空の青 11月(1)

ウキウキし過ぎて階段から転げ落ちそうになった。
視界の片隅でトイレのドアが丁度閉まった。
先にキッチンに入って、自分のカップになみなみとコーヒーを注ぎ入れた。
挽いたばかりの豆の薫り。砂糖もミルクも入れない。
トイレは後回しにしてリビングを覗くと、晩秋の爽やかな朝の光のなかで両手に大きく新聞を広げた父がソファでくつろいでいた。

その腕の下をくぐって、雌猫のようにもぞもぞと膝の上ににじり寄る。
ほんの10年前までは定位置だった場所。
そんなお気に入りのシチュエイションも、少しずつ間が開いて……、こうしてじゃれたのは…ああ……寛がいなくなって、一晩ぐずぐず泣きはらした次の朝、こうしてここで眠りこけていた……もう、1年以上も前の早春のこと。
寄り掛かった胸にわざとらしく頬を擦りつけても、父の視線は何事もないように活字を追い続けていた。
「おしっこ漏れそう」
「……」
「漏らしてもいい?」
「ソファが汚れると、お母さんに怒られるんじゃないか?」
もぞもぞと動いて更に居心地のよい位置を探ると、パジャマ代わりの真っ黒なバスローブの裾が乱れて割れた。剥き出しになった太腿がやけに白く見えたが、別に気にはならない。さすがに昔に比べれば機会は減ったが、家族でお風呂に入ったことだってある。
「う〜ん、だって、トイレ塞がってるの」
「2階を……使えばいいじゃないか」
「面倒だからいや。せっかくあったかくて居心地いいのに」
無関心に活字を追い続ける父の視線を夕実は左の手首で遮った。
「これ……ありがとう」
手首に弛めにフィットした……細身のシルバーに輝く腕時計。
「前から欲しかったの」
「それはよかった」
「もしかして……。最近帰りが遅いし、あの子も成人なんだから自覚を持って自己管理をさせなくちゃ、なんていう意図が込められていたりする?」
ふっと視線が宙に浮き、頬が微かに笑ってすぐに元通りになった。
「いや、そろそろ誕生日だったなって思っただけだ。ただの通過点だ。二十歳そのことに意味があるわけではないだろう」
一瞬、今初めてそこに夕実がいることに気付いたように、ようやく二人の視線が合った。

しかし次の瞬間、父の視線はまったく何事もなかったように再び活字を追い始めていた。
「新聞、面白い?」
「いや、つまらない」
「なら、どうして読むの?」
「ん? 膨大な情報のなかで、特定の誰かが不定の多くの人に伝えたいことが何かを知るにはそれなりに適当だから」
夕実は手に持ったカップからコーヒーを一口啜った。
「大事なのは情報の中身そのものではなくて、どんな情報が選択されて掲載されているかということ?」

遠くでトイレのドアが開く音が聞こえた。
「まぁ、ただの暇つぶしだよ」
目線一つ動かさずに片頬だけで小さく笑った父に見蕩れた。
鋭角的な顎の形、髭剃り後の喉へと続く滑らかなライン、僅かにこけた頬に笑うと小さな笑窪ができる。そして、ちょっと抹香臭いような不思議な匂い――寛とそっくり。いや、逆か。見慣れた父の容と匂いを寛に見出した……ただの、そして重度のファザコン。
もちろん…そんなことは、誰にも話さない。
自嘲気味の苦笑が湧き上がるのと同時に、いきなり背後から頭を叩かれた。
「ちょっと夕実! あんた、なんなの? その格好!」
「痛いなぁ、もう!」
思わず振り返ると、母の引き攣った唇から次に出る台詞が見えた気がした。
「まぁ! なによ? あんた裸なの? だらしない! 起きたらさっさと着替えなさい! まったく色気づいちゃって。もう、恥ずかしいったらありゃしない」
「うるさいなぁ。いいじゃない」
一応、乱れた裾や胸元を合わせたりして、非難の矛先をかわそうとするが母はしつこく絡んできた。
「まぁ、何? 素っ裸に…こんな真っ黒のバスローブなんか着て、どうしたの、これ? あ、わかった! 男に貰ったんでしょう? 誕生日のプレゼント? やぁねぇ。どこをどう間違うと、こんなふしだらな女になっちゃうのかしら。ちょっと、あなた! あなたからも何か言って下さいよ」

