空の青 8月(4)

最初から雲行きは怪しかった。南に向かって走らせている車をときおり猛烈な突風が襲う。
「台風が来てるって言ってた……」
助手席に座った菊川あけみが前方を見たまま長い睫毛を半分伏せた。
靴を脱いで、シートに抱えた足。短過ぎるスカートから素足がすんなりと伸びて眩しい。
カーナビはインプットした目的地を正確に保持し、車を誘導している。夏休みのせいか、思った通り市街からバイパスの交差点までがずっと渋滞で、ようやく乗ったと思ったバイパス上もぐずぐずと流れが悪い。2時間はかからないが1時間半ほどはかかりそうだった。

「どうして知った?」
気になっていたことを訊いた。
「昨日、佐々川君に聞いた。親父にお酒頼まれたの」
「なんであいつが知ってるんだろう?」
暗い表情を向けたあけみちゃんは首を傾げて表情だけで「知らない」と答えた。

朝、出掛けようと玄関に座り込んで靴を履いているとインターホンが鳴った。
あまり余裕がなかったから面倒は困るなと思ったが、扉を開けた。上辺だけ笑顔を貼り付けたあけみちゃんが、変な抑揚をつけて「おっはよー」とドアの影から首を出した。
「ごめん、これからちょっと野暮用」
「メールも見ないし、電話も出ないし……何かあった?」
心配そうに曇った顔に探るような視線が見え隠れした。
「あぁ、―――留守電にしっぱなしだった……」
睫毛がふわっと瞬いて、黒髪がさらりと流れ、外の湿っぽい空気が流れ込んだ。
「先生、探しにいくの?」
ポツンと、寂しそうな声が降ってきて、あけみちゃんが悲しそうな顔で静かに笑った。
「車、ガソリン満タンだから……。わたしの車で行こうよ。カーナビついてるし」
目の前に差し出された真っ白な手。いつもはきれいに塗られているはずの優しいピンク色の爪は子供のように無邪気で自然の艶だけが鈍く輝いた。その手を率直に握ると、強い力で引っ張り上げられた。

中途半端で平凡な光景に合わせて車の列は苛々するくらいのスピードでゆっくりと南下していく。一級国道を外れるとようやく車は快調に流れ始めた。雄大な川面に曇り空を映した川沿いを上流に向けてひた走る。田んぼと畑の純農村地帯だが国道沿いはどこにでもある平凡で退屈な風景が続く。ところどころにある古びて放棄された平屋の廃墟は養蚕場だったのだろう。大きくカーブして県境の山に登っていく国道と別れ、橋を渡ると松崎智美の故郷、丸林に入った。

山の懐に抱かれるように、ひっそりと整った街だった。毎年、夏のお盆になると、町の中心の古い屋敷に無数の提灯が掲げられる幻想的な光景を是非一緒に見たいなと彼女は語った。別に今すぐじゃなくてもいいけど……そのうちで、と慌てて話を逸らせた彼女が見せた寂しそうな表情と取り繕った笑顔が記憶の底からぽっかりと甦った。

バイトは二日だけ休みを貰った。夏枯れ状態で店は暇だったから、そのまま盆明けまで休んでもいいぞとはいわれたが、気を使われているのがわかったから店の休みまでは出るつもりだった。夜、品田から連絡があった。律儀にも同僚の幾人かに問い合わせてくれたらしい。結果は空振り。誰も彼女の結婚について具体的なことは知らないらしい。吉報が一つ。昔の教員名簿に休暇中の緊急連絡先として丸林の住所と電話番号が記載されていたらしい。それを教えてもらい、「まぁ、がんばれや」と言って電話を切った品田に感謝した。

取敢えず、智美が通った高校で卒業アルバムを見せてもらえば実家の住所はわかるだろうと踏んでいたが、品田のおかげでその手間は省けた。後は実家に行って本人がいればそれでOKだし、母親がいれば連絡先を訊けばよい。その先のことはどうすればよいのか、どうすべきなのか何も考えをまとめられなかったが、まずは智美に会うことが先決だと考えた。
すっかり楽天的になって、今朝、さっそくその電話番号に掛けてみたが“不通”。そこまではうまくいかないかと落胆する気持ちを奮い立たせた。

