空の青 12月(3)

国立公文書館で目的の資料を手に入れて、久野夕実はガラス張りのエントランスから外に出た。正午過ぎだというのに年も押し迫った師走の日差しは薄い雲に遮られて肌寒かったが、北の街の身を切るような寒さとは程遠い。舗石を踏む靴音も心なしか軽やかに弾んだ。探すまでもなかった。皇居の森を背景にした門の傍らで軽く手を上げた男を見つけて、自然と頬が緩んで小走りになった。
「すいません。お待たせしました?」
「いや、今来たばかり。持とうか」
ずしりと重いコピーの入った紙袋を目ざとく見つけた男が手を差し出した。
「そんな……。大丈夫です」
「いいから、いいから。僕は手ぶらだし」
コートも着ず、ジャケットをざっくり羽織っただけの男は笑いながら夕実の手から紙袋を奪い取った。二人は肩を並べ、歩道をゆっくりと歩き出した。車が数珠繋ぎになっている広い通りを歩道橋で越えた。雲間から顔を出した太陽が乾堀を光の粒で染め上げていた。

北桔橋門から皇居東御苑に入った。
正面に明暦の大火以降再建されることはなかった江戸城天守閣跡の巨大な石垣が立ち塞がった。
「登ってみる? 何もないけど」
立ち止まって台形の石垣を見上げた男の傍らに身を寄せて夕実は頷いた。
反対側に廻ると、おそらく昔はなかったはずのスロープが石垣の上へ九十九折に造られていた。
先に立って登り始めた男に夕実はそっと腕を絡めた。
振り返った視線の優しさに夕実は安堵したが、照れ隠しに言葉が出てしまった。
「そんなに速く歩かないでください」
「ごめん、ごめん」
男の歩調が緩んで、組み合わさったままの腕に僅かに力がこもり締まった。
石垣の頂上には人影一つなかった。
下から想像するよりはずっとコンパクトな正形の基壇に、この時期には珍しい東風が吹き抜けた。

「えーと…あっちが皇居? もう方角がわからない。わたし、方向音痴なんですよね。誰かに一緒に来てもらわないと目的地に辿り着けない」
たいした高さではないから皇居は緑の稜線の下に埋もれて、その背後に高層ビルだけが冬の光に映えていた。
「そう。僕も入ったことないから知らないけど」
夕実が指差す方向を見もせずに男は即答した。
「本当は宮内庁の書陵部にも行きたかったんですけど、あそこは指導教官が一緒じゃないと駄目なんです」
男は目を細め、夕実の横顔を眺めていた。優しくカールする長い睫毛や鋭角的なアングルで突き上がった鼻筋、小さな顎と口元の笑窪、複雑な曲線が描くバランスの巧緻に酔っていた。
「うん。宮内庁はちょっと特殊だからね。あとは…都の公文書館は当たってみた? あそこもかなり揃っているよ」
振り向いた夕実の目が輝いた。
「そう…、そこも行きたいんですけど…聞いたこともない場所で、どう行けばいいんですか?」
男は嬉しそうに声を殺して小さく笑った。
「明日か明後日なら…休みを取って案内しようか?」
胸の前で手を合わせた夕実は期待に胸を膨らませた。
「で、でも…、そんな…わたしのために…いいんですか?」
「いいの、いいの。あんまり真面目に出勤すると廻りも迷惑だからさ。それに、せっかく高い交通費を払って来たんだから、機会は有効に使わなきゃ」
「ありがとう…ございます。やたぁ」
満面の笑みを浮かべて、夕実は男の肩に額を押し付けた。
男の高価そうなツイードのジャケットから懐かしい陽だまりの匂いがした。

挿絵93a

『空の青 12月(3)』

「さて、そろそろお昼にしようか。何か……食べたいものはある?」
「わたし、好き嫌いはないから…なんでも大丈夫です」
「そう。じゃあ、鰻でもどうかな?」
「うわぁ。大好きです」
夕実は父親に甘える娘のように男の左腕に右腕を絡ませた。
平川門から出て内堀通りを渡ったところで男はタクシーに手を上げた。
「神田の…明神下」
男が目的地を告げると、アクセルを踏み込んだ車は風を切って師走の町を疾走しはじめた。