反論するのも面倒になって、お小言の嵐をやり過ごそうと父の肩を盾にして隠れる。
「ちょっと、おなたがそうやって甘やかすから……」
今度は矛先が父に向いたが、父は素知らぬ顔をして新聞を丁寧に畳みテーブルに置いた。
トンと軽い音を立てて空気が動いた。
「さぁ、そろそろ出よう。電車に乗り遅れるよ」
立ち上がった父の首筋にしがみついたままだったから足先が宙に浮いた。
ウエストを抱えられて素足が絨毯に着くと、はだけた胸元をさり気なく合わせられた。
「戸締りと火の元、よろしく頼むよ」
「いってらっしゃい」
夕実は正面から父の顔を見上げ、背伸びしてその頬に唇で軽く触れた。

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挿絵81

『空の青 11月(1)』

まだ言いたいことが山ほどあるのに、父に引き摺られていった母の表情を思いだし、夕実はほくそ笑むと同時に、その安定した関係と入り込む余地のない緊密さに純粋な羨ましさを感じていた。
――夫婦の絆? ふん。
自分が今、嵌り込んでいる陥穽の深さに慄いて、夕実は無意識に首を振った。
いつの日か、この絶望的な状況からわたしを救い出してくれる人が現れるのだろうか?
あまりにも陳腐な発想に思わず苦笑がこみ上げた。
つまらない感傷を振り切るように姿見に向かい、全身を写す。
あつらえたようにピッタリと躰にフィットする黒いバスローブ。
すっきりと伸びた脛から膝頭までが出て、肉の付いた太腿を覆い隠す測ったような丈。背側に入ったスリットはけっこう長く、際どい。
父に合わせてもらった袂を開くと乳房がプルンと飛び出して露わになった。
ぼんやりとした乳暈につんと飛び出した乳首を眺め、二本の指で挟みつける。
そう、昨夜、寛の指でされたように。

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昨夜の、あまりにも久しぶりの食事はいつもより、少し贅沢で、少し華やかだった。
――誕生日の前祝い?
このあとは……。
帰宅が遅くなる口実を考えながら、夕実のなかでどんどん期待が膨れ上がった。
それなのに、寛が運転する車は無情にも、見慣れた道をたどり始めた。
――わざわざ…今日逢ったということは、明日逢えないということ?
そうだ。そうに違いない。
暗雲のように広がり始めた疑心暗鬼はすぐに確信に変わった。
家の少し手前……公園の脇。いつもの場所。
――今夜はアパートに誰かいる? 明日は土曜だし、日曜があけみの誕生日だから……また、温泉にでも行くの? 泊りがけで……。
あけみはいつも泊りがけなのに…朝も昼も夜もずっと一緒なのに。ずるい。
寛のためにモデルも引き受けたのに、食事で誤魔化されて、こんなところで人目を気にしながら、なおざりのカーセックス? いや、それどころか、たった15分ほど触ってくれるだけ?
乳首を挟まれながら下着の上から触られているだけなのに、もう泉は止め処もなく溢れ、躰は正確に反応していた……。
――ちがう。ちがう。わたしが今欲しいのは…そういう気持の良さじゃなくて……。
頭の中で熱い塊が音を立てて爆発した。
「ごめん。無理しないでいいよ」
気が付くと、寛の腕を振り払い、突き飛ばして、車の外に飛び出していた。
ドアを叩きつけるように閉めて、後ろも見ずに一目散に駆け出した。
門を入り、後ろ手に門扉を叩きつける……。丁番が軋み、鉄がガツンと甲高い音を立てた。
泣き顔を隠し、何か言いたそうな母の脇をすり抜けて、2階の自室へ駆け上がり……。
バッグを放り出し、コートを脱ぎ捨てて、ベッドに突っ伏そうとして……それに気がついた。
猫のトレードマークがついた宅急便の四角いパッケージ。
――え?
手に取って、伝票を見る。
差出人……寛?
期日指定のシール。配達日時は…1の文字が滲んで横に流れていて…今夜届いてしまったっていうこと?
――何?
バリバリと包装を剥がし、中身を改める。
瀟洒な包み紙に包まれた平べったい箱。重くは……ない。
――え? プレゼント?
蓋を開けると吸い込まれるような黒が一面に広がった。
真っ黒な……バスローブ?
……この間、裸で寝てるって言ったから?
慌てて窓を開け、首を伸ばして道路を見た。公園の暗がりに目を凝らす。
ついさっき車を停めていた場所は、木立の陰を背後にアスファルトだけがぼんやりと白く照らされていた。