打ち込まれた住所にカーナビが車を誘導してくれる。車は町の中心を通り抜け、南の山間部へ登って行く。10分ほどで小さな集落に入り、液晶画面が目的地に到達したことを表示した。通行の邪魔にならないように少し広くなった路肩に車を寄せた。山林、畑、作業小屋? 人家もちらほら見える。車を降りて周囲を見回した。杉林を吹き抜けた強風が頬を打った。空気がじっとりと湿ってきた。道の向かいが開けていて20m四方くらい土が剥き出しになっていた。空地の片隅に崩れたコンクリートブロックが小さくまとめられて、その上を生暖かい風が吹き抜けていった。

いつの間にか隣にやって来たあけみちゃんがそっと腕を絡めた。
「あの辺の人に訊いてみたほうがいいんじゃない?」
農作業の住人だろう。指し示された先の畑に小さく人影が見えた。

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近所の人、町役場、不動産屋。微かに残されていた智美の跡はすべて辿ったつもりだが、その軌跡はぷっつりと途絶えていた。実家は既に売却されて、住んでいたはずの母親も智美と共に消えてしまった。その事実だけが寛とあけみの前に厳然と、そして素っ気なく呈示された。最後に訪れた川の袂の不動産屋で土地の売却を依頼された事務員に「引越し先までは聞いていない」と言われ、寛は意気消沈した。

父親の縁者はとうに絶え、母親は他所から嫁いで来た人らしく、地元の関心が薄かったから聞き出すのに苦労した。それでも、わかったことは少なくはなかった。父亡き後、農作業の傍ら町のケア施設でパートとして働いていた智美の母は、急に冷え込んだ晩春、仕事を終えて帰宅途中に事故を起こした。運転中に脳梗塞を起こし道路脇の田んぼに突っ込んだらしい。幸い水の入った田んぼがクッションになってたいした事故にはならなかった。命には別状はなかったが、打撲、骨折に加え左半身麻痺という脳梗塞の後遺症が残った。入院生活は長引いたが、後遺症のせいもあってリハビリが上手くいかず骨折した足の回復が思わしくなかった。暖地で気長に療養してリハビリに専念する以外に回復の方策はなかったそうだ。追い討ちを掛けるように3ヶ月で退院を迫られて智美は窮した。満足に歩ける状態ではないが、リハビリだけのために老人でもない患者を入院させてくれる医療制度はこの国にない。歩けない母の元で暮らすか、母を智美の下に引き取るか、どちらにしても誰かが付きっきりで面倒を見なければならなかった。

「悪かったね。ツマンナイことにつき合わせちゃって……でも、いろいろ助かった」
都市部を外れると、根無し草のように全国を渡り歩いた寛にとって方言がきつい高齢者の会話は聞き取りにくい。何度も聞き返すとあからさまに不機嫌な顔をされ、聞けることも聞けなくなってしまう。あけみちゃんが通訳してくれなかったら痕跡の半分も辿れなかっただろう。寛の意図を汲んで、寛よりはずっとスマートに、そして、その容姿をもってすれば普通なら聞き出せないことまでも多くの人は喋ってくれた。もちろん、右も左もわからない町での移動にあけみちゃんの車のカーナビは絶大な威力を発揮した。
「寛が絶対探すから……でも先生はもう戻れなくて…だから自分の歩いてきた道を完璧に消したのかな……」
控えめな、とびきりの笑顔が寛を慰めた。
「一度は決意しても、寛に見つけられたら……迷っちゃうよ、絶対」

午後になって雨が降り出した。風もいっそう強まって激しい雨脚がアスファルトを叩いた。往来から人影が消え、家々で雨戸が閉められた。町はひっそりと迫り来るものに対し備えを整えつつあった。南の上流は既に雨なのだろう。川は水嵩が増し茶色く濁っていた。橋脚に打ちつける濁流が白い飛沫を上げた。なだらかな堤防の上には車一台なく、雨音と腹の底に響くような濁流の轟きだけが聞こえた。車を止めてパーキングブレーキを目一杯引き上げると、叩きつける雨がフロントガラスを洗った。夕暮れのように暗くなった周囲が鋭く空気を引き裂く稲妻に照らされた。暫くおいて続く雷鳴。台風は雷まで引き連れてきたようだ。

薄闇にあけみちゃんの足がほの白く輝いた。滑らかな腕。長い睫毛。優しい口元。遠慮がちで慎ましい視線。手を伸ばせば彼女は倒れ込んでくる。間違いのない確信と裏切り。寛は智美を探しに来ながら、智美を追いかけていながら、すぐそばのあけみちゃんに手を伸ばそうとする安直さと軽率さをさっきから繰り返し戒めていた。

