いつもと同じ時間に家に帰った。
そそくさと階段を駆け上がり自分の部屋に入って、思わずベッドに倒れ込んだ。
押し寄せる記憶と高ぶった感情で動悸は高まったままだ。
一年を一日で経験したような濃厚で緻密な時間が今もまだ続いているようだった。
開け放した窓から巣に還る椋鳥の鳴き声が騒々しく煩い。ときおり混じるキーッという鳴き声は尾長。シーツに断末魔の夕陽が赤く差し込んでいた。
頭の中がぐるぐる廻っている。
次はどうすればよいのだろう。
どういう顔をして明日会えば良いのだろう。
枕を抱きかかえて顔を押し付けた。
自分が今どんな顔をしているのか、無性に確かめたくなってベッドの傍らの姿見のカバーを勢いよく捲った。見飽きたいつもの顔は陽に焼けたのか少し赤くて、目が腫れぼったい気がした。
着替えなくちゃ。
唐突にそう思って、ブレザーを脱いでクローゼットに仕舞った。ブラウスの腕を腰に当ててポーズをとってみたところで何も変わりはしなかった。
胸元を止めている赤いタイ。
初めて自分以外の人間が、今日それを引き抜いた。
左手の人差し指と親指で赤い生地を挟んで僅かに力を込める。軽い抵抗がふっと消えて結び目が解けた。赤い一本の紐になってしまったタイが白いブラウスの胸に少し撓んで残った。
腰のボタンを外してジッパーを降ろすと、ふわっと空気が泳いでスカートが足元で丸く輪になった。襟からタイを引き抜いて、ブラウスのボタンを上から順番に外す。前を開いて重力の赴くままに肩から落すと足元のスカートの上に白い羽根が落ちた。
輪の中から片足を上げてソックスを脱ぐ。乾いた砂がぱらぱらとフローリングの床に落ちた。丸まったソックスを床に放り出すと、姿見の正面で下着姿のわたしは少しだけ恥かしそうだった。
わたしは鏡のなかのわたしを見ていた。
彼が吸った胸、彼が触れた躰。
思い出すだけで赤面する。鏡の中の女も首筋から胸元まで赤くなっていた。
身を捩って逃げ出したい願望と、彼の痕跡を確認したい欲望が拮抗した。
ブラと買ったばかりのショーツを下ろして床に落とした。
夕方の赤味がかった光のなかで面白くも何ともないはずの、いつもの躰がまるで別人のように見えた。
髪が少し伸びた。毎日洗うくらいでたいしたことは何もしていない。自然にウェーブが掛かって友達には羨ましがられるけれど、そう言われたときには自分がいちばんびっくりした。肩に掛かる髪はそろそろ暑苦しいし、体育のときまとめるのが面倒でかなわない。だからそろそろばっさり切ろうと思っていたけれど、彼に撫でられて途端にもったいなくなってしまった。
また撫でられることを期待している自分が恥ずかしい。
考えたところでどうにもならないから、顔を含めた外面的な美醜は考えたことがない。もちろん、誰が見ても文句のつけようのない人がこの世にはいるのだということはわかっているつもりだ。そう、例えば、担任の松崎先生のように。あるいはあけみちゃんのように。
何とも思わないはずのことに何となく悲しくなって、そのままベッドに潜り込んだ。
陽が落ちて赤く染まった大気があっという間に薄青く色を喪いはじめた。
毛布を引っ被って目を閉じた。
波の音。風の音。潮の匂い。
唇にキスの感触がはっきりと甦って慌てた。
暖かくて柔らかくて、少し塩の味がした。
彼に吸われた胸の先。わたしはただ、ずっと壊れた人形のように顔を覆ったまま横たわっていて……、広げられた足の間にキスされて……されるがままになっていた。
明るかったし、全部見られたんだろうか。恥かしい。
躰が火照って硬直してしまう。触りたいけど触れない。
だってまだ彼の愛撫が残っているから。彼に触れられた感触を忘れたくないから。
頭に目くるめくイメージが奔流のように流れて、困ってしまって万歳するように両腕を毛布から突き出した。ベッドの頭の固い縁を強く掴んで耐えようとするけれど、自然に恥かしい声が漏れてしまう。
思い出したらだめと思いつつ、逆にすっかり囚われて、固く目を瞑ったまま寝返りを打った。胸が張って重い。先端は敏感になって布団に擦れる感覚が背中を貫くように伝わった。
