ダムの放水を告げるサイレンのもの悲しいような断続音が山峡に響き渡っていた。気が滅入るような陰気な音から逃れるように車を走らせていたが、横風とともに強くなり始めた雨は勢いを増してフロントガラスを洗っている。この道は雨量が一定に達するとあっさり閉鎖になるはずだった。既にところどころ斜面から土砂が流失して路面を赤茶色に染めている。既に高速を降りて1時間以上走っているかもしれない。近道したつもりが結果的に遠回りになりそうでますます気が滅入って来たが、時折視界が効かなくなりながらも少しづつ高度を稼いでいるはずだった。

7月も終わりかけて研究室の人影もまばらになってきた。8月後半には調査で隣県の街まで出かけなければならないし、調査に入ってしまえば一週間や十日は泊り込みになるはずだ。高校生よりもずっと短い夏休みを呪いながら帰るなら今しかないのかと考えていた。同じ学科の学生である香織は8月中旬に連絡するからと言って三日ほど前に帰省していった。早く帰って来いと親が煩いともこぼしていたっけ。修士過程の院生も残っていないようだし、お役御免みたいな雰囲気に、ようやく学生最後の夏休みらしいせつなくも解放された夏が訪れようとしていた。残っていても食費がかかるだけだし帰省してただ飯にありつかないと資金的にも苦しくなりつつあったので、曇りがちの遅い朝からずるずると掃除をして荷造りを始めていた。洗濯物をいくつかと本、多分そのまま持ってくることになる卒論の下書き、カメラ、そんなものか。若干の荷物を抱えて少し離れた駐車場に向かって歩きだす。途中でとっくに空っぽになっているゴミ置き場にこっそりゴミを出した。車にたどり着く直前にぽつりぽつりと大粒の雨が落ちてきた。

「どこいくのぅ?」
という声に振り向くと、建物は同じ棟だけど学科は違う耀子が片手に水筒、片手に紙包みを持って首を傾げていた。女性の極端に少ない工学系なので自然と香織とも友達になったらしい。その縁で顔を合わせれば冗談口を叩き合うくらいの知り合いでもあるわけだ。もっとも「耀ちゃん」と呼ばれていること以外に個人的なことは何も知らないし、「光」辺に云々という話が聞こえたので、おそらく耀子という名前なのだろうと勝手に考えているだけなのだ。

「誰もいないからさぁ」「隆クンのとこへ遊びにきたんだけどな」
「あれま、今から帰省しようと思ってたんだけど」
「昨日、学校で見かけたからまだ残っているのかと思ってさ」
「一人でご飯食べるの寂しいからさ、お茶と燻製一羽持ってきたんだ」
そういえばいい匂いが漂って来るのだ。朝からコーヒーしか飲んでいない胃が即座に反応する。
「でも、もう部屋締めて来ちゃったんだよな」
と言うと黒目がちの目を地面に落として「そっか」と消え入るような声が聞こえた。アスファルトに落ちる雨粒が乾いた白地を黒く染めていく。白いスカートから伸びた形の良い足と白いサンダルが見る見るうちに背景から浮き上がってくる。
「車にいこうか」と指差すと雲った空を見上げて「これから夏だっていうのに、台風が来るみたいだよ」と少しほっとしたように見えた。

3

Lontano profondo -3 『峠のむこう 1』

二人して手が油でギトギトになるのもかまわず毟り取るように鳥を平らげる。
「美味いじゃない、どうしたのこれ」
「えぇ〜、作ったんだよぅ、一応」
「誰が?」「ってもしかして耀ちゃん?」「え?もしかしてターキー?」
「まさかぁ」「まぁまぁ、お茶いる?」と照れるので注いでもらった。アールグレイの匂いが一際車内に匂いたつ。
保温水筒の冷たい紅茶を喉に流し込んでいると屋根を打つ雨音が少し強くなった。
カップを返しながら「甘くなくておいしいじゃない」というと「渋いのが好きなんだ」といって自分の分を注ぐ。そのままゆっくりと飲み干すと耀子の喉がかすかに動いた。
「帰省って、家はどこなの?」
「F県の盆地、ここから300kmくらいかな」
「湖のあるところ?」
「そうそう、その近く」

