空の青 5月(2)

「あら、それも鰯? そこで光っているの」
縁側の軒先に綺麗に並んでぶら下がっている鰯をちょっと眩しそうに目を細めて眺めながら松崎が訊いた。

「あなた、いつから魚屋になったわけ?」
ようやく突き放すような冷たい一言が聞けて雅明は嬉しかった。

「いやぁ、まだ始めたばっかりなんですが」
木南が調子に乗った。
「これ、作ったのもあなた?」
つみれ汁を指して松崎が言った。
「もちろん」
「へぇ〜、と〜ってもいい旦那さんに成れそうね」
首を傾げながら皮肉を浴びせかける松崎は、昔から男子生徒にデジカメで盗み撮りされるほど受けていたが、今日はそれにも増して困惑するほどの女らしさを周囲に発散していた。
皆は目をくぎづけにしながらも、聞こえない振りをしながら笑いを押さえていた。
「魚もさばけるみたいね」「美味しいわよ、このお刺身」
「そりゃ、材料がいいからでさぁ」
「腕もなかなかじゃない。見ればわかるわよ」
「いえいえ、とんでもない。まだ修行中の身ですから」「刺身はともかく、干物はまだコツが呑みこめなくて」

「ここにその就職先と住所、電話番号を書きなさい」
松崎の手がすっと伸びて、バッグから取り出した手帳を木南に突きつけた。
「でも売り物と違って塩水に漬けるんじゃなくて、ちゃんと粗塩振ってますんで美味しいですよ」
言い訳を挟みながら木南が手帳を受け取った。
「そう、確かに変に油がまわってなくて美味しそうね」
「へへ、明日には干し上がりますからお届けしましょうか」
「あら、いいの?」
「ええ、たくさんあるからいくらでも」
「全部鰯なんでしょ?」
「ええ、廉かったもんで」
返された手帳を一瞥した松崎が一瞬何か言い掛けたが手帳をバッグにしまった。
「次は鯵(あじ)にでもしましょうか」
「そう、じゃあ良いのが手に入ったら、またお願いするわ」
「そりゃ、もちろん喜んで」
「鯵だったらたたきになるの? 半分は酢締めがいいわ」「ちゃんと元手は出すわ」
「さすが、社会人。仰せの通りに」

会話が途切れるのを待ち構えていたように、反対側からあけみちゃんが同じように手帳を突き出した。
「あたしにも書いてよ」
有無を言わさぬ口調がちょっと恐かった。肩のところで綺麗に揃えられたストレートの髪が流れて艶々と光った。
手帳を受け取った木南の目がちょっと戸惑って、慌てたように書き始めた。あらかじめ何か書かれていたのだろう。雅明は吹き出したくなるのを堪えて、笑わないように必死に感情を抑えつけていた。
「あたしにも貰えるかな、鰯」
「え、ああ、どぞどぞ。もちろん。届けようか、明日」
「うん。待ってる」
「あ、そうそう、あたしの希望も言っていい?」
「あたしはね、イカがいいな。イカそーめんとね、木南鮮魚店自家製の塩辛」
我慢できずに雅明は爆笑した。

最初は二人の態度に戸惑っていた木南だが、どうにも居心地が悪いようだった。片方と話をすれば、いちいち振り返らねばならないのが滑稽だった。雅明がときどき、茶々をいれてやると、ほっとしたように空を仰いだ。それでも、木南が作った思いの他美味しい料理とアルコールが、お互いの間に堆積していた一年ぶりという時間の塵を少しづつ吹き払い、夜の湿度が剥き出しの感情を柔らかく包むと、眺めている三人の間に安寧とせつなさがない混ぜになったような空気が漂い始めた。
あけみちゃんもビールのせいか普段(といっても久しぶりだが)よりもずっと積極的なように見えた。それにも増して驚いたことに、かつてはことあるたびに悪態をついていた松崎に対して、あれこれ楽しそうに話しかけているのだ。訊かれた松崎の方が戸惑っているのがおもしろかった。もちろん、あけみちゃんだって一年の間に変わって当然だし、高校生のときとは明らかに違う魅力を放っているのは事実だなと雅明は観察していた。

挿絵1

『空の青 5月(2)』

夜も更けて、最初にその他二名の男どもが沈没してしまった。
「さぁ、帰らなくちゃ」
松崎女史の一言を待っていたかのように、お開きにすることになった。畳の上でひっくり返っている二人の男を無視して雅明は手早く後片付けをした。
帰り支度をしている二人の女性の間で困惑した表情で落ち着きのない木南が少し憐れになって助け舟を出してやった。
「おれはこいつら何とかするから、あけみちゃんの家経由で送っていけばいいんじゃないの」「あけみちゃんの家、知ってるだろ?」
「お、そだな。じゃあ、昼くらいには取りに来るよ」
ぶら下がっている鰯を点検して、木南は助かったよ、と言いたげな顔をして軽く手を挙げて帰っていった。
雅明は沈没した奴から抜き取ったその日最初で最後のタバコをゆっくりと肺に吸い込んで、二人の女性に挟まれて夜道に消えていく木南を見送ってやった。