足の間が熱く燃え周囲に生温かさが広がった。軽く太腿を合わせるだけで既に湿って溢れ出た液体を感じた。何もしていないのに……お尻から太腿の内側までが溶いたバターを流したように滑らかにぬめっていた。
躰が動く度に毛布から押し出される空気がすっかり艶かしくて、既に女の匂いが充満していた。
「夕実?」
扉が開いて母が入って来たのにはまったく気がつかなかった。
反応にタイムラグ。
え? っと思って振り向いた先にベッドを覗き込むようにして母が立っていた。
「どうしたの?」
パニック。パニック。
「なんでもない!」
「やだ! どうして声も掛けないで入ってくるの!」
「何度も呼んだじゃないの」
いつのまにか腕だけでなく、裸の肩から胸、片足までが布団の外に出ている。
「あなた、裸なの?」
まずいものを見たという風に、慌てて母は目を逸らした。
「違う! だから、あの…」
慌てて小さく丸まって布団に潜り込んだ。
「服! ちゃんとたたみなさい」
床に脱ぎ捨てられている制服や下着を見て、呆れたと言わんばかりの声が降ってきた。
結局、その日はお風呂にも入らず、ご飯も食べず、家族が寝静まった夜中に下に降りて冷蔵庫からプリンとヨーグルトを調達して凌いだ。
翌朝、空腹でお腹がぐうぐう鳴っていた。さすがにそのまま学校に行くわけにはいかない。なんだかすっかり神妙な気持ちになってシャワーを浴びて、昨夜とはまったく逆に、もう一度同じことがあってもいいように、躰の隅々まで馬鹿みたいに丁寧に洗った。
父はいつもと同じで新聞の向こう側。母は何も言わなかった。
でも、朝食をもの凄い勢いで食べるわたしを見て、心配して損したという表情がありありと浮かんでいた。
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カードを見せてゲートを潜った。
文系学部の裏山の麓に入り口がある。今はまだ一般教養でキャンパスのこちら側に来る用事はないから知ったのはつい最近だ。それ以来ちょくちょく空き時間をみつけて来てみるが、普段は滅多に人がいなくて不思議な鳥の鳴き声だけが甲高く山裾に響いていた。
理学部の付属植物園だから学生ならただで入れる。植物園といっても温室があるわけでもなし、展示室のある管理棟を除けばあまり見せるという意識もないのかもしれない。山がまるまる一つ、ずうっと登っていくと山の上の工学部の方に出るはずだが、一度もそこまで行ったことはない。鬱蒼と茂った木々の道を登れば市街を見下ろす展望台があるらしいが、山あり谷ありで沢筋には蛇がいるし、ハクビシンと鉢合わせしたこともあった。葉が茂れば森はますます暗く、トラツグミの陰気な鳴き声が聞こえたりして一人で歩くのはちょっと怖い。そんなわけで大抵は研究棟のある麓の芝生に座ってぼんやりしていることが多かった。
木々の梢から覗く空が目に染みるように青い。直射日光が身体に降り注ぐけれど陰に入るのは何となく惜しかった。久々の晴れ間だったから。
眩しさに目を閉じると、林間の鳥の鳴き声がひときわ大きく耳に響き、強い青葉の匂いが香った。そのなかに混じるひときわ甘くて若い、湿った青臭さ。
栗の花だ。
見上げた空にタカがゆっくりと旋回しながら獲物を探している。
あぁ、あのときもそうだった。
一度は封印したものの、何度も蓋を開けてはいじくりまわした追憶が脳裏に染み渡るように拡がりはじめた。満開の栗で咽るような匂いが絡み付いてきて、彼は笑っていたけれど、わたしは本当に何も知らなかった。
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「ねぇ、お弁当ってどうやって作るの?」
自分の湯呑にお茶を注いでいた母が呆気にとられた顔で見返した。
「お母さん。お茶溢れてる」
テーブルの上に湯気を立てて薄黄色の範囲が広がっていった。
「なによ。脅かさないでよ」
狼狽した母が慌てて布巾を広げた。
「教えてよ」
今度は湯飲みをひっくり返して惨状は一気に拡大した。