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乳首を挟む指に力を込めた。
こうやって自分で自分を慰めても、彼にされる感触とはぜんぜん違う。
そう、新鮮な驚きが……全然ない。マンネリ。予定調和。
今日は第2土曜だから、佐々川君は理子ちゃんのところで一日家庭教師。
天辺さんは……わたしの誕生日を知るわけないし…まだ山を巡っているはずだ。
肝心の寛は……あけみと一緒。間違いない。
父と母は……知人の結婚式に出席するために東京。今夜は向こう泊まりだ。
――わたしは…家族にも置いてきぼりにされて、こうして家でオナニー。
鏡に写る自分をもう一度眺める。
似合っているのか、いないのか、自分ではよくわからない。
ちょっと淫らに足を開く。
三人の男に自由にされた躰。欲しいままに貪られ、受け入れた淫蕩なまでの躰は黒を背景にいつもよりずっと白く輝いていた。
意味ありげに色目を使い、微笑んだ笑顔の醜さに自虐的な気分が這い寄ってきた。
黒とか…派手なピンクの下着でもつけたら娼婦みたい……。

それがいちばん自分にふさわしい気がして……、そのままコートを羽織い、ブーツに素足を突っ込んで外に出た。
ノーブラでノーパン――何というはしたない言葉の響き。
胸は揺れるし、股はスースーするが、天気は申し分なく、寒さは感じない。
明るい午前の清々しい日差しにいっそう気が滅入る。
――どこがいいかな? いつもは避けて通るエッチな下着がたくさんあるのは……。
いくつか候補をイメージしながら、結局いつもの駅前のショッピンッグ・ビルに向かう。
食品スーパーの脇にある衣料品売り場はまだ開店直後で、店内はがらんとしていた。
探すほどもなく、目的のモノは見つかった。
マネキンが着ている黒、すけすけ、どぎついピンク。
見てるほうが恥ずかしくなる下着の山。
ほんの数年…いや、数ヶ月前までは、一生縁がないと考えていたはずの卑猥な下着……。
散々迷って、黒く透けたブラとお揃いの…Tバックみたいにお尻がはみ出そうなショーツを選んでレジに向かった。
サイズは佐々川君に連れられてデパートで測ったから試着しなくとも間違いはない。
無関心を装う、ちょうど母くらいのパートのおばさんの目が一瞬“まぁ”と言うように輝いて、素早く顔を見られた気がした。
逃げ出したくなるような居心地の悪さに紙袋を受け取ると、そそくさと、その視線をかわすようにさり気なくコスメ・コーナーへ退避した。
狭い通路の両側に氾濫する原色に意識が溺れ、目が眩む。はやる心を落ち着かせようと立ち止まる。色とりどりの口紅。安物の……ワンコイン化粧品。
――高いなぁ……。あのドラッグストアならどれでも2割以上値引きしていたのに……。
目は気に入った色を探して左右に走っていたが、夕実は意識の片隅に小さな炎が灯ったことに気付いていた。
あの店で、あの男の前で…佐々川君に求められるまま躰を開く恥ずかしさと屈辱が入り混じった記憶。屈辱に震えながらも、予測がつかない展開に翻弄されて、いつしか自虐的な悦びと官能の渦に呑み込まれ、口にはできない痴態を繰り広げる……。
色を追っていたはずの視線はいつの間にか焦点が暈けて、何も見ていなかった。

――え?
そのとき、唐突に背後に気配を感じ、振り返った。
知らない人。
中肉中背…垢抜けないスタイル…中年の…額が後退した髪の生え際……。
――え? あ、……。
男が仰け反りながら困ったように手を軽く上げて何か言った気がした。
目に映った画像と記憶がようやく一致して……夕実は硬直したまま顔を赤らめた。
……ドラッグストアの、あの…男……いつも白衣を着ている……。
この男の前で……自分のしたこと……されたことが一気に甦った。
「いや、その、別に……偶然。偶然です。あはは。……こんにちは」
卑屈な笑みを浮かべた男に夕実を目を合わせることができなかった。
「こ、こんにちは……」
警戒心よりも突き上げる恥ずかしさに夕実は俯いて身を竦めた。
「いや、その、だから……リ、リサーチ…ね。と、特売の値段、いくらにしようかなって。あは、あはは」
男も…逃げるように後ずさりをはじめ……。
どすんと派手な音を立ててマネキンにぶつかって……、潰れたカエルのような声を上げた。
倒れ掛かってきたマネキンを慌てて支えたら、マネキンが穿いていた紫のすけすけショーツがずるりと脱げてしまった。
男はぎょっとして、助けを求めるように夕実を見た。
「あは、あはは…」
大慌てでショーツを元通りに穿かせようとしたとき、その背後で派手な悲鳴が上がった。
「きゃー!! 変態よ!」
一度、二度。
三度目はうるさいBGMを掻き消して店内に響き渡るほどの声量だった。
度肝を抜かれ、首を巡らす。
声の主は…さっきのおばさん……パートの店員。
遠くから、バタバタと足音を立てて駆けつける店員。警備員までが飛んできた。泡食って狭い通路を右往左往して逃げ惑う男。夕実は映画並みに推移するその事態を唖然として傍観していた。

