『虚空蔵淵往還(後編)』

「おまえ、なにやってんの」
派手な水音が聞こえて急に身軽になったので振り向くと、目の前に腰まで水に漬かって惚けたような顔があった。
「降りたら、なんか足でふんずけちゃったみたいで」「動いた」「もう……びっくりした」
「カレイじゃないの」
「変な話するから」「足引っ張られたのかと思っちゃった」
「あーあ」
と小さな声が聞こえた。立ちあがろうとして、よろけて手を着いてしまい濡れた面積がいっそう拡大したようだ。
「おいおい、大丈夫?」「どうしたの、いったい」
「せっかくここまで背負ってくれたのに、これじゃ全然意味無しだね、ごめん」
ようやく腕を掴んで引っ張り上げてやると
「なんでもない」「手が滑っちゃった」
と云いながらようやく立ち上がった。
「重い〜」
裾からざぁざぁ海水を垂らし、泣きべそをかきそうな顔だ。おまけに薄いワンピースが身体にべったりと張りついて胸から下がほとんど透けて見えてしまう。
「けっこう水冷たいね」などと落ち着いているけれど、ようやく視線の先に気づいたらしく赤くなって両腕で胸を抱くようにして隠した。
「見えた?」
「胸は隠れたけど下が丸見えだよ」と、親切に教えてあげる。
えっ、と自分で見て初めて気づいたらしい。短い悲鳴をあげて背中を向けた。首だけ廻して「見た?」と聞くので今度はお尻がきれいだねと褒めてあげた。
「手は二本しかないんだから全部は隠れないだろう」
「車に行けばタオルくらいあるよ」
腕を解いて手を引いてやると諦めたように素直についてきた。

対岸に辿りついて陸に上がるとすっかり傾いた日が空の低い部分を朱色に染めている。振り向くと、風向きの変わった陸風にあおられて、少し寒そうに見える彼女の白い肌が輝くように紅色に染まっていた。
「寒いだろ」
「うん、けっこう」

「これじゃ家に帰れないよ」
「あぁ、服はうちで乾かしていきなよ、乾燥機あるからさ」「新品の」
「しかしそれじゃぁ、車にも乗れないなぁ」
取敢えずトランクからタオルの入ったバッグを取り出す。使わないかもしれないがと思いつつ、けっこう大きなバスタオルを持ってきたはずなのだ。
「着替える物までは持って来てないよなぁ」「泳ぎに来たわけじゃないしなぁ」
という傍からくしゃみの音が聞こえた。取り出したタオルで包んでやっても意味がないのは明らかだ。濡れている髪の水分を落としてやって、そのまま何も云わずに前のボタンを外しはじめた。
「えっ」
「大丈夫、見てないから」「乾かさないとダメでしょ」
そのままボタンを外し続けていると、押しとどめようと持ち上がった手がまた下りた。裾までボタンを外して引き剥がすように身体に貼りついた服を取り去った。小さくなって震えている身体の背中に手を廻して、水を含んで部分的に透明になった薄水色のブラジャーのホックを摘み上げてはずす。腕から抜き取ってしまうと怯えたような眼で視線がさまよった。躊躇なくパンティを引き下ろそうとすると、だめだめと首を振るけれどかまわず足首から抜き取った。タオルで背中から包んでやって冷たくなった身体を拭いてやると、彼女はもう何も言わずに顔を覆ってしまった。さながら子犬のようにちじこまって硬直している身体を解きほぐしながら水気を拭きとっていく。さすがに下半身に手が掛かると自分でやるからと抗ったけれど、気にせず続行すると諦めたように足の力が抜けた。

再会して初めてのデートだというのに、一体、私は何をしているのだろう。アクシデントとはいえ、こんな場所でされるがままに素裸にされて、身体を拭かれているなんて。この手を離したら、どういう顔を合わせればよいのだろう。下半身を拭かれていたタオルが登ってきて両腕が持ち上げられた。腋をひとしきりタオルが往復するとそのままくるっと巻かれて胸の前でタオルが合わさって締められた。
「完了」「しましたよ、お嬢さん」
陽気な声が真正面から聞こえた。胸から膝上までが大きなタオルに覆われて暖かかった。
ゆっくりと顔をあげるけれどまともに見ることができなかった。
「恥ずかしい」
「仕方ないじゃん」「非常時だから」
「見られちゃったね」「胸小さいし……お尻大きいし」
なんだか自分でも言っていることが無茶苦茶だ。
「いやいや、見てないけどきっと魅力的だよ」「昔よりもずっと」
「うそ」
もちろん魅力的などと言われて嬉しかったのだが、そう応えるのが精一杯だった。