気になりだすとどうしようもなく気になるものだ。昼ご飯を食べないのが健康に良いわけがない。海でわたしのお弁当を半分、もちろんピーマンは全部、彼は本当に美味しそうに食べていた。彼はあまり自分のことを話さないけれど、親が共働きだから頼んでも作ってくれないとも聞いた。貰っている昼食代は別のことに消えるらしい。家で食事するときは半分くらいは自分で作ると聞いて、自分の境遇が恵まれていることに気付かされちょっと恥ずかしかった。
一緒に海でサボった翌週、わたしは彼が喜んでくれることを期待した。
「いったい何? 突然」「男でもできたの?」
「品がないよ。その言い方」
「ふん。いきなり子供ができたとかって言わないでよね」「泣きつくならお父さんに泣きついて頂戴」
ここで怒ったり恥ずかしがったら母の思う壺だということはわかっていたけれど、何となく頭に血が上ってしまう。
「何赤くなってんのよ」「勉強以外のこともしてくれるのは嬉しいけど、熱でもあるんじゃないの?」
そこまで言わなくてもいいと思う。
「理由は聞かないで。ちょっと、自分で作ってみたいかなって思っただけ」
「ふ〜ん。で、何を作るの?」
結局、出来上がったものは半分以上母が作ったものだ。料理は予想以上に手強かった。わたしが一晩かかって考えたメニューの半分はこの時期のお弁当には不適切だと却下された。その上、見様見真似で作ったものはちっとも美味しくない、どころか正直いって食べるのが辛かった。材料も火加減も味付けも何も知らないのだから当然といえば当然だが、まともなものを作るのには最低一年はかかるだろう、ということだけはわかった。
でもそれでは間に合わない。彼にはわたしが作ったものを食べて欲しいと思ったが、取り敢えずはズルして出来栄えを優先した。最初は手を出すことを控えていた母もわたしのあまりの情けなさに同情してくれたのだろう。結局はメニューから詰め合わせまでいつもの母の弁当と同じものが出来た。
「何か言われたら母に教わっているんだから同じになるのは当然でしょ、って言っておきなさい」
入れ知恵までされて、そのときだけは素直に母に感謝した。
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少なくとも味に関しては自信を持って彼に勧められる弁当を持って、わたしたちは裏山の石段を登っていた。
暑いくらいの陽光と吹き抜ける風が気持ち良かった。
枯れた整形の池の縁に座ろうとしたら彼が《ホレ》と言いながらハンカチを広げてくれた。
なんだか心が弾んでしまう。
隣に座った彼が後ろ手を突いて空を見上げた。
「天気はいいけど、臭い」
え? 何?
びっくりして横顔をまじまじと眺めてしまう。
黒目の虹彩に日光が差し込んで黄金色に光っている。睫毛が長い。
尖った白い顎と滑らかに続く喉を見て躰がぴくんと反応してしまう。慌てて目を逸らす。
「…くない?」
彼の顔がびっくりするほど近くにあった。
「え〜、そう? 栗でしょ、この匂い」「ちょっと、甘ったるいというか青臭いけど」
「知らないの?」
「え?、何? わかんない」
「食べ終わったら教えてあげるよ」
彼が持ってきた冷たいペットボトルのお茶を一つ貰って、お弁当を広げた。
「どう? かな」
と、訊くのも馬鹿らしいか。わたしは半分も食べていないのに、凄い勢いで弁当箱が空になる。
「美味しい」「美味しい」
「でもね、量はちょっと少ないかな。倍は食えるよ」
「う〜ん、そうだね」「あっという間だもんね、食べちゃうの」
「ゆっくり味わったつもりだけど」
「味、濃くない?」
「ちょうどいい」「うん、正統的な味付けが今となっては貴重ですらある」
「え? 出汁とかでしょ。そうなんだ。苦労したんだ」
すかさず母の入れ知恵を繰り出す。
「へへ、良かったぁ」
彼にはおくびにも出さずに、母に感謝しておいた。
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「ねぇねぇ、さっきの話」
「そのうちわかるよ」
「ずる〜い、教えてくれないつもり?」
「臭いがそっくり」
「何に?」
「……精液に」
最初はその音と言葉が結びつかなかった。
漢字が頭の中で結びついて躰がカッと熱くなった。
「えっと、その、男の人の?」
彼がにやにや笑いながら頷いた。
「そう、そうなんだ」