何故か夕実の周りに人々が集まり始めた。
「大丈夫? 怪我はない?」
「どうされました?」
同時に四方から話し掛けられてどれに答えていいかわからない。
別の警備員に首根っこを押さえられて男が引き摺られてきた。
「この人よ、この人!! 変態よ。わたし見たの!」
パートのおばさんは男を指差してキンキン声で絶叫した。
一瞬にして構築された、被害者、目撃者、犯人の構図。
「……この人がこちらのお嬢さんに何か卑猥なことを言い寄って、…断られた腹いせにマネキンの下着を脱がして……ああ、いやらしい!」
何という……。開いた口が塞がらないほど陳腐なストーリィ展開。
男は……二の句が告げないで、口をパクパクさせている。
「こいつ、おとなしくしろ!」
厳つい警備員が押さえ付けた男の腕を捻り上げた。
それは…ちょっと酷い。
夕実は一呼吸置いて毅然と制服の警備員の前に進み出た。
「離してあげて」
今度は警備員が口をポカンと開けた。
「この人は…わたしの……知り合いの人です。通路にはみ出してたマネキンにぶつかって、倒れそうになったのを押さえたら脱げちゃったんです。脱がしたわけじゃありません」

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何度も同じ説明を繰り返し、いい加減うんざりした頃にようやく誤解が解けた。
背後で自動ドアが閉まると明るい日差しが降り注いで、夕実は眩しさに目を細めた。
「あ、ありがとう…ございます。なんとお礼を言ってよいやら……」
男は相変わらず、卑屈にペコペコと頭を下げ続けた。
「ちゃんと主張すべきことは言わないと…ダメじゃないですか。犯罪者にされちゃいますよ?」
ビルの裏口は商店街に面していて、目覚めたばかりの休日の商店街はまだ閑散として人通りも少なかった。自然と足は駅とは逆方向に向かった。
「あ、いや、その……いや、もう、びっくりしちゃって……腰が抜けるかと思った…」
開店したばかりのカフェで、真っ白なテーブルがさんさんと秋の日差しを浴びていた。
――ああ、そういえば。この人に最初に出くわした場所……。
「お、お、お、お、お茶でもどうですか……」
遠慮がちで自信の無さそうな声に立ち止まると、夕実は男の腕を引いたままであることに気付いて、ちょっと顔を赤らめた。

男がコーヒーを頼んだのを小耳に挟みながら、最高に調子に乗ってビールを頼んだ。
グラスビールだからたいした量じゃない。そして何よりも、今日からは何ら後ろめたさを感じることなく飲むことができるもの。
トレーを持って、外へ出ようか迷ったが、結局窓際のカウンター、止まり木のように背が高いスツールを選んだ。
――あの日と同じ窓際の、同じ席。この間とは裏腹に、ずいぶんと遠慮してから男は左隣にトレーを置いた。
ごく当たり前にコートを脱ぎかけて、下にバスローブしか着ていないことを思い出した。
その下は……パンツも穿いていない。裸だ。
――でも、あの日も、わたしはすべての下着を剥ぎ取られていた……。
佐々川君と始めてセックスした日。残暑の光と影のなかで繰り広げた恥辱と悦楽。この店のこの場所で、ワンピースの前を割られ、この男の目の前で乳房を握られて、…トレイに置かれたナプキンで…ドロドロに濡れた恥ずかしい部分を拭われた……。
忘れようにも忘れられない、鮮烈な記憶が後から後から甦り、呷るようにビールを喉に流し込んだ。

