哲もない岩場だった。太陽に照らされた焼けた岩だけが累々と続き、その圧倒的な景観に子供たちは歓声を上げてはしゃいでいた。
その山の展望台に登った帰り道。
地鳴りと共に下りの登山道は落石で覆い尽くされた。
貴生と幸生の両親と楓の母がその下に呑まれて死んだ。従兄の貴生は内臓破裂の重態、幸生は右足を落石に直撃され、楓も大きな怪我はなかったものの岩に跳ね飛ばされて意識がなかった。最後尾にいた父と、姉の桐(きり)だけが無傷だった。姉は血だらけになって意識の朦朧とした貴生に抱きかかえられていて、かすり傷一つなく奇跡的に助かった。放り出されていたら姉も命はなかったか大怪我をしていただろう。貴生は半年間の入院を経てなんとか回復したが、幸生の足は元には戻らなかった。切断せずに済んだことが不幸中の幸いだったと後になって父が語った。

楓と二人の従兄弟は同時に母を失ったが、その日から楓にとっては四つ離れた姉が母になった。残された五人は、楓が全寮制の中学を受験し、家を離れる日まで小さくなった一つの家族のように緑の深い屋敷でひっそりと暮らした。

挿絵1

『花の庭』

第一章;過去

道路から見渡す限りは7年前と何も変わらなかった。
高く白茶けた塀に囲まれた向こうは夏の光を浴びて黒々と木々が繁っていた。
インターホンを鳴らしたけれど、中で鳴っているのかどうかはわからなかった。門の脇の小さな潜り戸を押すと軽く開いた。すっかり疎遠になっているとはいえ、勝手知ったる我が家とばかりに門をくぐった。
庭に一歩入ると花の匂いにむせた。

アプローチを進むと暗い森の陰から不意に人影が現れて驚いた。
「どちらさま?」
 
「もしかして……楓ちゃん?」
唖然とした男の顔があった。
「これはこれは。誰かと思えば」
「ご無沙汰してます」
立川幸生だった。顔は日焼けして思ったよりも健康そうだ。そしてなによりも一回り逞しくなったような気がして安堵と懐かしさが同時にこみ上げてきた。

「父のところへお見舞いに来て戴いたそうで、その節はありがとうございました」
「残念だったね。まだそんな歳でもないのに」
「んん、他の人に比べたら……」
二人の目が合って、そして同時に逸らされた。
半年ほど前に父、山科修が病気であっけなく亡くなった。ほんの数ヶ月の闘病生活だった。父のところへ幸生が見舞いに来たことを知ったのはもう臨終の間際だった。
「立川の家を訪ねなさい」
白く冷たい病室で、擦れた声でそう言って父は力なく笑っていた。
門から玄関に至るアプローチに植えられた桐と楓の木は鬱蒼と繁って濃い影をつくっていた。桐が植えられたのはもう30年近く前、楓も25年が経とうとしているはずだった。それ以後、樹種が増えることはなく、その影には顔よりも大きなダチュラの薄白い花が下を向き、ちらちらと漏れる木漏れ日の底で、濃いピンクや紅色のジギタリスが猛々しく花房を持ち上げていた。
母屋に向う柱廊のように影になった木々の谷間を歩きながら、尺取虫のようにぎくしゃくと前を歩く幸生の足を見てわたしはもう一度、目を逸らした。

「凄い色ね」
「あぁ、たいして手入れはしてないんだけど、ここ何年かは毎年勝手に咲くようになった」
「今は一人なの?」
「田岡さん、憶えてる? 以前来てもらっていた家政婦さん」
「あの人も歳でさ。だから、その紹介で、今は週に二回別の人に来てもらって、食事とか家事を頼んでいるけど」
「そう」
「この足ばかりはどうしようもない。相変わらず」
「でも、昔より行動的っていうか…」
貴生さんに似てきた、と思ったがそれを口に出すことはなんとなく躊躇った。
「あぁ、車の免許をとってさ、動けるようになったというのもあるし」
「あ、そうなんだ」
「なにかしていないと、孤独に呪い殺されそうだから」

手馴れたもので跳ねるように身を起こすと、冷蔵庫から冷たい紅茶が取り出されて、目の前で背の高いグラスに注がれた。姉が好きだったダージリンの香りがふわっと漂って、深い軒の庇が濃い影を作り、花薫る風が居間を吹きぬけた。
「エアコン、入れようか?」
「んん。匂いが消えたらもったいないから」
懐かしさと純粋な美的感覚がせめぎあって、わたしは半分放心したように花の庭を眺めていた。