「だって、見たことも匂い嗅いだこともないし……」
そういえば電車で、スカート汚されたっていう話はよく聞くけれど、今のところそんな目には会っていないからわたしにはわからない。
でも、なんとなく心を刺激するものがあった。
そういえば芭蕉の句にも栗の花を詠ったものがあったし……、
《世の人の見付けぬ花や軒の栗》
だった。山形で読んだ句じゃなかったっけ。須賀川か。そうそう、
《花栗のちからのかぎり夜もにほふ》
などという飯田龍太の句にも憶えがあった。
そうか。“ちから”ってそういう意味だったのか。
そこに込められたはずの想いが今ようやくわかった気がした。でもそれは多分まだ半分なのだ。頭で字句通りの意味にしか感じとれないという意味で、わたしは子供だった。もしかしたら、気に入った歌や句も全然意味が違ってたりして……いや、もっと深い意味が込められたりするんじゃなかろうか? そう思い始めるとなんだかけっこう切なくなった。
そして、その想いをどうしても確かめずにはいられなくなった。
「あの…、確かめるわけにはいかない?」
彼が訝しげにわたしを見詰めた。
「どうすればいいの?」「みんなで、その、ビデオとかは見たことあるけれど…」
「へ?」「……本気?」
「うん。冗談でこんなこと言わない」「けっこう時間かかるんだっけ? やっぱ無理かな」
「いや、まぁ、その気になれば30秒でも良い気もするけど……」
「その気になるにはどうしたらいいの?」
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照明を点けられない部屋はどんどん青暗く沈んでいった。
結局、わたしは考え得る最も的外れで、恥ずかしい方法で目的を成し遂げた。思い出しただけで顔から火が出そうだ。でも結果的にはそれでよかったのだと今は思える。
ただそのときは、もう、形にびっくりして、大きさにびっくりして、味にびっくりしていた。どうしていいかわからなくて、彼の先っぽを触ったり頬に擦りつけていた。それはすべすべでつるつるで、どうにも堪らない気持ちに翻弄されていた。
真っ暗になった廊下を手をつないで歩いた。足音だけが二人の跡をついて来た。
足の間にまだ入っているような気がして歩き方がギクシャクしてしまう。
機械警備のマグネット・センサーがついていない窓を開けて、手を借りて乗り越えて外に出た。
藍色の透明な夜の底をメタルハライドランプの青白い光がしっとりと照らしていた。距離の二乗に反比例した世界の半径がおぼろげに掴み取れた。
わたしの家のほうが近いから、途中下車した彼が送ってくれた。
改札を出て階段を登るといつもの街の光景が広がった。赤、黄色、緑、青、白、藍色の背景にオレンジがひときわ映える。彼の腕にすがって色が溢れた光の中に一歩を踏み出した。夜の湿気のなかで食欲をそそるいい匂いが鼻を突いた。
駅前の路地にある小さなラーメン屋。彼に手を引かれたまま暖簾を潜るとお腹が鳴った。
迷わずカウンターに座った彼の隣に躰をくっつけるように並んだ。
目の前の親爺が湯気の向こうでにっと笑った。わたしは恥ずかしくなって下を向いてしまう。
「醤油でメンマ追加で」
さっさと決めて注文する彼が羨ましい。発音が明瞭なのだ。
「何にする?」
壁の下手糞なメニューを眺める。醤油、塩、味噌の基本に好きなものを加えるというシステムらしい。
「塩でバターとコーンも加えていいかな……」
わたしは語尾が不明瞭。すかさず彼が頼んでくれた。
毎日通るから知ってはいたけれど、一度も入ったことはなかった。店の見栄えと味は比例しないことはすぐにわかった。スープはあっさりだから包丁で無造作にスライスされたバターの風味が生きている。太目の麺の滑らかな腰にわたしはすぐに夢中になった。
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このまま彼に会えなかったら、いつかは思い出になってしまうのだろうか。
明るい日差しに耐え切れなくなって膝を抱えて顔を伏せた。
閉じた目の向こう側に広漠とした闇が広がった。
『空の青 6月(3)』(続く)