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ビルの谷間に鄙びた板塀に囲われた古い木造の二階家が埋もれていた。
素朴な丸太の門柱を入り、古く磨耗した石畳の先で戸に手を掛けようとすると、見通していたかのように内側から引戸が開かれた。カラカラと格子戸が滑る乾いた音と同時に蒲焼の匂いが鼻をくすぐった。下足番に靴を預けると、物腰の落ち着いた仲居が案内を引き継いだ。用意された席は磨き抜かれた廊下を辿ったいちばん奥の個室だった。床の間が付いたかなり広い座敷だったが、中央に置かれた年季の入った木の膳に向かい合うように作られた席は二つだけだった。
「ここはテーブル席がなくてね、他も全部こんな感じなんだ」
辺りを見回して素朴な土壁と細部まで手の入った木の意匠に夕実は目を瞠った。
「格子の細工が凄い。黒光りしてるし……。うわっ、畳の縁もこんなに厚くて…」
「ここ、創業は江戸時代だけど、建物は戦災で焼けてるはずだからそんなに古いものではないよ」
男はあちこちと目移りしながら興味が尽きない夕実を面白そうに眺めていた。

「酒を二合、ヌル燗がいいかな。料理はうざくと肝焼き。白焼きは大きいのを一つでいいかな。…鰻重もけっこう大きかったよね?」
「そうでございますね。お若いお嬢様ですと小さいほうがよろしいかと」
かしこまった上品な仲居にお嬢様などと呼ばれて、夕実はどぎまぎして照れ笑いを浮かべた。
5分ほどで朱塗りの器に乗った先付けと酒が並べられた。
朱に銀杏と和え物の緑が冴え渡り、寒平目の塩辛と玉子の鮮やかな黄をまとった蟹肉の白さが映えた。最初に男の杯に酒を注いだ。いつもなら、出された料理に目が行ってしまうところだが、今日は席に座る前から忘れないように念じていた。黄瀬戸だろうか。鈍く釉のかかった夕実の酒器に酒が満たされると柔らかくも花やかな香りがすっと広がった。
「あっ……」
「どうしたの?」
目を合わせると男は軽くぐい呑みを持ち上げて無言で一息に飲み干した。
「すいません。わたし…床の間の前に座ってる……」
男は心底愉しそうに笑った。
その笑い声があまりにも清々しくて、夕実も一息に注がれた酒を飲み干した。

肝焼きに遅れること15分ほど。白焼きの皮はぱりっと香ばしさを湛え、身はほくほくで摩り下ろした山葵が身肉の素朴な味を引き立てた。深い水色の器に一本丸のままの茗荷と板摺りした塩もみ胡瓜を添えられたうざくは出汁と三杯酢の加減がふんわりと蒸し上げた鰻の脂とさっぱりと合わさって、口の中で温かさと冷たさが絶妙なバランスで交わった。
酒を追加して、更に待つこと20分ほど経った頃、二人の前にどっしりとした漆黒の重が並べられた。
期待を込めて重の蓋を取った夕実は、重全体に隙間なく敷き詰められ、美しく焼き目のついた鰻に小さく歓声を上げた。
皮目は僅かな抵抗を残し、身肉は蕩けるように柔らかだった。たれも不必要な甘味がなく、さっぱりとした辛目で鰻本来の味を邪魔しない節度ある味わいだった。
男は夢中になって食べる夕実を温かい目で眺めながら、箸で柔らかく焼き上げられた鰻を裂いた。

