わたしは別にそこにいる必要はなかった。
ときおり聞こえる水音と歓声、眩く垂直に降り注ぐ光と小さく真っ黒な影。ライトブルーに塗られた水底にエッジぎりぎりまで蓄えられた真水が圧倒的な量感を主張して揺れていた。25mx15mで深さは1.8mか。う〜ん、675t。見た目の透明感とは裏腹にわたしはその量感を受け入れた。
7月も半ば、試験休みが終わった日、相変わらず無理なスケジュールで今年も水泳大会が開催されていた。ただし参加しなければいけないのは1、2年生で、それも各クラスから選ばれた一部の選手だけだからたいした人数ではないはずだ。
それなのに、何故せっかくの自習時間だというのに元々関係のないはずのわたしたち3年生の、特に男子がここにいるのか。
それは要するに松崎なのだ。
松崎が選手として教師のチームに加わって泳ぐからなのだ。
先生だって好きでやっているわけではないのだろうが、何だかんだいっても、わたしが一年生のときから毎年泳いでいるところをみると、すっかり水泳大会に欠かせない人材にされてしまったのだろう。いくら女子水泳部の副顧問とはいえ、本来、数学の教師である松崎がなんで自前の水着を晒して泳がなければいけないのか、わたしだったら多分逆上しているだろう。だいたい、副顧問だって単に成り手がいない員数合わせで、立場の弱い松崎が押し付けられたというのが真相らしかった。
「先生、今年も泳ぐんですかぁ?」
と誰かが訊いたときの極めて不機嫌そうな顔は、理不尽だが受け入れざるを得ないという松崎の立場を物語っていた。彼女は学年主任でもある平野のお気に入りなのだ。その平野が実行委員長を務める水泳大会に出ないわけにはいかないのだろう。
わたしは心底同情していた。
そして、それにも増して不機嫌なのは、今わたしのすぐ前に座って水色の水面を眩しそうに眺めている寛だった。でも、その寛よりもわたしは不機嫌だった。
寛の左側にはさっきまで座っていた松崎本人の代わりに彼女のタオルやビニールのポーチが置かれていた。問題は右側だった。3年生の殆どの女子は屋内にいるのに、いつも日焼けを嫌がって体育の授業さえサボる西田啓子が当たり前のように座っていた。わたしが座るはずの場所は寸での差で奪われたのだった。そして、わたしを完璧に無視して、わたしの目の前で寛にときおり手を廻したり寄り掛かっているのだ。
おまけに佐々川君が調達してきたアイスキャンディをペロペロ舐めながら三回に一回くらいは寛の口に押し込んでいた。わたしは今までに経験したことのない屈辱を感じていた。
大した高さではないが、観覧席は段状になっているから最下段のプールサイドに座っている寛よりもわたしの方が50cmほど高い位置に座っていた。西田がわざとらしく寛に寄り掛かるたびに、女の白い剥き出しの腕が寛に押し付けられていた。わたしは蹴飛ばしてやりたくなる衝動を押さえて、なるべく寛だけが視界に入るように顔を背けていた。
わたしだって何もしないでいたわけではない。春になってわたしは誰にもわからないように少しづつスカートを短くした。一ヶ月に2cmくらいづつ。夏までに10cmが目標だ。ちょうど3ヶ月が過ぎた今、6cmほど短くなったスカートから自分では悪くはないと思っている足が出ていた。座ると明らかに剥き出しの部分が増えて気恥ずかしいけれど、前に座る西田よりはまだずっと地味なはずだ。
寛が振り向いたら、丁度その真正面にわたしの膝があるはずだった。
明るい光でその奥が見えるかもしれない。
でも、わたしはそれで良いと思っていた。固く膝を閉じることもせず、スカートを手で押えるでもなく、振り向いた視線がそこに止まれば良いと思っていた。いや、止まって欲しいとすら思っていた。そう、松崎ではなく、他の誰でもなく、わたしを見て欲情して欲しかった。
臆病で引っ込み思案のわたしがいったい何を血迷っているのだろう。
半年前なら考えもしなかったことを今現実にしている自分に自分がいちばんびっくりしていた。