ドアを開けて雨が入らないように素早く外に出た。ドアを叩きつけるように閉めると雨音だけが周囲を圧していた。吹き荒ぶ風がシャツを煽り、見る見るうちに雨水が服に染み渡る。天を仰いで打ちつける雨に顔を晒した。遠くに見えたはずの山々も、川の対岸も雨脚の白さに覆い尽くされた。まるで智美の痕跡を全て洗い流し、寛の手の届かぬところへ匿うように。
寛は眼下に渦巻く濁流を眺め、三段になっている巨大な堤防のバンクを降りた。

いきなり腕を掴まれて後ろに強く引かれた。
「何考えてんのよ!」
滅茶苦茶な力で斜面を逆に引き摺り上げられた。
「危ないじゃない!」
真剣な顔が目の前で喚いた。見る見るうちにあけみちゃんの髪が濡れそぼり、頬に一筋の髪が貼り付いた。
白い顔。整った顔。
「……冗談じゃない」
泣き笑いのように美しい顔が歪んだ。
「え? ……」
「やだよ! 絶対やだよ。わたしは先生みたいに強くない。だから、だから絶対に諦めない。絶対寛から離れない。寛から」
胸に飛び込んできたあけみちゃんがありったけの力でしがみついた。
寛は濡れて完全に透けたあけみちゃんのシャツの背を放心したようにずっと抱きしめた。

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挿絵54

『空の青 8月(4)』

復路はまるで北上する台風と歩調を合わせたような悪天候だった。叩きつける雨、横殴りの風、大型トラックがあげる滝のような飛沫。二人とも服はずぶ濡れ。あけみちゃんを拭いた小さなたった一つのタオルは直ぐに水を吸って使い物にならなくなった。それでも直接触れ合った肌と肌は熱く燃えて、あけみちゃんが垣間見せた狂おしいまでの表情が寛の脳裏に克明に刻まれた。

暮れかけた夕方の市街に入ると大雨と帰宅の通勤ラッシュで普段よりいっそう渋滞に拍車が掛かった。速度を上げて北上する台風にはとっくに追い抜かれ、アパートに辿り着いた頃には南の空が明るくなっていた。
雨は小降りになったが、熱気までまとめてさらって行ったかのように気温が落ちて肌寒いくらいだった。あけみちゃんの顔も心なしか青褪めて見えた。ボタボタ水を垂らしながら階段を上る。前を登るあけみちゃんの足に流れた雫を拭うと、「くすぐったい!」と振り向いて笑った。

階段を上がり切ったところで、先に立ったあけみちゃんが硬直したように立ち止まった。
「ん?」
肩越しに前を覗く。部屋のドアに蹲るように人影があった。3階は廊下の庇が小幅で床はほとんど濡れている。足音に気づいた人影がゆっくりと顔を上げた。
夕実だった。
濡れた床に膝を抱えて座り込んで、額と頬に濡れた髪が貼り付いていた。
一瞬の笑顔がそのまま凍りついた。

夕実は俯いたまま立ち上がり、寛の横を無言ですり抜けようと身体を横にした。
階段に足が掛かる前にその手首を掴んだ。
「あ、あの、べ、べつに、用事があったわけじゃないの……だから……」
掠れた声が深い青とピンクに彩られた夕闇に溶けた。

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交代でシャワーを浴びて身体を温めた。北上する台風に向けて東の風が吹き込んで一気に気温が10度くらい下がったようだ。最初にシャワーを使った夕実に替えの服を出してやると、交代にあけみちゃんが浴室に消えた。寛のトレーナーを着込んだ夕実に髪を拭くタオルを手渡すと、俯いた視線が一瞬寛を眺めた。
「ありがとう」
夕実は受け取ったタオルを頭に押し当てて、滅茶苦茶に掻き混ぜた。
あけみちゃんの着替えと乾いたタオルを用意して洗面の籠に置くと、思いもかけず素早く湯気とともにドアが開いた。
「早く入らないと風邪引いちゃうよ」
黄色っぽい照明にあけみちゃんの白い躰が冴えた。タオルを手渡してやると柔らかく華やいだ笑みが顔に浮かんだ。膨らんだ乳房と色づいた乳首。なだらかな下腹のラインと水を吸って小さくまとまった柔らかな翳り。寛は受け取ったタオルを顔に押し当てて、気持ちよさそうに水滴を拭うあけみちゃんの姿に見蕩れそうになって慌てて目を逸らした。夕実の視線が背中に突き刺ささった。