蒲焼はもちろん、吸い物も香の物も、器、盛り付け、洗練と親密さが程よくバランスした仲居のあしらい、どれをとっても申し分のないものだった。
「どう? たまにはこういうのもいいでしょ?」
「う〜ん、こんなに鰻ばかり食べたの初めて。でも、おいしい。こんなにおいしいものだって知らなかった」
「まぁ、雰囲気も味のうちだから」
会話に秘められた男の謙遜と余裕に、夕実までがゆったりと満たされた気持ちになった。
「あの…時間、大丈夫ですか? ずいぶん付き合ってもらっちゃって。ご馳走にもなっちゃって」
「いいの、いいの。少し酔いを醒まさなきゃいけないし。仕事のほうはもう年末だからさ。夕方顔出すくらいで丁度いい」
落ち着いた話術と機転に富んだ話題にすっかり引き込まれ、知識と経験に裏打ちされた会話に時間を忘れた。いつの間にか、正面で食後の茶を啜る男の物静かな笑顔を食い入るように見詰めている自分に気付いて、頭にのぼせるように血が上った。話し方、さり気ない仕草、体つき、そしてもちろんその容姿まで、全てが似過ぎるほど似ていた。

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「おっと…大丈夫かい?」
立ち上がろうとした夕実の身体が大きくふらついた。
男が腕を廻して抱きとめると、夕実は自然に任せるように体重を預けた。
「ちょっと呑み過ぎたかな?」
「ご、ごめんなさい……」
夕実の長い睫毛の下で黒い瞳が妖しく、艶やかに輝いた。
「大丈夫かい?」
窓際に置かれた座布団に崩れるように座らされると、すぐ傍らに胡坐をかいて座った男が障子を薄く開いた。冷たい空気が頬に触れ、心地良かった。
「水を貰おうか?」
いつからだろう? 躰の芯で小さな黒い炎がぽっと灯っていることに少し前から気付いていた。
夕実は男の胸にすっかり躰を預け小さく頷いた。

「すまないね。呑み過ぎちゃったみたいで…ちょっと休ませてもらっていいかな?」
「どうぞ。もうお昼の時間は終わっておりますんで、夕方までご自由にお使いください」
氷水と濡れタオルを持って現れた仲居は食膳を片付けると一礼して襖を閉めた。
「気を使ってくれたのかな……」
おどけたように男が軽口を叩いたが、夕実は内から滲み出る情感に身を任せ切っていた。
短いスカートの乱れた裾を直さなければいけないのに、男の胸に潜り込むように頭を寄せた。男のYシャツに鼻を押し付けると嗅ぎなれた懐かしい匂いがした。
「ちょっとだけ…こうしていれば大丈夫です。でも…」
今頃……鮎ちゃんは血の繋がった兄に、同じように迫って、いけないことをしているに違いない……。
「ん?」
今朝、寛の腕を胸に抱きかかえるようにして、出掛ける夕実を玄関から送り出した鮎ちゃんの暗く燃えるような目を思い出すと、微かに残っていた罪悪感が嘘のように消し飛んだ。
「具合が悪いわけではなくて…気持ちいいくらい」
躰の向きを変えて膝を立てると上体が更に密着した。スカートの裾がずり下がって、しっとりと肉付いた太腿がすっかり露わになったが、夕実は気付かない振りをした。
「胸がきつくて……苦しい…」
夕実の指が襟元を這い、目を瞑ったまま胸元のボタンを二つ…、三つ外して空気を入れた。
「寒くはない?」
「暑いくらい…なの」
夕実はこくりと頷いて、見せ付けるような緩慢さでブラジャーのフロントホックを外した。