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女性教師の組は三番目に登場した。一際、圧倒的な歓声と嬌声がやかましい。
四人中三人は体育教官、残りが松崎だった。体育教官の中には今年初めて参加する若い教官が一人いたが、圧倒的な松崎コールにびっくりして目を白黒させていた。
女性の体育教官は全部で4〜5人いるはずだが、いつも泳ぐメンバーは決まっているようだ。足らない員数合わせで結局貧乏籤を引かなければならないのは、女性教師のなかでいちばん若い松崎ということなのだろう。
四人のメドレーはバタフライ、平泳ぎ、背泳、自由形の順序で行われる。比較的経験が必要なバタフライと背泳を中堅の体育教官が担って、二番目の平泳ぎが初参加の体育教官、いちばん後ろにいる松崎が自由形なのだろう。
8コースの中央6コースのスタート台の後ろに選手が並んだ。
マイクがコースごとに紹介を始めた。
選手たちが水着の上に着たスウェットを脱ぐと、ひときわ歓声が高まって騒がしかった。生徒たちの水着と違って教師チームはばらばらだ。もちろん一際目立っているのは松崎だった。別に水着が派手というわけではない。ごく普通のワインレッドのワンピース。
だが、胸や腰の張り具合は明らかに高校生とは違う。去年、わたしの前で寛にいちゃついている西田が選手としてビキニで堂々と登場したときには大騒ぎになったが、今年はそんなことをする生徒はいなかった。
それでもワインレッドの水着をスマートに着こなした松崎に向けられた視線は去年より増えこそすれ減ることはなかった。
今年も、すぐに記録係と称した大川がビデオカメラを手に松崎にまとわりついた。
強い白光に照らされてワインレッドの水着と白い肌のコントラストがひときわ鮮明だ。長く形のよい足と大きな腰、形良く持ち上がったまま膨らんだ尻、ウエストは両手で掴めそうなくらい。胸は服を着ているときよりも遥かに大きく見える。均整のとれた肢体は周囲の中から完全に浮き上がって見えた。
声までは聞こえないが、盛んに注文を出しているのだろう。胸や尻に露骨にビデオカメラを向けて撮影する大川の姿は不愉快以外の何物でもなかった。嫌々、顔を向ける松崎が可哀相なくらいだ。
大川は平野の腰巾着にして地理の教師だが女生徒の評判は極めて悪い。ときどき更衣室が覗かれたとか、トイレで盗撮騒ぎが起きたりすることがあったが、そんなときにわたしたちの間では必ず犯人として囁かれている男だった。
感情を押し殺して多分怒りに震えているはずの寛を盗み見て、わたしは松崎がひたすら羨ましかった。ときどき観覧席の男子生徒から罵声があがって、女生徒はセクハラ、セクハラと囃したてるけれど、大川はちっとも怯まないし腕に巻いた記録係の腕章が誇らしげですらあった。
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そんな周囲の馬鹿騒ぎとは関係なく競技は滞りなく進んいて、あっという間に松崎の順番が巡ってくる。三番目の泳者がプールの中ほどに達したとき、松崎がスタート台に上がった。
背泳の泳者の手がタイルのエッジに触れた瞬間、松崎の体がしなやかに撓んだ。
次の瞬間、ほとんど飛沫を上げずに水中に没した姿を見てわたしは感嘆した。水色の水底を這うように松崎の赤紫の影が伸びていた。
まだ浮き上がらない。
ゆらゆらと輝く白い光を纏って流れるような肢体が水底に黒い影を作っていた。
プールの中ほどに達した位置でようやく浮き上がった。
歓声がどっと沸き起こる。
しなやかな手と足が交互に水を掻いてぐんぐん進み始めた。
今年で三回目だが彼女は本当に上手いのだ。あの細い身体のどこにそんな力が蓄えられているのか、わたしは見るたびに見蕩れてしまう。
見事なターンをして再び水を得た魚のように水中を進む。プール全体が静まり返ってそんな彼女を見ている。もちろん一着でゴールした彼女が手をついたままの姿勢で水に軽く浮き上がると大きな歓声が応えた。そんな声などまるで聞こえないかのように、足を底につけた松崎が顔を上げて眩しそうに空を見上げた。