「で、今日は突然どうしたの?」
わたしはバッグから封筒を取り出した。
中身をテーブルの上に広げて、一枚の写真を取り出して彼に手渡した。
「見覚えない?」
彼はすぐにわかったようだ。そして、ほんの一瞬その直線的な眉が顰められたのをわたしは見逃さなかった。

「仕事でね、取材しているときに、行き当たったの」
楓はあのチェスの駒と盤にどうにも引っ掛かっていた。最初に見たときから、なんとなくもやもやするものがあって、でも、分からなくて、時間を作って思い切って取材先をもう一度訪ねた。
古美術商で現物を再び見せてもらいながら、例の枯れた社長に突っ込んだ話しを訊いたけれど、前回以上に役に立つような話は聞けなかった。ただ、戦前か戦後すぐの頃、どこかの名家が金に困って売りに出したときに、その美術品目録に似たようなものが載っていた、という雲をも掴むようなあやふやな記憶を思い出してくれたことが唯一の収穫だった。
そして、もう一つ。
たまたま、社長のアンティークなデスクに別のチェス・ボードが置かれていて、それに目が止まった。
許しを得て駒を手に取ると、新しいが鮮やかで精巧な出来映えに惹かれた。
「どうです、なかなか良いでしょ」
同好の士を見つけたように社長の顔が綻んだ。
指で掴むと適度な重量感と手に馴染む柔らかさ、それでいて抽象的な美しさに愉しくなってしまった。
「いつ頃のものですか?」
社長が下を向いて笑っていた。失礼な。
つい最近のもので、埼玉の方で彫っている人の作品らしい。先日、知人を介して購入したばかりだという。駒の底に“綺罹”と銘が彫られていた。
「“キラ”ですか?」
「“キリ”というそうです。作者はまだ若いけど、足が悪いので始めた仕事だそうですよ」
頭の中で遠い記憶が弾けた。

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「あぁ、あのチェス…だよね」
「昔、たぶんこの家で、ここで見た記憶があるの」
あっさり幸生が応えた。
「あぁ、今でもあるよ。蔵に」
自分の記憶が正しかったことに安堵して興奮した。
彼の視線は燃え上がる夏の庭に固定されていた。沈黙が続きを促した。
「もう一回は、あの日、姉さんが死んだ朝、まだ燻っていた離れの前の池に浮いていた」
「大きめの黒い駒。二つあった」
「一緒にいた父が池から拾い上げていた」
「そのときは、茫然としててなんだかわからなかったけど、今は確信を持って言える」
「濁った緑色の水に濃いピンクの睡蓮が馬鹿みたいに鮮やかに咲いていた。その脇に浮いていた」
「あれはこれと同じチェスの駒だった」

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二回目の災厄は、最初の事故から12年が経った、今から丁度7年前の夏に起きた。

その4ヶ月前、楓は姉のところに来ていた。
楓は当時18になり、高校を卒業して貴生が通った同じ大学に入学が決まっていた。その春の休みだった。
月末には父に加え、既に開発援助関係のコンサル会社に就職して海外に赴任していた貴生も休暇をとって帰って来る予定になっていた。その年、大学を卒業した姉と貴生が婚約し、そのお祝いを身内だけで行うために。

貴生と姉の仲はもう既に以前からわたしの目にも明らかではあった。その日が近づくにつれ、姉の振るまいがどうしようもなく浮き浮きとしてくるのが手に取るようにわかった。
わたしは自虐的な気分にどっぷりと浸かって、その後の予定をこと細かく姉に確かめたものだ。結婚式の日取りから新居まで姉の頭にあること、何を望み何を求めているのか。
そんなある日、結婚したら貴生について彼の赴任先である南の島に渡るつもりであることを聞いて、わたしは絶望的な感情に苛まれた。そして、更に南の島に大きな事業が予定されていて、そのプロジェクトに貴生が抜擢されたことを嬉しそうに話した。期間にして10年、単身赴任なんてさせない、ずっとついて廻るのと聞いたときには頭がくらくらして気を失いそうな痛みで身体が麻痺しそうだった。
頬を染めて未来を語る姉に対して、身体の奥底から悲しみと憎しみが突き上げた。
あらゆるものを手に入れて、何の不自由もない姉にはわたしのこの屈折した感情はわからないだろうと思った。
そう、わたしこそ、そのすべてを投げうってでも貴生が欲しかった。好きだったのだ。