ブラジャーのカップを跳ね除けるように、白く輝く硬い盛り上がりがぷるんと震えて姿を現した。夕実の目元が乳房の先端でふっくらと盛り上がった乳暈と同じ薔薇色に染まり、沈黙だけが支配する古びた座敷に、窓の隙間から都会の喧騒が忍び込んだ。
陽だまりの静寂に男の息がはっきりと聞こえ、ゆったりとした周期で頬を押し付けた胸が上下していた。
「きれいだね……」
その言葉を待っていたように指先が残りのボタンを外すと、前が完全に割れて滑らかな白い肌が剥き出しになった。
男の腕に抱えられて、持ち上げられた躰が胡坐の間にすっぽりと嵌った。陽だまりの枯れ草のような乾いた匂いに、夕実の甘く柔らかな匂いが鮮やかに立ち上った。
触れるか触れないかの絶妙な距離を保ち、男の手が優しく夕実の髪を梳いた。熱を持った指先が耳に触れ、頬を撫で、首筋に滑り降りた。
大胆にはだけられた胸元で夕実の真っ白な乳房がたっぷりとした量感を見せ付けるようにふるふると震えた。
首筋から流れた男の指がシャツの内側に潜り込むと、するりと皮を剥くように夕実の華奢な肩が露わになった。腕を滑り落ちる袖に合わせるように夕実の肘が伸びきって、腕に絡まったシャツがブラジャーと一緒に畳に落ちた。男の唇が軽く夕実の頬に触れると、伸び上がった裸の腕が男の首を引き寄せてぴったりと唇が合わさった。
「あ〜あ」
夕実は初めて目を開けて、触れそうな距離にある男の目を見詰めた。
男は意味を問うように軽く首を傾げた。
「……キスしちゃった…」
見開かれた目がいたずらっ子のようにくりくりと動いた。

その言葉を合図にしたように、濃厚なキスが繰り返された。互いの舌先が追いつ追われつ回りはじめると、夕実の片手が腰に降りて、スカートのボタンをさり気なく外した。その動きを見ていたように滑らかな脇腹を滑り降りた男の手がスカートを押しやった。唇を合わせたまま、夕実は腰を浮かせて協力した。浮き出た腰骨に食い込んで結び目を作っている最後の下着の紐をつんと引くと、夕実はソックスを身に着けただけの姿を男の前に晒していた。

「きれいなお乳じゃないか。こんなにまんまるで大きなお乳は見たことも触ったこともないな」
「そう? 恥ずかしい…けど、そんな風に言われると嬉しい」
夕実は双の乳房を男に与え、男の手がもたらす強弱と抑揚に身を任せた。
「乳首を吸って……」
ぷっくりと膨れた薔薇色の乳首を男の唇が覆い尽くすと、背筋が弓なりに反って幽かな吐息が喉から洩れた。すぐに全身を貫くような快感が押し寄せて、膝ががくがくと笑いはじめた。
左右の乳首を交互に吸いながら、男の手は夕実の尻を撫で上げた。
むっちりと肉の付いた豊かな尻だった。染み一つない真っ白な肌は吸いついたら離れないようにしっとりと瑞々しさを湛えていた。男の指先が谷間を撫ではじめると、迎え入れようと尻が突き出る形になった。
「いい尻だ。たっぷりとして弾力があって滑らかだ」
脇腹から太腿をさするように撫でられて、夕実の内面は舐めつくすように黒い炎に覆われていた。すぐに焼け付く熱さが内側から夕実の意識を焦がしはじめた。
「ちゃんと…触って…おねがい」
夕実は男の頭を腕で締め付けて乳房を顔に押し付けた。