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最後にシャワーを浴びて簡単な食事を用意した。おずおずとテーブルに付いた夕実は躰にタオルを巻き付けているだけのあけみちゃんに遠慮して極度に口数が少ない。ざっくりと濡れた髪と馬鹿でかい男物のシャツからはみ出た白い肩のコントラストが妖艶なまでに匂い立った。
冷蔵庫でビールを見つけたあけみちゃんはさっそくもう一缶を夕実に差し出した。
夕実が目だけで訊いた。
「どうぞ」
頷くと初めて夕実の表情が少しだけ明るくなって、寛はほっと一息ついた。

夕実が新たにもたらしてくれた情報は貴重だった。寛とあけみが丸林で得た情報の裏付けである以上に、直接本人から得た情報だから確度が違う。もちろん寛に伝わることを予期し、あるいは託された内容から智美の意志が明らかになるにつれ、それは寛を落ち込ませたし、それが夕実に託されたということに寂しさを味わった。
「ごめん。わたし知ってたんだ。でも…行き先は…あなたに教えると、あなたが苦しむからって…わたしにも教えてくれなかった」
語り終えた夕実は寛に黙っていたことを詫びたが、寛は苦渋と悔恨とともにそれを受け入れる他はなかった。

わかったことはそれほど多くはなかった。智美が母親の事故と脳梗塞の麻痺を受け、かつ病院から退院を迫られて移住の決意をしたこと。おそらく、南の温かい地方の、昼間だけ預かってくれる施設か、滞在型のリハビリ施設みたいなところへ母親を入所させたのだろう。
「お金掛かりそうだけど……」
「そうだよねぇ。だから…先生はやっぱり先生やっているんじゃないかな?」
「他の土地に行って病人抱えて生活しなくちゃいけなくて、女だったら、やっぱり先生するのがいちばんじゃない? 安定してるし、休みあるし、時間の遣り繰りもつきやすいし」
「免許はあってもそんなに簡単に他県に転職できるものなの?」
「う〜ん、どうだろ。採用試験は受けなきゃいけないと思うけど……四年生の先輩とかに訊いてみるね」
あけみちゃんの提案はありがたかった。一方で寛は佐竹が何らかの形で絡んでいると思えてならなかった。さすがにその根拠を二人に説明することは出来なかったが、智美は深く佐竹を信頼し尊敬していたはずだ。
顔を赤らめて酔ったあけみちゃんが寛に寄り掛かった隙に、タオルが解けてあけみちゃんの裸身が露出した。ほどけたタオルを元通りに巻いてやる寛の手付きを向かいに座った夕実が暗く燃えるような目付きで眺めていた。

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結局、あけみちゃんの車に二人を乗せて送っていくことになった。夕実、あけみちゃんの順に送って帰りは地下鉄だが終電には間があるだろう。あけみちゃんが飲めないビールをさっさと飲んだのはわざとだろうか? 助手席で半分寝ながら寄り掛かってくるあけみちゃんを意識しながら、彼女が想定しただろう帰り道の組合せパターンを検証して寛は物思いにふけった。このままいけば夕実を先に降ろすことになる。後席の隅に身を小さくして座った夕実は前を見ず、暮れた窓の外だけを眺めていた。

夜も更けて道は順当に流れていた。気温が下がったせいか、余熱を溜め込んだアスファルトから靄が立ち上るように視界がぼんやりと曇った。ときおりワイパーを動かすとたっぷりとした露がフロントガラスを流れ落ちた。街の灯りがしっとりと湿り気を帯びて滲んだ。
「ごめん。あそこ、ちょっとコンビニ寄ってくれる?」
あけみちゃんが眠そうな声で腕を掴んだ。
ウィンカーを出して駐車場に乗り入れる。
「母に頼まれてたんだ、祝儀袋。良かった。危うく忘れるところだった」
店の前の駐車スペースに突っ込んで、あけみちゃんがドアを開けると同時に後ろのドアが開いた。
「あの…わたしここでいいから…。ありがとう」
言葉を返す間もなくドアが閉じられて夕実の後姿がぼんやりと光る店舗の照明の陰に消えた。ここからだと歩いたら20分近く掛かる筈だ……。
「……わたしのせい? だよね」
夕実の姿を呆然と見送ったあけみちゃんが小さく呟いた。