水から上がった松崎がプールサイドを廻って来た。
白く焼けたコンクリートを接触面が最小になるように踏んで歩く仕草が悔しくなるほど可愛い。どっちが年上なんだか、周りの高校生たちとすっかり逆転しているようにしか見えない。
その後ろには相変わらず厭らしく大川が食い付いていた。歩くたびに左右に揺れる尻に近づいて露骨に撮影しているのだ。
迎えに出た寛が明るい緑色の大きなバスタオルを広げて、すかさずその間に割り込んだ。広げたタオルを松崎の肩に掛けてやるとひときわ大きな歓声と冷やかしの口笛が水面に木霊した。
そのときの松崎の顔に気付いたのはわたしだけだろうか。
ふっと目が細くなって唇が小さくわなないた。思わず寛に抱きつくのじゃないかと思ってわたしは動悸が早まったくらいだ。
調子に乗った寛が大川のカメラに顔を近づけて挑発した。
「なんだ! おまえ。関係ないだろ。三年生は!」
大川の光った額が紅潮して寛に罵声を浴びせ掛けた。
寛はものともせずにカメラの前に立ち塞がって、レンズを向ける向きに合わせて腰を振って踊っている。
更に爆笑と歓声が湧き上がって、カメラを下ろした大川が掴みかかりそうな勢いで寛に向かって行った。
タオルに体を包んで成り行きを見ていた松崎が慌てて寛の肩を掴んで引き寄せて、二人の間に割り込むようにして寛を庇った。
失望のブーイングと賞賛のどよめきが同時に降り注いだ。
松崎の目がわたしと西田を呼んだ気がした。
こんなときの西田は本当に素早い。
飛び掛るように立ち上がった西田が寛の右腕を、少し遅れてわたしが左腕を押さえた。男だったら軽く振り払っただろうが、さすがにわたしたちの顔を見て寛も大人しく引き摺られた。安心した松崎が突っ込みどころを失ってぼけっと突っ立っている大川に満面の笑みを浮かべた。
ちょうどそのとき、反対側のプールサイドのテントの影からハンドマイクの声がそっけなく響いた。
「大川先生。表彰が始まりますんで本部席のほうへどうぞ」
大会の実行委員長である平野の一声だ。派閥の親分の一声に人が変わったようにそそくさと立ち去る大川を見て、またひとしきり失笑が起きた。
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「ありがとう」
寛に向き直った松崎の瞳が濡れていた。
わたしはそんな目をした松崎が、以前次にした行為を思い出して一人下を向いた。
スカートから大きく出た自分の足の白さがやたらと眩しくて、松崎の白い躰とイメージが重なった。
女子の部が終わると一斉に男子生徒が立ち上がって移動を始めた。現金なものだ。
松崎は身体にタオルを巻きつけて膝を揃えて座っていた。もちろん隣には寛がいて、彼は無理やりまだぎらついている水面に目を向けていた。
身体の水分を拭き取った松崎がスウェットスーツを羽織るとようやく寛も安心したらしい。衰えを知らない陽光に濡れた髪がぎっくりするほど艶かしくうなじに貼りついていた。

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行事が終わり、大方の生徒がやって来たときと同じざわめきを立てながら帰ってしまった頃、更衣室に向かう松崎に寛が寄り添っていた。
わたしはどうしようか迷ったのだけれど、結局、ずうずうしくいつまでも寛にくっついている西田を警戒してその仲間に加わっていた。
教師用の女子更衣室に松崎が入って、既にずいぶん時間が経っていた。
腕組みをして更衣室前の壁に寄り掛かった寛は険しい顔をしていた。
寛も西田も黙りこくって口を利かない。意味がわからなくて困惑していたわたしを見かねたのか、西田が説明してくれた。
「去年さぁ…、下着が盗まれたんだって」「この大会のとき」
わたしは唖然としてしまった。
十分ほどが経過して苛立った寛が扉を叩いた。
鍵を掛ける音はしなかったから開いているはずだ。
「開けますよ」
鋭い一声と共に寛が扉を開いた。