「あ、あの……」
振り向くと、すぐ左におどおどと目線が落ち着かない男の顔があった。
「お礼をしなくちゃ…いけないですね」
別にそれほどのことをしたつもりはない。むしろ塞いでむしゃくしゃした気分を引き立ててくれたくらいだ。
「あ、あああの、リップスティック…、う、うちの持ってって……。さっき…見てたでしょ? 同じモノあるから……んんん、そ、そうじゃなくて、どうすればいいのかな? こういう時って。レストランで食事とか、ドライブとか?」
――わたしを誘ってるの?
可笑しくなって男の顔を真正面からまじまじと見詰めると、男は自分から言い出したくせに目を白黒させていた。
――なんだろう? このどうしようもなく気安い現実感のなさは? 喉を通る炭酸が気持良過ぎて目が閉じてしまいそうだ。
誰にも説明できないし、説明しても信じてもらえなさそうな、希薄でいながら濃厚な、薄膜を通したような関係性。理解と論理を超えた気紛れな僥倖なのか、刹那的な偶然なのか、投げ遣りで自虐的な諦観なのか……。普段だったら働くはずの警戒センサーは初めから役割を放棄して……、棘のない柔らかな空気に意識が蕩けていきそうだ……。
「わたし…きょう、誕生日なんですよね。でも、みんなにフラレちゃって……、家に帰っても誰もいないし、ポカポカ陽気で天気は最高だし……」

――須藤明男。
それが…たぶん男の名前。
店のレジの後ろ側、壁の高い位置に額に入って並んで掲げられた薬剤師の免許証と薬局の営業許可証に書かれていた。年齢は40代後半か…50代前半くらい? 中肉中背の特徴のない体つき。頭は少し薄くなって、胴回りが目立ち始めた典型的なオジサン……。小心で…大人しくて、これといった主張もなく、目立たずに…社会にすっかり埋もれた、その他大勢の典型のような人。佐々川君…と、わたしの…傍若無人な振る舞いに、抗議するわけでもなく、なんとなく惰性で受け入れて、そのこと自身を愉しんでいるような不可解さ。羞恥と屈辱にのた打ち回るわたしを目の前にしながら、佐々川君に命じられるまま指一本触れることができない従順さと不甲斐なさ。
明る過ぎる日差しに逆光になった男の目が半分の困惑と半分の好奇心に輝いて……わたしを見て……見詰めて……。
――見られてる……。恥ずかしい姿を……真っ赤に燃える楓と黄金色に染まった楡の葉が視界を埋め尽くして降り注ぎ……湯煙にぼやけて消えた……。想像上のフラッシュバック。
「じゃぁ、…どこか……近くでいいから、日帰りで温泉に連れていって」
思いもしなかった言葉を聞いたように、ポカンと口を開けた男の顔が滑稽だった。
「お、お・ん・せ・んって、温泉?」
――この人は…嫌とは言わないはず。確信めいた優越と共に不思議な歓びが湧き上がった。遥かに年上の男を翻弄している本能的な快感と愉悦。
「お風呂に入って…ちょっとゆっくりできればいいの。もう紅葉は終わっちゃってるけど…露天風呂がいいな。……明るくて…川の音が聞こえるところ」
ガクガクと首が縦に振られ、細い目を三日月型にして男は笑っていた。
「い、行きましょう!」
「お店はいいんですか?」
冷たく切り返すと、男の目が一瞬点になった。
「え? あっ…う……大丈夫、大丈夫。きょうは…休み…なの」
土曜日に休む店なんてあるわけない。
「いいんですか? そんないい加減なことで」
慌てたように男は弁解を始めた。
「だ、だいじょぶ。うち…高校生とかOLさんがメインだから…土日は、ひ、ヒマで……」
夕実は頬杖を突いたまま、もう一度男をじっくりと観察した。
「ねぇ、前、ここで初めて会ったとき、どうしてわたしの隣に…わざわざ座ったんですか? あのとき…お店、ガラガラだったのに」
「そ、それは……」
須藤は目を逸らして言葉を探していた。
「彼が来なかったら…誘おうと思ったの?」
「いや、その……ガラスに陽が差してて…髪が金色に輝いていて……きれいな子だなって思って…凄い好みだし……つ、つい、フラフラと」
――あらら。もちろん、そう言われて悪い気はしない。
「そ、そう。スレた感じが全然なくて、上品で色白で……目が大きくて…。でも、ちょっとだけ、ワンピースの着こなしが大胆だなって」
「そうでしたっけ?」
須藤は首を縦にブンブン振った。
「う、うん。ボタン開いてて…首筋から肩にかけて…きれいだなって。近くにいけば…ちょ、ちょっと見えそう……かなって」
「見えました?」
夕実が畳み掛けると男はそのときの心境を思い出したかのように卑屈に笑った。
「ほんの……ちょ、ちょっとだけ…。見えそうで見えなくて……」
「ふ〜ん。わたしの胸なんか見て…面白い? 愉しい? 別に…珍しいものじゃないでしょ?」
「そ、それは……やっぱり、こう、形とか大きさとかバランスとかあるじゃないですか……。別に誰のでもいいわけじゃなくて……」
真剣に力説し始めた男を眺め、可笑しくなった夕実はケラケラ笑った。
「そんなに見たいなら、見せてあげようか?」
男に顔を寄せて問うと、須藤は小さな目をまん丸に見開いて、真顔で肯いた。
「外から見えないかな?」
――何を浮かれているのだろう? 頭の一点は醒めていたが、スリルに満ちた気分を押しとどめるには新鮮な刺激に飢えていたし、須藤はあまりにも無害に思えた。
夕実はコートの前から内に手を差し込んで、慎重にバスローブの前を緩めた。
布地の支えを失った乳房の肉がプルンと重く揺れた。
軽くいなすように襟を広げると男の目が一気に見開かれた。
「見える?」
「ちょ、ちょっとだけ……。か、陰になっちゃってるけど……」
須藤にだけ見えるように夕実は躰の角度を調整する。
結果は訊かなくても須藤の顔が示していた。
「ねぇ、あのとき…彼がナプキンを置いて帰ったでしょう? あれは…どうしたの? ちゃんと捨ててくれました?」
男の視線は瞬きもせずに、まだ一点を凝視し続けていた。
自分から訊いておきながら、頭に血が上った。
「も、持って帰って……今でも大事にとってあります……」
心のどこかで望んでいた答えが返ってきて、夕実は顔を赤らめながらも満足していた。
ガラスから差し込む光はどんどん角度を変えているのに、がらんと人気のない店内にはまだ目覚めきっていない休日のゆったりとした空気がひっそりと沈殿していた。