無駄のない的確な愛撫に夕実の陰唇からは透明な泉が止めどもなく溢れ続けた。
「ヘアがずいぶん薄いんだね」
「そ、そうなの。子供みたいでしょ? 割れ目が見えちゃって…はみ出しちゃってて……わたしの、きれいじゃないでしょ?」
「そんなことないさ。清潔でふっくらとしてきれいだよ」
「うそ…、本当?」
男の指先が夕実の小陰唇を強く引っ張るととろりと透明な分泌液が周囲の真っ白な肌を塗らした。
「そ、そんな……、伸びちゃう…」
「こっち側もしてみよう」
反対側の小陰唇を掴まれて、夕実の割れ目がたっぷりと艶めかしい色を湛えたまま左右に大きく広げられた。
「きれいじゃないか。ピンクは鮮やかだし、汁も透明で尻の穴まで溢れてる。これは何?」
男の指先が包皮から飛び出た小さな突起をこりこりと抉った。
小さく悲鳴を上げた夕実は男の手の動きの邪魔にならないよう内腿を限度まで広げた。
「そ、それ……感じちゃうの…い、陰核…。触られると…きもちいい…気が狂いそう」
男の指先がぬるぬるに濡れた陰核を絶妙な角度で擦り上げ、夕実は息もつけない圧倒的な悦楽に咽びわなないた。男は全部の指を駆使して夕実の性器をあらゆる方向から刺激し、挟み、抉りはじめた。ぬるりと滑った指先が熱を持った膣口に捉われた。
「だめ、だめ。もう……。あの…わたし…もう……、欲しくなっちゃった。ね、おねがい……」
崩れるように仰向けに躰を倒した夕実は男の前で腕で抱え込むように大きく足を左右に広げた。口を開いた陰唇が真上を向いて、深い結合が得られる体位だった。男の腰に手を廻し、握り締めたものを迎え入れようと引き寄せた。

男が真上から入ってきたとき、夕実ははっきりと声をあげた。
目くるめく快感が後から後から止めどもなく突き上げて、途切れそうになる意識を黒い炎が覆い尽くした。熱く濡れそぼった膣に根元まで咥え込んだそのかたちを躰に刻みつけようと動き、締め付けた。男の滑らか過ぎる動きがすぐに夕実の律動とぴったりと共鳴した。
全ての現実から遊離して、感覚だけが遙かな高みに舞い上がっていた。四肢が小刻みに痙攣を繰り返し、嗚咽が止まらなかった。
意識が弾け跳び、全身が反り繰り返って硬直した。
がくがくと痙攣しながら暴れる夕実を組み敷いた男が押さえつけた。
ぐったりとした夕実の体温が急激に落ちて汗が冷たく皮膚を濡らした。男ががちがちと歯を鳴らしている夕実の口に舌を差し入れると、夕実の裸の腕が無意識に男の頭を抱き締めて、後頭部を狂ったように掻き毟った。

「あてつけでも腹いせでも憂さ晴らしでもいいけど、ちょっとは役に立ったかな? 代用品として……」
言葉は正確に耳に入ったが、夕実の眼は薄く開いたまま、視線はどこも見ていなかった。
「きれいな背中だね」
男の手が優しく脇腹から尻をさすった。
夕実は応えようとしたが、唇が震えただけで声も出せなかった。
真上を向いた乳房が荒く切れ切れの息と共に激しく上下していた。
夕実は今までに経験したことのない、躰がバラバラになったような崩壊感と手足に力がまったく入らない虚脱感に埋没していた。
「君は本当にいい子だね。最初に会ったときからわかったよ」
男の言葉が遙か彼方で、遠い記憶を揺さぶるようにエコーのように繰り返し減衰しながらやがて消えていった。

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挿絵93b

『空の青 12月(3)』

火照った躰を冷やそうとコートの前は開けたまま歩道に踏み出した。
危惧した通り、足ががくがくと震え、満足に歩けなかった。
当たり前のように男が貸してくれた腕に、夕実はしっかりとすがった。
「わたし……、自分が自分じゃないみたい…」
半分抱かれるように、男が腋を下から支えてくれた。
殺風景な都心の通りに傾いた日差しが来たときよりもはるかに長い影を落としていた。
「車を呼んだから、乗って帰りなさい。荷物もあるし、ここからだとちょっと乗換えが面倒だからね」
その言葉が終わりきらないうちに、二人の前に滑るように黒塗りの車が停まった。