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車のドアを閉めて、コンビニ脇の細い路地へ駆け込んだ。車は入れない。寛は追いかけてくれるだろうか? あけみをおいて。
視界が曇って自分が泣いていることに気づいた。一人でいることに堪えられなくなって振り返った。何度も何度も。何度立ち止まって振り返っても、そこにはただ自分が走ってきた路地が陰気な照明に照らされてぼんやりと青みを帯びて伸びているだけだった。
怒り、悲しさ、悔しさ、憎悪。ありとあらゆるマイナスの感情が溢れてきて収拾がつかなかった。
寛があけみを好きなことは仕方がないと思う。あけみは同性から見ても羨ましいくらい魅力的だし、彼女のことをよく知っているから、寛があけみのどんなところに惹かれたかもわかる気がする。でも、だから、仲睦まじい二人を間近で見ることは斬りつけられるような痛みと屈辱を伴った。

ああ、いやだ。
自暴自棄な感情がふつふつと沸き上がった。胸元のボタンをいつもより二つ多く外した。少しは色っぽく見えるだろうか。誰かに誘われたらついて行っちゃおう。
一人で飲み屋にでも入れば誘われるだろうか?。
スナック、焼鳥屋、立ち飲みバー。路地の両側には色とりどりの照明と匂いが渦巻いて道行く人を幻惑していたが、どの店にも一人で入る勇気はもてなかった。お金があるようには見えないからか、影法師のように路上を漂う呼び込みすら一人で歩く夕実を避けて声を掛ける。
誰にも誘われなかったら…帰って、あの男に貰ったあの厭らしい道具を使おう。あの時されたように、貪欲な二つの穴に押し込んでスイッチを入れよう。考えただけで腰ががくがく奮えた。

ネオンの中に小公園の木々が暗い影を落とし、梢の背景にラブホテルの安っぽい照明が瞬いた。繁華街の中ほどにある間道を折れると人通りががくんと少なくなった。
喧騒がゆっくりと遠のいていく。
なんてつまらないんだろう……。
頭ではいくらでも想像をたくましく出来ても、結局、自分からは何一つできない。
青く沈殿した夜気に生暖かく湿った地面から湧き上がった霧が流れた。
冷え始めた空気が首筋にまとわりついて、湿気を吸い込んだ。
微かな草いきれに混じってきつい絡みつくような花の匂いが漂った。切れかかって点滅する街灯が夜の青闇を間歇的に照らし出したが、かろうじて見渡した暗い公園に咲いた花は見えなかった。

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わたしは――。
海の底のような路地を泳ぐように彷徨っていた。
濃密な湿度に溶け込んだ透き通るような上品な香り。慎ましやかに深く、それでいて艶めかしい匂い。
麝香? いや、花? ……いや、もっと爽やかで奥深い……。
すべてを忘れ、身を任せたくなるような…透き通った冷たさ。
ああ。唐突に言葉が零れ落ちた。――白檀か。
躰の奥底で蕩けそうな予感が羽を広げ始める。
歩を進めるにつれ香りが引立ち、際立った。
繁華街のはずれ。公園の斜向かい。
夜に溶け込みそうな深い藍色の暖簾が足元でうごめく霧にそよいだ。
まるでわたしを誘い込むように。
軒から下がった丈の長い暖簾から淡いオレンジ色の光が薄く透けて、《余香庵》と影になって染め抜かれた文字を明々と照らし出した。

お香のお店?
吸い込まれるように暖簾を手繰り、粗い手触りの生地をくぐった。
白檀の匂いが空気を染めて、ぼんやりと灯った薄暗い照明が視界を緩やかに広げる。
人形?
黒塗りの棚に大小さまざまの艶やかな衣装と朴訥で素朴な顔が溢れんばかりの表情を浮かべていた。
――こけしだ。木偶が壁一面を覆っていた。
薄闇に白い木地が浮き上がり、数百の、数え切れない木偶が反対側にも、床の陳列台にも所狭しと並べられていた。
チリン――。
どこかで風鈴がくぐもった音を立てた。