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夕実を乗せた車は街の南郊の川沿いを上流に向けて遡っていた。30分も走れば市民なら誰でも知っている有名な温泉地が渓谷沿いに広がっている。ときおり下に見える川面は鈍く白みがかった緑色に沈み、それほど深くはない断崖の対面には終わりかけの紅葉がまだ昼前の明るい日差しにうら寂しくくすんで見えた。速くもなければ遅くもなく、須藤の運転は車の流れにぴったりと嵌っていた。視界だけが流れていき、走っていることを忘れてしまうような慣性。営業車なのだろう。後席の後ろは荷物が積めるように広い。殺風景で飾り一つないが、車内は几帳面なほど清潔でシートは新品のように硬く癖がなかった。
「乗せる人がいないんで……」
須藤は前を見たまま自嘲気味に小さく笑った。
西に進むにつれて、沿道にはホテルや旅館の巨大な看板が立ち並び、景観をぶち壊していた。少し道が下り坂になって、迫る山肌にいかにも温泉町らしい建物が見え始めた。

「もうちょっと……鄙びたところがいいな」
須藤は大袈裟に肯いた。
「で、ですよね」
まるでそうすることが最初から決まっていたかのように、須藤は温泉町への分岐点で川を渡る橋にハンドルを切った。橋を渡り切ると、国道は一気に山道になって隣県との峠までの距離が看板に出始めた。
「けっこう山奥になっちゃいますけど…何回か行ったことがあるんで……」
「誰と?」
「あ、いや、商店街の慰安旅行とか……ははは」
須藤は慌てたように言い繕った。
「爺さん婆さんばっかりで……、幹事とかやらされちゃって、こき使われて……」
なんとなく、その光景がリアルに想像できて笑ってしまう。
紅葉シーズンはほとんど終わりかけていた。
山肌は冬枯れの淡い褐色に沈み込んで、裸木の梢が煙るように視界を流れていった。ところどころに、出遅れた黄櫨(はぜ)の木が黄色い葉を残して、寂しげな彩りを添えている。小さな峠を越えると一気に視界が広がって、秋晴れの空の青を映した小さなダム湖を見下ろすように道は下る。
「……きれい」