その春のさなか、貴生が帰ってきた日の姉は忘れられない。

夕方になって、わたしは人目を憚るように蔵へ潜んだ。
既に薄暗くなってはいたけれど、かつてここに住んでいた頃は勝手知ったる遊び場だった。梯子段を掛け上がって二階に身を潜める。蔵の半分は大きな吹き抜けになって、今はそこにソファやコンピュータ、オーディオ装置が置かれてホビールームとして使われていた。
二階の積み上げられた荷物の間に座り込んで待つこと10分ほどか。予想通り重い正面の扉が開いて貴生と姉が入ってきた。
貴生が扉の脇のスイッチに手をやると吹き抜けの天井からぶら下がっている照明が点いた。
照明はわたしの位置よりも低くて、傘のせいか二階に光は届かない。
姉が貴生にしがみつくようにしなだれて、すぐに口が合わさった。貴生が片手で扉の鍵穴に鍵を差し込んで半回転させた。

一秒をも惜しむように二人がお互いの衣服を毟り取ると、姉の豊かな乳房を貴生の浅黒い手がわし掴みに掴んだ。細くしなやかな腰を抱えて、柔らかく広がった大きな尻に貴生がむしゃぶりついた。姉の白い裸身が貴生を受け入れ、ありとあらゆる放恣な姿勢が繰り広げられた。狂ったように四肢が暴れて、激情が迸った。
精液と体液の匂いがたち込めて、粘着する液体を打つ音と姉の悲鳴のような喘ぎが蔵に満ちた。目の前の梯子にしがみついた姉が足を広げて尻を突き出すと、覆い被さるように貴生が後ろから姉を抱えた。言葉にならない幽かな唸り声が姉の口から漏れて唇がわななくように震えた。貴生の動きに合わせるように姉の滑らかな躰が軋み、うねり、撓んだ。
「あなたの子供が欲しい」
堅く目を瞑り、我を忘れて開いた口から歓喜の声をあげ続ける姉の、うっとりと染まった儚げな表情が絶望感とともにわたしの目に深く、眼底が焼けるような痛みを伴って焼き付いた。

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中学に入って長期の休みのたびにわたしはここにやって来ることを心待ちにしていた。
もちろん、貴生に会えるからだ。
別に望んで入った中学校ではなかった。わたしは姉や従兄達と同じように当然地元の公立中学に行くものと考えていた。しかし、父に薦められて受験をしたら合格してしまった。そのまま、あれよあれよという間に、わたしの運命は決められてしまったのだ。
一方、姉は高校生になって羨ましいほど女らしく、透き通るような美しさをその均整のとれた身体に纏っていた。女のわたしですら、そのなにげない仕草やときおり見せる笑顔に、はっとして見惚れてしまった。二人の関係がいつから始まったのかはよくわからない。
でも、わたしが気付いたときには、蔵で、庭の木陰で、夜のしじまで抱き合っている二人を見つけ出すのはそれほど難しいことではなかった。
抱き合ってキスしているだけの二人は季節が進むにつれて大胆に放恣にその姿を変えた。
真昼の木陰でスカートを捲り上げて、下着を膝まで下した姉が裸の尻を貴生に与えていた。
窓を開け放った蔵で素裸の姉があられもない格好で貴生と複雑な形状に絡み合っていた。
裏庭の夜の芝の上で、二匹の白い獸がお互いを貪るように求め合い与え合っていた。

そして、わたしと同じように二人の逢瀬を覗き見ている幸生に気付いたのもその頃だった。

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滞りなく貴生と桐の婚約が成って、待望と絶望の入り混じった夏休みが始まり、姉と貴生の結婚式が行われるその朝。
離れが燃えて姉が死んだ。
7月末の早朝だった。
翌日には、姉の死は自殺と断定された。遺書があったのだ。自殺の原因については父に訊いたが口を濁して話してくれなかった。
結婚式のために既に日本に戻っていた貴生は燻っている焼跡を目にして、門から飛び出して行ったと聞いた。そして、そのまま、姿を現さなかった。事件から数週間が経ち、父が捜索願を出そうとしたとき、父とわたし宛連名で一枚の葉書が届いた。

ただひたすら青い海。水中から波紋に揺れる海面を見上げた写真の絵葉書。

「桐の好きだった海にいきます」 貴生

とだけ署名があった。

『黒と白の領地(1)』(続く)


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