そっと横目で見るといつもは少しだけしている化粧も今日はしていないらしい。素っぴんを晒して、髪も洗いざらしみたいで本当にちょっと近くまでという感じだ。耀子が食べ終えたゴミをまとめて袋に片付けて、口をきゅっと縛りドアを開けてゴミ置き場に捨てにいく。水溜りを避けて戻って来ながら何か喋っているらしいがもちろん聞こえない。
「結構濡れちゃったよ」といいながら転がり込んで来たので荷物の中からタオルを探してやる。
「汚くはないけど、きれいじゃないぞ」と一言断って置いたが、別に気にもせず髪を拭いていた。「ハンカチもないって女として問題かな」
「耀ちゃんは帰らないの? 東京だっけ」
「うん」「ちょっと家の事情でさ、帰ってきて欲しくないみたいなんだよね」
「あからさまには勿論言わないけどさ」と考えたくもなさそうな素振りを示した。
突然振り向いた顔が含むように笑ったかと思うと「そうだ、途中まで乗せていってよ」と今思いついたばかりのように喋りはじめた。雨の中を一人で運転するほど辛いものはないのは確かだ。「えーと」 と一瞬の躊躇を見透かしたように
「香織ちゃんに悪いかな、指定席でしょ、ここ」と言いながら、足を覆う面積が最大になるようにスカートを引っ張っていた。伸び縮みするわけじゃないから引っ張っても変わらないと思うぞと考えたが口には出さなかった。
「だからって、何も後ろに座らなくてもいいんじゃない」
というと少しほっとしたような顔で「お邪魔しま〜す」と神妙な顔つきをしてぺこりと頭を下げた。当面の予定が決まったようだ。

途中のサービスエリアで一度休憩しただけで150kmほど走って縦貫高速道を後にする。新幹線の駅に向かって市街地にハンドルを切ろうとすると
「さっきの話は冗談じゃないの」と高速の道中でした話を繰り返す。見たことがないから湖まで連れていってと言うのだ。この雨じゃあなと難色を示したのだが、耀子が「そこで降ろしてくれれば電車で帰るから」というので、深く考えることもなく峠越えの間道に車を向けた。少しづつ雨風が強くなるような気がしたけれど走り慣れた道だし、途中のコンビニでトイレを済ませ飲み物を調達して、川沿いの道を上流に向けて更に辿り始めた。道すがら話したところによれば、「耀ちゃん」はやはり耀子というそうだ。好みの名前なんだけどなぁと言うと、子供の頃は書くのに苦労したから嫌だったそうだが、今は気に入っているらしい。ちなみに土木工学科の4回生で専攻はダムだそうだ。女の子いるの?と聞くとやはり彼女一人だけだそうだ。2年の後期に学部に上がった頃はさすがに戸惑ったらしいが、同じ棟の建築系には教官も含めて数人の女性がいるので実は結構結束が固かったりするとかいう話を可笑しそうに語っていた。

低いサイレンの音がくぐもって聞こえた。
「あぁ、この川にも上流にダムがあるのね」
見れるかなと聞くのですぐ脇を通るよと答えると、サイレンのパターンの違いとかダムの目的だとか形式だとか、土木と建築のコンクリートの品質差などのおよそ色気のない話に花が咲く。台風が運んできた湿気と南風をもろに受けているのでエアコンが入っていても少し蒸し暑い。
「足が痛いからくつ脱いでもいいかな」
「どぞどぞ、お構いなく」
そんな気を使うような車じゃないでしょと言うとケラケラ笑って、耀子はちょっと考えてサンダルを脱いだようだ。「ふぅ」と言いながら羽織っている七分袖のサマーカーディガンから腕を抜くと、セルリアンブルーのタンクトップが現れた。ちょっと涼しいかなとはにかんで脱いだカーディガンをスカートの上に広げた。
雨は少しづつ激しさを増して、まだ夕方でもないというのに薄暗く視界が悪くなってくる。 ぼんやりとした薄暗がりに浮かぶ耀子の顔が少し不安に翳ったような気がした。

「思ったより時間かかるかもしれないよ、この調子だと」と一応布石を打っておく。行き当たりばったりと言うか、後でどうしようと言われてもお互い困るのは目に見えているわけだし、どうも耀子の真意が摘めなかったからだ。
「食事したら多分戻れる電車なんか無い時間になっちゃうかもよ」
「着の身着のままで来ちゃったからなぁ」「泊まれそうなとこあるよね」
「そりゃ、あるだろうけどさ」「最悪、うちで泊まれば宿代ただだよね、飯付だし」
「げげ、なんて説明するのよ」と問うので、「“彼女だよん”でどうよ」と言うと「任せるわ」と少し間があいて答えが返ってきた。

(つづく)


戻る