挿絵82

『空の青 11月(1)』

夕実が感嘆すると須藤は湖を見渡す場所にある閑散とした駐車場に車を入れた。湖畔は県営のキャンプ場になっていて、夏ともなれば色とりどりのテントで埋め尽くされるが、オフシーズンの今は見渡す限り荒涼とした枯色の草に覆われていた。
湖に鼻先を向けて車が停まるとフロントガラス全体が青とグレーに染め抜かれた。湖の青、空の青、間に挟まれたなだらかな山の淡く褐色掛かったグレー。
シートベルトを外して軽く伸びをする。
「寒くはない?」
須藤は目をパチパチしながら、黒いローブに包まれた夕実を眩しそうに眺めた。
今気付いたように太い指がパネルを押して、エアコンの温度を上げた。
「え? あ、大丈夫…。暑いくらい。エンジン止めて」
耳が聞こえなくなったかのような静寂が二人を押し包んだ。
ガラスを通した真昼の日差しは軽く汗ばむほど明るくて暖かかった。
裾から出た膝がやけに白く見え、食い入るような視線を感じて足を組む。
逆効果。するりと裾が割れて、太腿が半分露わになって……須藤は気付かなかったように慌てて目を逸らした。
二人きりの密室。
季節外れのせいか、周囲には車一台停まっておらず、人っ子一人、影すら見えない。
ただ、青絵の具を流したような湖が波一つ立たずに静まり返っていた。
――その気になれば……この人はいとも簡単に、わたしに襲いかかって犯すことができる……。
それなのに、なんだろう? この和やかで弛緩した空気は。無理やり話題をでっち上げて、話を続けなくても気詰まりにならず、淡々と透明な時間だけが流れている……。こんな無防備な格好で…こんな状況なのに、この人は多くの男達が必ずするように、肩や手に触れてくるわけでもなく、この曖昧で中途半端な状況を受け入れて…いや、この状況自体を愉しんでいるというべきか……。
――まるで父か…、寛のように。
あまりにも唐突な思い付きに、自分で驚いた。
――そんな馬鹿な……。顔だって体型だって、年齢はもちろん、物腰だって考え方だってありとあらゆるところが違う……。似ているところを探すほうが難しいはずなのに……。
抜けるような青さに目を奪われたまま、ちょっと反芻するだけで相違点はいくらでも数え上げることができる……。それなのに、わたしの女の直感はこの男がわたしが愛する人達と同類であることを疑いもしない……。領域なのだ……わたしのための、居心地の良い領域。父の領域は明晰かつ広大で、寛の領域は色が鮮やかで一回り狭いけれど、溶けてしまいそうに深くて、温かくて底が見えない。この人のは? ……淡い色合いで温かい光が充満しているような……心地良い湿り気と安らかな空気?

この人には……、佐々川君や天辺のような……見通せなくて不安を呼ぶような、それでいて惹かれてしまう魅力的な妖しさを放つ、もやもやとしていながらも強靭で硬質な芯がない、あるいは……バイト先の平野がいつもわたしに向けるような、どんなに柔らかなオブラートに包んでも透けて見えてしまう酷薄で凶暴な野心や、わたしを蹂躙して支配しようとする意思が見えない……。寛だって、荒っぽく性急に、情熱的にわたしを求めるときもあるけれど、他の男達がわたしを見て、わたしの中に刃物を突きつけるように押し入ってくるのに対し、寛は……自分の庭にわたしを置いて、眺めている。いつも、わたしを眺めて…慈しむ……。あまりの居心地の良さに、夢見心地の悦楽に…わたしはわたしを簡単に見失う。わたしは溶けて無くなってしまう……。

「そうだ……」
沈黙を破る唐突な呟きに我に返った。
――おかしいな、わたし……酔ってる?
須藤は太い身体を無理矢理捻じ曲げて、後席に放り出された自分のバッグに手を突っ込んで中を探った。
「あのう……。これ…どうぞ」
なんとも自信のなさそうな口調で、夕実の前に小さな包みが差し出された。
「え? 何?」
「え、その、だから……誕生日のプレゼント……。リボンとかなんにも付いてないけど。さっき、店に置いてあるやつ、急いで選んできたから気に入って貰えるかどうか……」
須藤は口ごもりながらも盛んに照れていた。
「開けていい?」
「も、もちろん……」
小さな目が子犬のように怯え、不安と期待に瞬いた。
箱の蓋を開けると、黄金色のビロード地に青く光る小さなガラス瓶が埋もれていた。
ほんのりと温かい気持ちが否応なく湧き上がる。
「なになに? これ…香水? いいの? こんなの貰っちゃって」
須藤の顔がホッとしたように和んだ。
「オー・ド・トワレ。別に高いものじゃないから……気に入ったら使ってみて」
「ありがとう〜」
夕実は小躍りしたくなるような喜びを素直に表した。
「嬉しいな。こういうの貰ったの初めてなの。前から欲しかったんだけど、わたし……なに買っていいかわからなかったのね」
「一応、あんまりキツクなさそうな、フローラル系のやつにしてみたけど……」
小奇麗なガラス瓶のキャップをちょっと捻っただけで爽やかな花の香りが広がった。
「……いい匂い」