奥の小上がりに黒い影が彫像のように座っていた。
眩い光がつくる影にとっぷりと溶け込んだ容。着崩した袂。首筋の直線的な強さに目が留まった。影は完璧にわたしを無視して、片手に筆を握っていた。こけしに顔を入れているのだろう。微動だにしない双眸が闇を映して底無しの黒に沈んだ。
邪魔をしないように壁の陳列品をゆっくりと眺めた。
系統別に分類されているようで、東北各地から集められたこけしが所狭しと並べられている。色鮮やかに彩色されたものから、無彩色の南部系、朴訥でユーモラスな津軽系、伝統的で典型的な鳴子系。壁面のものは値札がついていないところを見ると売り物ではないのだろう。それにしても、かなりのコレクションだ。

平台に置かれたものは男の作品だろう。若干のむくりがついた胴とおかっぱ頭の女性顔が愛らしい。胴の部分に描かれた衣装は花が多かった。菊だろうか。細かな花びらがびっしりと描き込まれ、赤、緑の基本色から現代風に多色のものまでバリエーションが豊富だ。顔は伝統的な墨だけで描かれた線画に近いもの。澄ましたもの、笑ったもの、悲しんでいる? もの……。豊かな表情が僅かなタッチの差で描き込まれているさまにいつの間にか引き込まれ、不意にどの顔もまるでわたしの顔のように見えることに驚いた。

灯りが揺れて空気がさらりと流れる。
兆し。予感。胸騒ぎ。
白檀の匂いが揺れる闇に一段と濃く漂い、咽るほどの芳香が髪に、首筋に、剥き出しの腕に、下着が見えそうなほどはだけた胸元に纏わりついた。
あと一歩。
暖簾を前にして振り向こうとする前に気配がそれを制した。
背後に強い視線を感じ、背筋が緊張でしなる。
この感じ……。うなじが夜気に震え、封じ込めたはずの記憶がするりと甦った。
まさか……。