ベージュ色のロッカーの前のちゃちな木のベンチにぺったりと松崎が座り込んでいた。
水着のままだ。
赤紫と肌の白のコントラストがしっとりと目に焼きついた。
他に人の気配は無い。わたしたちに気付いた松崎が顔を上げた。
無言のまま寛が松崎に駆け寄った。
開けっ放しになっているロッカーの扉がぶらぶらと揺れて傾いだ。覗き込んだ寛が一瞬眉を顰めて松崎の顔を覗き込んだ。
「何か盗まれた?」
頷いた松崎の顔が大きく歪んだ。
すがるように寄り掛かった寛の手の甲が小さく丸く濡れて僅かに濃く染まった。わたしにもそれが涙だとわかった。
「下着…全部…」
「それと……、それと…服が…」
松崎の顔が泣き笑いのように歪んだ。
寛が慌てて床に落ちている松崎のコバルトブルーのブラウスを拾い上げようとした。
「だめ! 汚いから触らないで!」
「ひっどーい!」
横で食い入るように寛の足元を見ていた西田が叫んで顔をしかめた。
「お金は?」
「あるみたい。財布とかカードは大丈夫みたい」
「服だけ?」
松崎が寛に寄り掛かって子供のように頷いた。
「あと、口紅も……」
手を伸ばした寛が床に転がっている口紅を取り上げた。
ケースを抜き取って、先端に付着した不透明な液体を見て寛が顔を顰めた。
「警察呼びましょうか」
寛が携帯を取り出して松崎の顔を窺う。
寛の胸に顔を埋めた松崎が頭を振った。
「それは…教頭か、校長を通さないと……」
寛が立ち上がって周りを見回した。
「鍵は掛かってた?」
「部屋も、ロッカーもちゃんと掛かってた」
寛や佐々川君たちが塞いだから機械室側から侵入することも出来ないはずだ。
「窓もちゃんと鍵掛かってるし……じゃぁ、内部の人間かな」
「お金盗ってないなら、生徒じゃないんじゃないの?」
ロッカーを覗き込んだ西田も顔を顰めた。
「ああ。そうかも」
「鍵も抉じ開けたわけじゃなくて、合鍵?」
「多分……」
ロッカーを覗き込む勇気のないわたしと西田は顔を見合わせた。
なんともいえない居心地の悪さと気持ち悪さが生暖かい空気の中に蠢いているような気がしてわたしは身を振るわせた。
「下着、買って来るよ。先生」
こういうときの西田は機転が利くし頼りになる。
「先生、サイズは?」
ちょっとだけ困ったように俯いた松崎が小さな声で答えた。
「これ、持ってって」
松崎が財布から紙幣を抜き取った。
「あけみちゃんさ、なんか上に着るものない?」
「あ、わたし、スウェットの替え、持って来たのまだ着てない」
「それ、貸してあげてくれる? おれのじゃ、汚いし、いくらなんでもサイズがさ」
わたしは馬鹿みたいに頷いた。
「うん、取って来る」
「買ってもらった…いちばん大事な下着だったのに……」
更衣室を出たとき、教室のロッカーに向けて人気のない廊下を走り出したわたしの耳に微かな声が聞こえた気がした。
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寛と松崎は今二人きりのはずだ。
普段だったらそんな時間を最小限にするためにわたしは急いだはずだ。でもそのとき、わたしは途中で走るのを止めた。松崎が寛を頼りにしているならば、寛がそれに応えられるならば慰めてあげればいいと思った。単純に松崎に対する行為の卑劣さに、わたしはショックを受けていた。酷すぎると思った。明らかに松崎を狙い撃ちしている陰湿な行為が唯ひたすらおぞましかった。
がらんとした人気のない廊下が昨日までとは違った光景に見えた。
4階の教室に戻ってロッカーから洗濯して持って来たばかりのスウェットの上下を取り出した。人っ子一人いない静まり返った教室がこんなに不気味に感じられたことはなかった。わざと大きな音を立ててロッカーを開閉する。
なんとなく気になって、机に広げて表裏をチェックしてしまう。
もちろん何の異常もない。私が押し込んだときとまったく同じ状態の紺と白のスウェットの上下だった。
すぐ脇のピンク色のマジックで鉄板に直接“KAN”と殴り書きされたロッカーに目が止まる。
抗いようのない誘惑。