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「えっと、あそこにあのまま住んでるんですか」
「そうよ、行方不明の誰かから連絡があるに違いないって思ってた馬鹿な女がいたわけね」
「あぁ、まったくしょうもないですね、そいつ」
券売機で切符を買った木南は改札を通った。

土曜の深夜だ。
がらがらの車内で並んで座った。
向かいの窓に二人が写っていた。二人して暗い窓に映ったお互いの姿を見ていた。
苦しくなって木南は目を逸らした。目を落として組んだ足の膝に手を乗せた。ほんの一瞬、松崎の目を盗んで掠るように触れられた手の平にあけみちゃんの感触が甦り、別れ際に見せたあけみちゃんの恨みがましい目を思い返した。
「どこまで送りましょうか」
轟音と共に流れている暗いトンネルの背景に松崎智美の目が微かに動いた気がした。
「家まで」

「何?」「その訊きかた」
「だって、一年もあればご主人とお子さんがいたっておかしくないでしょう」
微かに頬が笑ったが目はまったく笑っていなかった。
「それ、褒めてるの? それとも馬鹿にしてるの?」
「そういうつもりじゃないです」
沈黙が二人の間に正確に堆積していた。
「そういうあなたは一人で戻ってきたの?」
「ええ」
「携帯の番号とメールは?」
「携帯は免許取ろうと思って金使い込んじゃったので来月にならないと…」
「メールは新しいアドレス入れておきます」

「髪伸びましたね」
「そう、一年分」
そう言いながら松崎は躰を傾けて正面を向いている木南の右肩に軽く頭を載せた。
「触ってもいいですか」
「だめ」

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「あの子の目見た?」「えっと、誰だっけ。菊川さん」
「あけみちゃん?」
「そう」「さっき帰り際、ものすごい目で睨みつけられたわ」
「彼女、綺麗になったわね」
「そうですね、前から綺麗でしたけどね」
「ふん、何よ、それ」「わたしが知らないとでも思ってるの?」
「いえ」
「なら、どうしてわたしをかまったの?」
「……」
「好きだから」
横目でそっと見た松崎の口元が微かに震えていた。
「あのときの子みたいに切りつけてやりたい」
軋むブレーキの金属音の陰でそう聞こえた気がした。

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玄関のたたきに男もののスニーカーが放り出してあった。木南が目を留めたのを見て松崎が笑った。
「女の一人暮し対策グッズだってば」
「あぁ、なるほど…」
「けっこう危ないのよ、この辺も」
転がっているスニーカーが微妙に新品臭くてリアリティに欠けるなとは思ったが口には出さなかった。

「着替えてくるから」
松崎は冷蔵庫から缶ビールを一缶取り出すとプルトップを引いて、カウンターに寄り掛かっていた木南の傍らに缶を置いた。
一年と少し前と何も変わらない部屋をざっと見廻したとき、奥からシャワーの音が聞こえてきたので、木南は南側の大きなテラス戸を開けてルーフバルコニーに出た。

目の前に大きく広がる夜景は一年前に比べて少し面積が広がっていた。
微かに香る南風が心地良く頬を撫でた。
缶ビールを手に手摺に寄り掛かって振り返る。内側を眺めると、バルコニーの中央に置かれた白くてごつい木のテーブルが目に付いた。巾1m、長さは2mぐらいあるだろうか、高校生の夏休みに頼まれて作ったものだ。雨に打たれてところどころペンキが剥げていた。そのテーブルと一つだけアンバランスに放置された丸い椅子だけが殺風景な空間で、黒い床のタイルの海に浮かぶ箱舟のように規則正しい秩序を主張していた。

驚くほど明るく見える部屋の奥の扉を開けて彼女が現れた。
一瞬慌てたように部屋を見廻して、すぐに気づいたように窓際にやってきた。
開いたままのガラス戸から、真っ白なナイトウェアに身を包んだ彼女が滑るように黒い海に降り立った。濡れた髪を押さえた赤ワイン色のタオルが逆光を浴びて血のように燃えあがった。
裸足の足が黒い水を漕いで正確に進んだ。

「あぁ、ここにいたの」
目の前にすっと立った松崎がほっとした表情で赤いタオルを広げて肩に羽織るように掛けた。
「乾かすのが大変だわ」
バルコニーを照らす小さなスポットライトに長い髪が黄金色に輝いた。
「触ってもいいわよ」「まだあんまり乾いてないけれど」
彼女は少しだけ目を伏せた。

木南は動かなかった。
さっき電車の中で触らないで良かったと思い返していた。
訝しげに顔を上げた彼女が《何故?》と訊ねるように首をかしげた。
「その、手が魚臭いから」
いきなり手首を掴まれて松崎が顔を近づけた。匂いを嗅ぐしぐさが子供のように幼かった。
「ほんと、生臭いわね」「お風呂お湯入れたから石鹸でよく洗いなさい」
笑顔が戻った松崎に手を引かれて木南は従順に従った。

『空の青 2−2』(続く)


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