挿絵2

『虚空蔵淵往還(後編)』

タオルを巻いたままの甚だ心許ない格好で助手席に乗り込んだ。前を押さえてはいるものの、座ることによって太腿まで剥き出しになるのが気が気ではない。
「外から見えたらどうしよう」
「日が暮れれば外からは見えないでしょ」「昼間でも見えないもんだよ、意外にさ」
「そういえばそうだね」「走ってる車の中なんて全然気にしないもんね」
「対向車からは良く見えるぞ」「一瞬だけどね」
「こうやって潜れば大丈夫かな?」
外からは見えないかもしれないが、身体だけずらすものだから裾が捲れあがって下半身が見えそうだ。指先でつついてやると「きゃぁ、きゃぁ」騒いで余計状況が悪化した。お尻を持ち上げさせてずり上がったタオルを引っ張ってやってどうにか格好がついた。
「あんまり動くなよ」「目に付いてしょうがない」
「うん」
すこし神妙になったようだ。
「おなか減ったねぇ」
「食べてくだろ」「どっかでなんか買ってくるよ」
「うん」
なんだか安心してバッグからリップクリームと携帯電話を取り出した。

明るい商店街を抜けるときは外から見えるんじゃないかとヒヤヒヤしたが、車を横付けしてくれたアパートのすぐ前は薄暗くてほっとした。
「その格好で誰かと擦れ違うわけにはいかないよな」
うんうんと勢いよく首を竪に振る。
「ちょっと引っ掛けるもの取ってくるからそのまま待ってな」
一人取り残されてると途端に心細い。
少し経ってカンカンと階段を降りる音が聞こえて思わず首を竦めてしまう。コツコツと左側のガラスが叩かれる音が聞こえた。彼の顔が見えて思わずほっとしてしまう。ロックを開けるとドアが少し開けられてレインコートを広げてくれた。その中に入るとすっぽりと肩からくるまれた。

玄関の扉が締まるとようやく人心地がついた。
「シャワー浴びるでしょ」「塩だらけだから」
こっくりと頷くと、ユニットバスの照明が灯って給湯器のスイッチを入れてくれた。洗面ユニットの照明が点けられると真昼のように明るくなる。ばたばたと走りまわって取敢えずの着替えを用意してもらった。
「サイズは合うわけないけど取敢えずだから我慢してね」
と、Tシャツと膝丈のスウェットを貸してもらう。
「えっと、パンツはないから……いいよな」
もちろんわかっていると、頷いた。たぶん顔は真っ赤になっていたと思う。恥ずかしくて顔が上げられない。
「車、駐車場に入れて、濡れた服取って、帰りに何か買ってくるからさ」
「鍵締めていくからごゆっくり」
頭を指先でぽんぽんと叩かれてやっと声が出た。
「ありがとう」

シャワーを浴びて借りた服を身に着ける。洗面ボウルの脇に転がっていたドライヤーを借りて髪を乾かしていたとき、外の音が一瞬聞こえてバタンとドアが閉まる音が響いてきた。がさがさと荷物を置く音の後にひょこっと顔が覗いた。
「お、似合うじゃん」
照れ隠しに「ダボダボだよう」と応えた。
すぐ脇に置かれている洗濯機の蓋を上げて、ビニール袋の口が広げられた。すっかり忘れていたけれど下着も一緒に丸め込んできたのだ。
「待って!」
というよりも早くその手は既に下着を取り上げていた。

「えっと、ブラジャーは袋に入れた方がいいのかな」
洗濯袋を乾燥機の上の籠からとりだすと、彼女は恥ずかしそうにうんうんと頷いていた。
「パンツは?」
「あ、それは普通で他のと一緒にしちゃって大丈夫」「って、わたし何言ってんだろうね」「恥ずかしい」
ピッピッと電子音が鳴って洗濯機が回り始めた。

南北に二箇所ある窓を開けると涼しい風が抜けた。北側の部屋と南側のダイニングキッチンは一応締め切れるようになっているが今はきれいに開け放たれていた。その中間部分に玄関とユニットバス、トイレがコンパクトに嵌まっている。とっぷりと暮れた窓の外の見慣れない景色を眺めているとキッチンでがさごそと音がした。昼前に食べたきりだから当然空腹だ。

「さてと」「普段なら間違い無くビールだがそれはシャワーの後にとっておいて」
鼻歌混じりに手早くビニールの袋からホタテを四枚ガラガラと取り出した。沸騰したポッドのお湯を流しに並べた貝の中心部に注ぐ。すかさず殻の隙間にスプーンを差し込んでこじ開ける。身を取り出して俎板の上で手早く貝柱を分離する。残りの部分から黒いワタを切り分けて残った部分を軽く湯通しする。既に米を研いであった炊飯釜にヒモを放り込むと実にいい加減に醤油とみりんを注ぐ。水を加えてスイッチポン。なんだか流れ作業を見ているようで実に気持ちが良い。貝柱は5mm厚くらいに削ぎ切りにして冷蔵庫行きだ。
「40分くらいで炊けるからさ」
そういって冷えた缶ビールのプルトップを引く音が初夏の夜気のなかに軽く響いた。