元々鍵がついているわけではない。開けようと思えば誰だって開けられるのだ。
彼は今、制服を着ているからスウェットといつも着ている半袖のTシャツは多分ここに入っているはずだった。
それを手にとって顔に、躰に擦り付けたい。彼の汗の匂いを吸い込みたい。
くらくらするような欲望に身が焦げる。松崎だって寛のスウェットの方がいいはずだ。
わけのわからない屁理屈を捏ね繰り回すけれど、それじゃぁ、松崎の下着泥棒と同じじゃないか。最後の一点でどうにか踏みとどまった。
わざとゆっくりと、時間を稼ぎながら教室を出てわたしを待っているはずの更衣室へ歩き始めた。ちょうど、プール棟へ分岐する渡り廊下で息せき切って走って来た西田と出くわした。
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なんだか様子がおかしい。大きな物音、怒号と松崎の悲鳴。
西田と顔を見合わせる。
扉に飛びついた西田が力任せにドアを引き開けた。
黒い影が扉に立ち塞がった西田を弾き飛ばした。
「なによ、あれ!」
廊下をふてぶてしく立ち去る平野の巨体を睨みつけた西田が軽蔑したように鼻で笑った。
瞬時に事態を悟ったようだ。
寛を後ろから押え付けている松崎の下に駆け寄った西田は手早く買ってきた紙包みを松崎に押しつけると、松崎から奪い取るように寛を抱きかかえた。
「大丈夫? ほんと乱暴なんだから。頭打った?」
「せんせ、わたしたち外出てますから」
西田が寛を連れて廊下に出ようとすると、いちばん大事なものを奪い取られて呆気にとられていた松崎の口がようやく動いた。
「待って。いいの。なんかちょっと気味悪いからそこにいて。ごめんなさい、ちょっとそっち向いていて」
意を察したわたしが廊下の扉を閉めると、西田が手近のベンチに松崎に背を向けて寛を座らせた。
「何しに来たの? あいつ」
寛が黙って首を捻った。
「最初は慰め役のナイトの登場って感じだったけど、一番乗りじゃなかったのが逆鱗に触れたんじゃないか?」
「あいつらみんなぐるなんじゃない? 毎年狙い打ちだなんて」
「あぁ、その可能性はあるな」
「男ってほんと馬鹿みたい。怪我はない? 大丈夫?」
「たぶん」
コキコキ首を振って寛が応えた。
「寛のだったら全然平気なのに、不思議だよねぇ。他の男のなんて考えただけで吐き気がする」
わたしはぎょっとして西田を見た。背を向けて着替え始めていた松崎までが振り向いた。
その西田はベンチに座った寛の頭を抱きかかえるように立って、その後頭部から首筋、背中を撫で回している。こいつドサクサ紛れに! 自分の顔が強張って引きつるのがわかる。おまけに西田は大きく開いたブラウスの胸に押し付けるように寛の頭を抱きかかえていた。
「あらあら、みんな顔が引きつっちゃってぇ……、どうかしました?」
派手な顔に満面の笑みが浮かび上がった。
「誤解を招くようなこと言うなって」
胸の谷間から寛が西田の整った顔を見上げた。
「ん? でも、いい匂い。オレンジ?」
西田の顔が我が意を得たりとばかりにほころんだ。
「わかる?」「へへ」
「あ、フロントホックだ」
まったくもう。何を見ているの。飛んでいって引き剥がしてやりたい。
松崎にも状況がわかったらしい。
「ちょっと! 西田さん! ここは学校よ」「ちゃんとタイをしなさい!」
いきり立ったきつい声が背後から浴びせられた。
びっくりしたように振り返った寛が松崎の姿を見て、慌てて向き直った。
「べつに裸になってみせたわけじゃないのにねぇ」
西田が寛の顔を覗き込んで、二人の顔と顔が完全にくっついた。
「あなたが良くてもそんなことを認めるわけにはいきません……」
西田と松崎の視線が絡み合うと、その声が勢いを失って段々トーンダウンしていった。
見ると松崎の顔が下を向いて明らかに赤く染まっているのがわかった。
そりゃそうだろう。
おまえは何をしているんだよ! わたしはそう言ってやりたい衝動に駆られた。
全裸になって尻まで寛に与えているくせに。素っ裸でコピーに跨ってるくせに!