「家まで頼むよ。大事なお客さんなんだ」
男に手を貸してもらって、夕実は車に乗せられた。
「じゃ、またあとで」
軽く手を挙げた男に、夕実は恐縮しきって頭を下げると、音も立てずに景色が流れはじめた。走っているとは思えない静寂に品の良いクラシックのBGMが微かに聞こえていた。寡黙な運転手は滑るように車を扱って、カーブですら身体が左右に振られることはなかった。革張りのゆったりとしたソファはクッションが効いて、沈み込むように夕実の体重を受け止めた。普通のタクシーとはちょっと違った居住まいに夕実はぼんやりと視線を向けた。
「よかったらお飲み物はいかがですか?」
「は?」
夕実は意味がわからなくて一瞬唖然とした。
「温かいお茶か…コーヒーもご用意してます」
運転手は助手席の脇におかれた保温ケースを示したが、トイレに行きたくなりそうだったから運転手の勧めを丁重に断った。
「あの、すごい…車ですね。乗り心地が…。その…詳しくないんでよくわからないんですが」
「ありがとうございます。そうおっしゃっていただけると運転もし甲斐があるというものです」
運転手は真っ直ぐ前を見たまま実直に応えた。

メーターがけっこうな勢いで廻っていた。
どれくらい掛るのだろう? 頭の中で地図を描いても距離感がまったく掴めなかった。
急に財布の中身が気になった。
「あの…その…どのくらい掛りそう……ですか?」
言葉尻は蚊の鳴くような声になった。
「そうですね…ちょっと混んでますが、1時間は掛らないでしょう」
「いえ、あの、その…お金のほうなんですが……」
「あ、料金のほうはいつもまとめて戴いていますんで結構ですよ。ご心配なく」
「あ、…そうなんですか…良かった……」
至れり尽くせりのサービスを目の当たりにして、夕実は改めて男の“余力”をひしひしと感じていた。年齢なのか経験なのか財力なのか見当はつかなかったが、自分の知らない世界があまりにも広く、深くて、その事実に畏怖に近い念すら抱いた。その一方で、躰の隅々に刻まれた夢見心地のような余韻は一向に静まる気配がなかった。

見覚えのある建物の敷地に車は滑るように乗り付けた。短い陽は既に落ちて、あたりは夕闇にとっぷりと閉ざされていた。石張りの壁に付いた照明が温かな光を球形の雪洞のように灯していた。エントランスには立派な送迎用の車寄せがあって、数台は迎車が停車できる駐車スペースもあった。
ガラスドアの正面に車が寄せられた。自動ドアが開き、荷物を手繰り寄せようとすると
運転手が振り返った。
「荷物はお持ちします。玄関を入るまでお送りするように言われておりますんで」
夕実は小さく頷いて、流れに任せて敷き詰められた舗石にハンドバッグ一つで降り立った。
駐車スペースに車を停めた運転手がコピーの入った紙袋を手に先に立って自動ドアを開けてくれた。一緒にエントランスに入ると、運転手は馴れた手付きでオートロックに部屋番号を打ち込んだ。
しばらく間があって、鮎ちゃんの声がガラス張りの風除室に響いた。

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水を得た魚のように瑞々しい鮎ちゃんに比べ、寛はリビングの長椅子に寝転がって頭に新聞を被っていた。長い足がソファからはみ出して床に放り出されていた。どう見ても、読んでいるうちに寝てしまったという風情。
「ほら、兄貴。夕実さん帰ってきたよ」
鮎ちゃんが寛の身体を揺すって起こそうとしたが、夕実はそれを止めた。
「あ、いいの、いいの。寝かしといてあげて」
疲れてるだろうから……と嫌味な言葉を続けそうになって、夕実は慌てて呑み込んだ。

「どうでした? 見つかりました?」
「あ、うん。量が多過ぎて、もう、目移りしちゃって大変だった」
「寒かったでしょう? お風呂沸かしてあるから」
ずっと暖房の効いたところにいたから身体が冷えていたわけではないが、その申し出には飛びついた。躰を洗ったところで元の自分に戻れるわけではないが、この状態で寛と顔を合わせるのはさすがに後ろめたかった。

『空の青 12−3』(続く)

作成日:2008/09/07 最終更新日:2009/09/07

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