挿絵54-2

『空の青 8月(4)』

硬直したまま首が回らなかった。忘れた振りをしながら、予期していた香り。
尻のポケットからメモ紙を取り出したときにふと匂った香り。
蜜をたっぷりと吸いながらも覆い切れない性具に焚き込められた匂い。
今、この薄暗がりにひたひたと澱み纏わりつく焚香。
すべてが同じ白檀の香りだった。
わたしの肩先に温かい体温が触れ、ぴったりと背に密着した躰の間から湿った夜気が逃げて体温が伝わった。
影の顔が背後からわたしの髪に埋まり、胸いっぱいにわたしの匂いを吸い込んだ。
わたしの中で堪えていたものが堰を越えた。
うなじに吐息がかかり、影の指がわたしの肩を滑る。
短い袖から剥き出しになった腕を浅黒い骨ばった手が撫で上げた。
腕を掴んだまま手先が登り腋にもぐり込む。
わたしは小さく息を呑んだ。
影の指先が熱く柔らかい皮膚に埋まる。滑らかで薄い皮膚に僅かな汗が滲んだ。
捏ねるように腕の内側と腋が愛撫されると、わたしの視界は紗が掛かったように焦点が呆け始めた。
ウエストを左右同時に撫で上げられて意図しない声が漏れた。
膨らんだ腰を撫で回した両手がようやく目的地に達した。
あの日、男が望み、わたしが受け入れたように。身動きの出来ない電車の中のように。
「また会えるとは思わなかったな」
予想通りの声。
「こんなお店があるなんて…今まで気がつかなかった」
「夜しか開けていないからな」
「昼間はお勤め?」
「察しがいいな。その通りだ」
左右の尻にあてがわれた手が微妙な抑揚をつける。
「いい匂いだ」
上から下へ。
「いくつだ?」
「歳? 19です」
下から上へ。
「学生か?」
「は、はい」
右から左へ。
「何を学んでいる?」
「まだ、一般教養だけど…文学部」
左から右へ。
「賢そうだ」
「わたしが愚かな女なのは……いちばんよく知っているでしょう」
素早く、強く。
「名前は?」
「ゆ、ゆうみ……」
柔らかく、ゆっくりと。
「どう書く?」
「夕顔の夕…に実る」
その感触を逃すまいと全身の感覚が鋭敏に尖る。
「美しい名前だ」
「あ、ありがとう」
影の手に翻弄されて電車は暗いトンネルを疾走する。
「いい尻だ。たっぷりと肉がついた触り甲斐のある尻だ」
「大き過ぎて…格好悪い……」
「分厚い布地の上から触っても張り切った弾力が伝わるじゃないか」
影の言葉に情念が融けて流れ出す。太腿から腰、左右の尻を揉みほぐされて、突っ立ったまま腰を捻る。
「どうした? 尻を突き出して。どこか触って欲しいところがあるのか?」
「ま、真ん中」
わざとらしく滑ったように影の手先が股間を擦った。
「なんだ、すっかり湿ってるな。彼氏と一発やってきたのか?」
厚い生地の外側から腰が抜けそうな快感がまどろっこしく伝わる。
「違います!」
皮膚と下着の間は音が聞こえるほどぐっしょりと濡れている。やだ、外にまで滲み出てる……。
「目が腫れぼったいな。泣いたのか?」
わたしは慌てて顔を覆い隠した。
「こざっぱりしてるけど、おめかししてるしな……そうか、デートか?」
慌てて足を閉じようとするが、股に手首を入れられてあられもない声があがってしまう。
「…違う……」
「なんだ。触ってもらえなかったのか?」
尻を撫で回される快感に堪え切れずに――わたしはこくりと頷いた。
「口紅つけて化粧もしたのに彼氏は気づいてくれなかったのか?」
「わ、わからない……」
「躰の隅々まで洗って出掛けたんだろ? 尻の穴の中まで。それなのに指も入れてもらえなかったのか?」
性器を割るように手刀が股間を叩き、焦燥に喘ぎながらわたしは影の言葉を受け入れた。
「キ、キスもしてくれなくて……」
「こんなにいい女なのに…溢れた蜜が染みになって、好き放題触らせて」
「ち、違う……」
「尻の穴まで自由にさせて、中までちゃんと洗ってる女なんて初めてだ」
「は、恥ずかしい」
「触られて、悦んで、期待する女がいるとは思わなかった」
布地の上から肛門と膣口にめり込む指の動きと露骨で屈辱的な言葉がわたしを狂わせていく。
「顔も躰も最高の女なのに」
「最高?」
耳に掛かる息と心地良い言葉がわたしを恥知らずな女に追いやっていく。
「美しい尻だ。かたちも最高だ」
前に廻り込んだ右手があっけなくジーンズのボタンを外し、ジッパーを引き降ろす。
何の躊躇いもなくジーンズを降ろす音が静まり返った虚空に響いた。
気が狂いそうな恥辱に嗚咽を漏らしながら、奮えるほどの期待感が躰の奥から突き上げる。
今日のために、寛に脱がされるために買ったばかりの小さなショーツ。
「透け透けじゃないか。え? こんなパンツでデートに行くのか?」
二本の手がわたしの尻を掴み、撫で、揉み上げ、突き出した尻にぴっちりと張り付いたその無垢な白さを浅黒い指が穢し犯す。抑揚をつけた手の動きが貼り付いてその柔らかさを確かめ始めると、我慢できないわたしの動きがそれに応える。突き出すように尻を揺すり、中央の窪みに指先を導こうともがく。濡れ色に染まった布に新たな液が滲み、範囲がじわじわと広がっていく。躰の隅々に染み渡るような白檀の透き通った匂いに混じって、ひときわ咽かえりそうな生々しい女の匂いが立ち上った。

両サイドを浮かすようにゴムが広げられて、擦り合わせた膝の内側にべっとりと濡れた下着が淫猥に引っ掛かった。影の手の動きに合わせて、足を上げてジーンズと下着を剥ぎ取る行為に協力する。サンダルもろともジーンズを足首から引き抜かれ、汚れた下着を毟り取られた。
「新品じゃないか。せっかく期待したのに残念だったな」
30秒も経たないうちに、わたしは下半身を剥き出しにされていた。
「誰か…来たら……、他のお客さんが来たらどうするの…」
目の前の暖簾の向こうに街の照明が柔らかく滲んだ。
外から透けて見えないか、わたしは気が気ではなかった。
それなのに、そんなわたしの心配を完璧に無視して、大きな手で覆われた左右の尻の肉が広げられ、合わされ、ぬめった性器が裂けんばかりに淫らに湿った音を立てる。そこに重なる喘ぎが自分の喉から絶え間なく発せられ、静寂を淫らに染め上げる。
「冷たくて、しっとりして、手が吸い付いて離れないぞ。いい尻だ」
うなじに掛かる息が低く震え、言葉が脳裏に染み渡る。
「もっと言って…もっと触って…」
わたしは言葉に飢えていた。
「おまえの尻は最高だ」
「ねぇ。あげる。お尻あげるから…好きにして…滅茶苦茶にして」
柔らかなオレンジ色の照明が瞼の裏を鮮やかに染め上げた。