たぶんそんなのは氷山の一角に過ぎない。わたしが知らないことだって、想像もつかないことだってしているに違いない。
「いや、あの……ごめんなさい。怒鳴ったりして」「でもね、そんな風に男の人を誘惑するものじゃない。女が男を好きになるのは自然の摂理だし、素晴らしいことだけど……でも、それは違うわ」
「肉体的な欲望だけじゃないの。それが最初じゃないの。ほんとに好きになったら何でもできるの。躰の関係だけじゃ得られないものが絶対あるのよ!」
わたしは真剣な表情でまくしたてる女教師に呆れた。呆れた以上にこっちが恥ずかしいくらいだ。なんて馬鹿正直なのだろう。西田だって半分冗談で言っているに決まっているのに。馬鹿正直でくそ真面目なおまえを茶化して、煽っているだけだろうに。おまけに見ている方が恥ずかしくなるような小さなブラとパンツを寛の目の前に晒して隠そうともしていない。寛の方が慌てて目を逸らしているくらいだ。
「サイズどうですか? 凄い似合いますよ。でも、せんせぇ、それ反則」
「透けてますよ」
西田が冷たく言い放つ。
えっ? と一瞬虚を突かれた松崎が自分の躰を見た。見る見るうちに目元から首筋までが赤く染まり始めた。慌てて胸元を両手で隠すけれど小さくて薄いブラジャーの生地にはっきりと乳首が透けて見えた。こんな露骨な下着を買ってくる西田も西田だが、なんのてらいもなくそんな下着を着ける松崎も松崎だ。パンツだってお尻が半分以上剥き出しだし陰毛だって完全に透けている。いや、それどころかカットがきつくて露骨で、わざと視線を誘導して強調しているようだった。
いやらしい! けど、羨ましい……。
わたしもトーンダウンしてしまう。
この女は本当に羨ましくなるほどきれいだ。
染みも黒子もひとつもない滑らかでな白い肌、柔らかくて吸い付きそうだ。十分すぎるほど盛り上がった豊かな胸。きつく締まったウエストとびっくりするほどボリュームのある腰。長く滑らかな足は多分なんの手入れもしていなくても無駄毛すらないのだろう。
おまけにそのわざとらしい仕草の初々しさ。まるで男を知らない小娘のような恥じらいかたと、それが男の目にどう映っているのか知らない幼稚な大胆さが同居している。
それでいてこの女はわたしにとっては想像を絶する痴態を何度も繰り広げて来たのだ。わたしの敵わないライバルであり憧れ、憎悪と羨望がない混ぜになった感情がわたしを翻弄した。
松崎は今更ながらに自分がどんな格好をしているか気づいたらしい。自分のロッカーの前に飛んで戻るとわたしが持ってきたスウェットを慌てて身につけ始めた。
生徒用のスウェットの上下を着ると生徒にしか見えないところがまたむかつく。
「大丈夫? 怪我はない?」
奪い合うように、もう一度、松崎が寛の顔を覗き込んだ。
「目の敵にされてるんだから挑発に乗ったらダメ! わたしがいないときに何かあっても絶対手出さないで。わかった? お願い」
寛が不承不承、頷くと松崎の表情が安心したようにようやく緩んだ。
「そんなことがあったらすぐにわたしを呼んで。相手にしないで、わたしのところに来なさい」
「慰めてくれるんですか?」
「……我慢してくれたら……ご、ご飯くらい奢ってあげるわ」
「どっちかというと怒りを食欲に転化するよりも性欲に昇華するほうが好みですが……」
意味を理解して一瞬戸惑った松崎の目元がさっと染まって俯いてしまう。
「せんせ、そこは怒るところでしょう」
西田がすかさず茶々を入れた。
「あ〜、もうバレバレ」
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結局、校長も教頭も不在で、どうも胡散臭い平野とは話すのも嫌だという松崎の気持ちを考えて、問題は保留のまま私たちは引き揚げることにした。寛が松崎を送ると言って私たちもそれがいちばんいいだろうと賛成した。物的証拠はあるにしても最終的にはうやむやにされてしまうのだろう。同じ女として許せない犯罪行為だが、騒げば騒ぐほど傷つくのも女なのだ。