「普通は…どこに付けるの?」
「え? 耳朶の裏側とか、あとは…う〜ん、直接じゃなくて、下着とかに付けるといいんじゃないかな……」
「ふ〜ん、詳しいですね。量はどれくらい?」
「そ、そりゃ、商売だから……。あ、量は……ほんの一滴、ティッシュとかに落として、軽く拭う感じ……。きつ過ぎると厭味になっちゃうし……」
中途半端な余韻。
「し?」
「あ、いや、だから……、夕実ちゃんみたいにきれいな女の子だと、なんにも付けなくてもいい匂いがするから……」
面と向かって言われると、なんとなく顔が赤らんでしまう。
「わたしの匂い? って……どんな匂い?」
僅かな沈黙が挟まった。
「ヴァニラみたいで…甘酸っぱくて、溺れたくなるような……、とってもいい匂い」
「そう……。胸が…ヴァニラの匂いがするって言われたことはあるけど……自分じゃわからない」

「付けてみてもいい?」
「も、もちろん」
ティッシュ……は、と……。
こんなつもりはなかったから、今日はバッグすら持って来ていないし、コートのポケットにも……指先の感触は財布と家のキーだけ。ハンカチすら記憶していなかった。
「あ、こ、これ……どうぞ」
気を回した須藤ががさごそとダッシュボードを漁ると、新品のポケット・ティッシュが束になって出てきた。

取り出したティッシュに一滴垂らすだけで、華やかな香りが狭い空間を柔らかな色に染め上げた。そのティッシュを須藤のごつい手に押し付けて、少し伸びた髪をかき上げて耳を差し出した。
「付けて。自分じゃ変なとこに付いちゃいそう」
まだるっこしいほどの沈黙は長くはなかった。
須藤のぬくもりが耳朶に微かに触れて、次の瞬間、耳の後ろがすっとした。
「こっちも……」
身体を捻じ曲げて反対側の耳を差し出した。

「ありがとう」
髪を軽く振り回しただけで柔らかな香りが鼻腔をくすぐった。
「あとは……、下着着けてないときはどうすればいいの?」
ティッシュを受け取ると、須藤は小さな目を白黒させて、低く唸った。
答えを待つまでもなく、海外の映画でそんなシーンがあったことを思い出した。その女性は胸の谷間と指で梳いて浮かした陰毛に香水をスプレーしていた。
胸元を開こうとして、呆けたように手元を見詰める須藤の視線に気付いて、動きを止めた。
「ちょっと、エッチ。あっち向いてて」
須藤は大慌てで、シートの上で窮屈そうに身体ごと向きを変えた。
最初に胸の谷間、ローブの腰紐を解いて、数えられるほど頼りないが一応生えている陰毛にティッシュを擦りつけた。
――こんなものでいいのだろうか?
はだけたローブからはみ出した乳房も下肢も、空の青さが映り込んだように、心なしかいつもより青白く見えた。
全然自信はないがローブを元通りきっちりと合わせて腰紐を結んだ。
須藤は相変わらず背を向けたまま小さくなっていた。
顔をちょっと背ければいいだけなのに、放っておいたらこの人はずっと背を向けているのだろうか?
だいたい《あっち向いて》なんて照れ隠しの常套文句だ。素振りを示してくれれば済む話なのに……。事実、寛だって、佐々川君だって気が付くと興味深い眼差しを注ぎ、ちっともあっちなんか向いてくれない。
「ねぇ、ねぇ……」
肩を突付くと、ようやく振り返った須藤の目がおどおどと挙動不審者のようにバスローブの上を彷徨った。スライドする視線の先を意識しながら、胸元で手をパタパタ空気を煽った。
「匂い……する?」
一瞬、横に振りかけた首がすとんと収まり、今度は点になった目が瞬きもせず、須藤はガクガクと首を縦に振った。
「どっちなの?」
「香水の匂いはするけど……、夕実ちゃんの匂いが……わからなくなっちゃいました」
返答に困って、用済みになったティッシュをくしゃっと丸めると、須藤の目が素早く動いて手を差し出してきた。
「ゴミ……」
「下さい」
あまりにも真剣な眼差しに、一度は握ったものをつい放してしまった。
「どうするの?」
わかっているのに訊かずにはいれなかった。

須藤は満足そうにティッシュをハンカチに包み、慎重にポケットにしまいこんだ。
「そろそろ……行きましょうか。おなか減ったでしょ?」
夕実は小さく肯いて、シートベルトの金具を引っ張った。
「後どれくらい掛かりそう?」
「山道だから……30分は」
須藤がエンジンを掛けると、動き出したファンが濃密過ぎる香りを柔らかく薄めた。
シートから伝わる振動に、シートベルトの下で尖った左の乳首が強く疼いた。

『空の青 11−1』(続く)

作成日:2009/08/23 最終更新日:2009/08/23

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