溢れた液体で洪水のような状態の股間を後ろから影の指がスライドする。肩幅に広げた足の行き止まりの陰核を突かれるとあまりの快感に悲鳴のような声が止まらない。膝ががくがくと笑い、腰が砕ける。
「こんなに勃起して…こりこりじゃないか。陰唇からはみ出てるぞ。これじゃ普通に歩くだけでパンツに擦れて感じるだろ?」
ああ。オナニーを見咎められたような恥辱が爆発する。陰核を縦横無尽に蹂躙されながら膣口に吸い付くような指先に別の期待感が一気に膨れ上がった。指を膣で呑み込もうと腰をにじる。するりと滑って逃げる指。スクエアタワーの日曜日とは正反対にわたしの欲望は影を捕まえようと躍起になって尻を振る。

路地の奥から微かな音楽が伝わった。多分、わたしが生まれるよりもずっと前のジャズ。繊細なピアノに被さる蕩けそうなサックス。
「踊ろうか」
「わたしだけ…裸なの?」
「おまえは裸のときがいちばんきれいだ」
背後から腰を抱えられたまま左右に尻が揺すられた。背伸びをするように腕が持ち上げられてシャツの上から乳房が揉みしだかれる。真下から持ち上げられるように。
「ちゃんと…触って……」
普段わたしが寄り掛かっているはずの良識と羞恥は既に跡形もなかった。あけみに粉々にされた自尊心の欠片だけが惨めにしみったれて散らばっていた。
背中のホックを摘み上げられて胸を締め付けた力が消える。胸元のボタンを外されながら肩からシャツが滑り落ちる。全裸に剥かれたわたしはリズムに合わせ緩やかに、裸の胸を奮わせながら踊る。
「いい眺めだ。まん丸で固い乳だな。こんなきれいな乳、見たことないぞ。もっと揺すれ」
命じられるままに躰を上下に揺すると、重い量感が胸元で跳ね回る。
「いい眺めだ」
「恥ずかしい……」
揺れる乳房の先端だけを強く摘み上げられて、背筋がのけぞった。
「もっと足を開いて尻を振れ」
影の要求を素直に受け入れて、屈み背筋を伸ばし、胸と尻が大きく揺れるように躰をくねらせる。屈辱とは別の陶酔感がわたしを浸し始める。
「もっと後ろに突き出さないと尻の穴が見えないじゃないか」
「そんなところ見ないで…ちゃんと触って。もう、おかしくなりそう」
そう言いながら、影の目の前に突き上げるように尻を振り、躰をくねらせて胸を揺する。
わたしに突き刺さる熱っぽい視線にいつしかわたしは興奮していた。そう、媚びていたのだ。今まで絶対に自分にはできないと思っていたこと。早く気持ちよくして欲しい…から、胸を震わせ、露骨に股を広げ、尻を突き出しながらわたしは影を誘っていた。

わたしは息を呑む。
影の指がぬるりと膣に突き進む。四周を抉るように掻き混ぜられて喉から止めようのない嗚咽が迸る。
「締めてみろ」
腰を振りながら膣に深く挿入された指を無我夢中で締め上げる。
「締りがいいな。おまけにざらざらで溶けそうに熱いじゃないか…」
くちゅくちゅと音を立てながら影の指が膣壁を圧迫すると、堪えられない快感が躰の最深部から湧き上がる。何の躊躇いもなくもう一本の指が肛門に潜り込んだ。直腸に捻じ込まれた指先と膣を犯す指先に間の肉を強く挟まれて左右に尻を振り回される。
恥辱と快感が怒涛のように全身を突き進み、膝と腰が同時に抜けた。
崩れ落ちる躰を影の腕が支えた。
「尻の穴はどうだ?」
言葉にならない声が喉から溢れ出た。
あまりの屈辱と突き抜ける悦楽に口がだらしなく開きっぱなし。
涎がだらだら流れ落ちていたが口を閉じることもできなかった。

『空の青 5−4』(続く)

作成日:2006/11/30 最終更新日:2006/12/03

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