ろくでもない事件は毎日腐るほど起きているけれど、身近に、それも学校のなかでその実態を見せ付けられたという意味で、明るい夏の日だというのにわたしは怖かった。
「寛はやっぱり今でも夕実が好きなのかなぁ」
唐突過ぎる。
こいつの思考回路はどうなっているのだろう。
4人で地下鉄に乗って、先にわたしと西田の下車駅に到着した。こればかりは物理的にどうしようもない。わたしが松崎を家まで送っていくわけにもいかないだろう。
地上に出ると夕陽が赤く、わたしたち二人の影が長く伸びていた。逆光を浴びた西田の大人びた容姿から漏れた言葉は、思いのほか寂しそうだった。
いつも自信満々の西田に似つかわしくない言葉にわたしは少し驚いた。
「どうして?」
「そう思わない?」
寛と松崎の関係を知っているわたしには、何で今更? としか思えない。
「松崎ならともかく、夕実だと厄介だなぁ」
思い当たるところはないけれど、それでも不安が黒雲のようにむくむくと首をもたげ、わたしは沈黙してしまう。
「だってあの子、超然とした性格っていうか……まるで巫女みたいで……」
「……誰も夕実には敵わないじゃない」
怒ったように背を向けた西田が軽く手を挙げた。
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『完売御礼』
その翌日の朝、それは再び掲示板に張り出されていた。
写真をバックに、線の細い洒落たフォントの白抜き文字が派手過ぎず、地味過ぎずユーモラスに存在を主張していた。
「写真集『四季・智美』は好評のうちに完売致しました」
書かれていた文字はそれだけ。拍子抜けした。
写真は凄かった。
夕景だろうか。おそらくどこかのレストランの屋外テーブル。蝋燭のオレンジ色の炎と柔らかい照明。暮れはじめた青一色を背景に、抜けるように白い松崎の横顔が浮き出ていた。美術品のように端正で無駄がない横顔。厳かでいながら艶やか。切り取られて見えない左側にいるはずの誰かに向けられた口元に微かに溜めた微笑の瞬間が逆光気味の夏の大気の中に精確に写し撮られていた。
切れ長の瞳とオレンジ色の炎を映す大きな黒目、長い睫毛と優美に孤を描く眉毛のバランス、僅かにつんと上を向いた鼻と小さいけれど肉感的な唇。柔らかそうなショートの髪が半分耳にかかって、滑らかな首筋に続いてテーブルに乗り出した裸の肩がなまめかしいまでに白かった。
わたしはすっかり目を奪われて、見蕩れた。
溜息が出そうだ。
同じ人間なのに神様はどうしてこうも不公平なのだろう。
この女はわたしにないものをすべて持っていた。
キャミソールだろうか? 細い紐が首の後ろで鮮やかな濃い橙色の蝶のように膨らんでいた。イヤリングも(もちろんピアスの孔はない)なし。アイメイクもなし。眉毛も地。多分、ノーメイク、薄い透明色の口紅だけだろう。ほんのり淡いピンク色に染まった唇が青に鮮明に映えていた。
この唇が寛を受け入れて、呑み込んでいたのだ。そこだけが独立した生き物のように寛を包み込んでうごめいていたのだ。かつての夕実もそうだったように。この顔に寛のものが飛び散って注がれた。頬を流れ落ちる白い液体と寛の先端を拭う舌。そんな光景が脳裏に甦り、頭の芯がぼぅっと痺れはじめた。同じように押しこまれて必死で舌を這わせる自分を松崎の横顔に重ね合わせた。飛び散る熱さを顔で受け止める感触を想像して目を瞑る。躰の中心が熱く疼き始めた。
すぐ横に人が立ったのに気付いて、慌てて妄想を断ち切ろうと意識を呼び戻した。
寛だった。
寛もまっすぐ写真を見詰めていた。その横顔を見上げて、半袖のシャツから出た剥き出しの腕を間近に見ると押し込めたはずの妄想が再び湧き上がってきた。
わたしはその腕に縋り付きたくなるような衝動を必死に押えた。
「凄いきれい」
「あぁ、そうだね」
「わたしもあんなふうになりたいな」
写真に目を向けたまま寛が応えた。
「十分成れるんじゃない」
そんな風に言われると夢を見てしまいそうになるじゃないか……。
『春から夏へ−5』(続く)