もちろんご飯は美味しかった。ホタテご飯に刻み海苔。貝柱の刺身にインゲンのお浸し。味噌汁は地元の赤だし味噌に夏大根。トッピングに根三つ葉付きということなし。その上で時間がないから手抜き、品数より量だよと涼しい顔をしてのたまう。
「いやぁ、是非とも御婿さんにしたい腕前ですね」「いつ憶えたわけ?」
正直言ってちょっと悔しい。包丁とか味付けは訓練で何とかなる部分もありそうだが、短時間でそれも旬の安い材料の組み合わせを瞬間的に最終的なイメージにまで構成できるところが真似できないと思った。食事が終わってだされたお茶がまた美味しかった。ご飯茶碗ほどある大ぶりだけど嫌味のない白磁の器に目が覚めるような薄緑色の煎茶が注がれるとパッと匂いが広がった。たった今からこの家の子になりたいと思った。

ガラガラと音を立てて回転をアピールしていた乾燥機が電子音をかわぎりに沈黙する。遠くから微かにテレビの音が聞こえてくる。窓際で覗くように首を出すけれど明かりの灯った窓がいくつか見えるだけだった。
「乾いたよ」
その声で振り返った。
「早いねぇ」と言いながらも立ちあがらない。話なんかしていなくても同じ空気を吸っているのが気持ち良かった。話したいことはたくさんあるのだけれど、それは今じゃなくても良いと思っていたのだ。

「そんなに前傾するとおっぱいが見えるよ」
慌てて衿が大きく開いたTシャツを押さえる。
「大丈夫、大丈夫。ぎりぎり見えない」「そういう色、けっこう似合うじゃない」
「え〜、そうかな」
「普段からけっこう気を使っているのはわかるけど、もっと派手でもいいんじゃない」
「自信ないもん、全然」
「あれあれ、もったいない」「今度選んであげようか」「飯でも奢ってくれれば行ってもいいよ」
「なにそれ〜」「ちゃんと食べてないの? こんなに作れるのに」「ダメじゃん」
「そりゃ、食う人がいるからさ」

北側の部屋を借りて手早く着替えた。乾燥機から取り出したばかりで暖かくてちょっと変な気分だ。
「なんか袋を貸してよ」「これ、洗濯して返すから」
借りて着た服を手にダイニングに戻る。
「いいよ」「面倒だから」
「だって」
と抵抗すると、理解不能と顔に出ていた。
「だからさ、ほら、あのね……、下着着けてなかったから、汚れてるかもしれないじゃん」「もう、こんなこと言わせないでよ〜」

虚空蔵淵で水に浸かったときは恥ずかしくも情けない思いがした。でも、今こうして夜のドライブをしていることを考えると、あそこでコケたことは正に虚空蔵菩薩の思し召しだったのかもしれない、と窓を流れる街灯を見ながら妙に神妙な気分になってしまった。もっとも現実は厳しい。感傷にも感慨にもひたる間もなく車はあっという間に見慣れた街路を走り始める。
「どのへん? だっけ」
フロントガラスから飛び込んでくる光が一瞬縞になって流れた。
「信号の次の角を左」
「あぁ、そうだそうだ」「なんとなく思い出したよ」「公園の先ね」
そう、あのときも夜だったけれど高校生だったから車ではなくて徒歩だった。ゆっくりゆっくりと心を押さえつけても、どうしようもなく浮かれていたことを思い出す。普段は遠いなと思う駅からの道がどんどん消化されていくのが恨めしかった。そしてたった今も、もっとゆっくりゆっくり、と思うのだけれど、以前にも増して悲しいほどすぐに目的地が見えてきてしまった。

右側に見慣れた楡の木と白地に太い黒字で「久野」と書かれた表札が見えた。滑るように車の動きが止まる。ライトがポジションランプに落とされて辺りが闇に沈んだ。サイドブレーキが引き上げられた音が聞こえて、自分でもびっくりするほど切ない気分になってしまう。開いた窓から夜の少し湿った匂いが流れ込んだ。
「どうもありがとう」
言わなければならないことがたくさんある気がする。
「えっと」
振り向いた彼の目が微かに光ったような気がした。
「あのね」
そう言ったか言わないうちにカシャンと鉄の門扉が音を立てて内側に開くのが視界の隅に映った。慌ててドアを開けて車の外に出ると、丁度門柱の陰から首を出した母と目が合った。なんとタイミングが悪いことか。絶望的な気分に腰が抜けるかと思った。
「あら、お帰りなさい」
「送ってもらったの」「ほら、高校のときも一度送ってもらった木南くん」
そういうと母は興味津々といった様子で車のほうを覗き込みながら寄って来た。
「夕実の母でございます」「わざわざありがとうございます」
しんと静まり返った夜の住宅街に簡単な挨拶が交わされた。
「あら、あんたなんて無愛想な顔してるの」「ちゃんと御礼は言ったの?」

母親の隣りで嬉しいのか悔しいのか夕実の表情がくるくると変わる。お茶の勧めを断って車に乗り込むと夕実がドアの傍まで寄って来た。
「気をつけてね」「あの……またね」

軽く手を上げてアクセルを踏み込むとバックミラーの中で手を振っている夕実の姿がどんどん小さくなっていった。

(2003/08/28改訂)


戻る