早くもその翌日、蕎麦屋で危惧していたことが現実になった。昼近くだというのにまだ目が醒めきらぬうちに電話で起こされた。高校時代の友人である。どこから聞きつけたのか「帰ってきてるなら連絡しろや」と煩い。「今夜にでも行くわ、その噂の美人の彼女とおはなししたいし」としつこいので、今夜は都合が悪いとはぐらかす。「週末だから、じゃぁ明日にするわ」と取り敢えずは引き伸ばしておいて、対策を考えることにした。どうせあちこち誘って押しかけて来るに違いない。そうなれば露骨な視線に耀子を晒すだけでなく、ロクでもない過去の暴露話を吹き込まれるのは目にみえている。もちろん話には更に尾ひれが二つも三つもくっついてこの小さな町に拡大していくことになるのだ。だからって何だというわけでもないし、見せびらかしてやろうという気もしないではないが、どうせそのうちどっかで鉢合わせするのだ。今はとにかく耀子と二人だけのほうが楽しいし貴重な時間を無駄にしたくはなかった。というわけで、逃げるしかないな。要は朝出かけて、夜帰ってくればいいのだ。
耀子には車で少し遠出しようと話をした。思いのほか喜んでくれて、お弁当も作っていこうと言い出した。コンビニで調達すればいいじゃないといっても、美味しくないから自分で作ると言い張る。材料はあとで買いにいくことにして、カメラでも持っていこうかとまだ半分寝た頭で考えていた。
日が傾いた頃、耀子を誘って買い物に出た。車で国道沿いに出れば大きなスーパーやお決まりのパチンコ屋にゲームセンターもあるのだが、そこまで行くこともないだろうと近所の商店をまわることにした。クーラーを持っていけばビールもいいなと胸算用する。考えてみれば弁当を持って出かけるなんて何年ぶりだろう。それ自体にも妙に懐かしいわくわくさせるものがあるのだが、それにも増して二人で買い物をして廻ることに照れくさいような喜びを感じてしまうのだ。昔は生活臭を徹底的に消すことが格好良いなどと思っていた時期もあったはずなのに、弁当の食材を抱えて隣を歩いている耀子がこの場で抱き締めてやりたいほど輝いて見えた。
朝8時。この時間なら大丈夫だろう。天気は上々。耀子の出で立ちは先日買ったブルーグレイのスカートに貸してあげた薄墨色の半袖シャツ。襟元からほんの少し見える肌が抜けるように白い。小さな膝小僧に朝日があたって産毛が柔らかく光っているのに思わず見とれていたら、「早く早く」といいながら、ぶかぶかの袖から白くて華奢な腕が伸びて、弁当と水筒とクーラーを車に積み込んでいた。車を出して西へ向かう。昨日、どこか行きたいところはないのかと聞いたら、週末だし観光地じゃないところのほうがいいかなという。お薦めの場所に連れてってよといわれても、田舎にはそんな気の利いた場所はないのだ。絶対混みそうもないところということで、取り敢えず西の山脈を越えてみようかということになったのだ。
ほんの15分も走れば交通量は目に見えて減り、人家を探すことも難しくなる。片側一車線の国道も少し道幅が狭まって上り坂とカーブの連続が始まる。針葉樹林帯を抜けると樹木の背が一気に低くなって高台に出る。30kmほど来ただろうか。ちょうど盆地を見下ろせる見晴らしの良い駐車スペースで車を停めた。見下ろした盆地は斜めに照らす太陽光が微かに残ったもやを蹴散らしている最中だった。その中央を蛇行して流れる川が時折白く光っていた。
「来たときと丁度逆になるわけ?」
「そだね」
来た道の峠はちょうど真向かいにあたる。盆地の向うにそびえる正面の山はまだ影になっていた。

「あれは高速道路かな?」
「ん? そうそう」「よくわかったね」
盆地の周囲を迂回するように横断高速道の白い曲線が伸びている。今は盆地の端が終点の高速道路も数年先には日本海側とつながるはずだ。
「ちょっと北側でトンネル掘ってるよ」「取り敢えずは対面通行で一本みたいだけど」
「トンネルって女人禁制なのよね」
「えっ? 今でも?」
「そうそう」「ダムかトンネルか迷ったんだけどさ、研究室に入るとき」
少し前に立っていた耀子がゆっくりと振り向いた。
「現場は命懸けだから……そういうのは良いのだけどね」
「ダムはトラブル多いからどうしてもコスト高になっちゃうし、この先斜陽かな」
「何のためにどこに造るかを考えるのは事務屋さんの仕事だからな」
「でも、自然保護だの環境云々? ってのも胡散臭いよなぁ」
「そうそう」
「なんかちょっとおこがましいしね」
耀子の黒目がちょっと輝いて説明を促す。
「え、だから自然よりも人間が上っていう発想じゃん、元々が」「輸入品だからってのはまぁ、いいとしても、所詮は人間のためってところが欺瞞だな」
「何が自然かって定義が曖昧だし、人類史上最大の自然破壊は農業の体得ってやつ?」
朝の光を受けて額にかかった髪が金色に透けて見える。耀子の聡明な切り返しに思わず愉しくなってしまう。
「地球の付属品がいつのまにか創造主にすりかわるのだな」
「本質的に本末転倒してるの」
「川が汚れて困るのは魚じゃないわけ」「魚は住めなくなれば死ぬだけ」「人間以外の生物ってそうじゃない。食べるものがなくなれば死ぬ。住むとこが住めなくなれば死ぬ。それだけじゃない。淘汰が進化を促すわけだし。生物としての宿命でしょ。それを自然というんじゃないの?」
「そだね。魚がいなくなって困るのは魚自身じゃなくて、魚を採って食べる人なわけね。川の水が使えなくなって、飲めなくなって困るのは人だもんね」
「文句たれるのは人間だけしなぁ」
「だから天然ものの鮎が食えなくて贅沢できなくなるから川を汚さないで下さい。っていうのはわかるよね」
「そのうち匂いが同じ鮎ができるんじゃないか?」
「あっちこっちで本末転倒だけど、もうどうしようもないよね。いまさら」
「なんだかんだ言いながらも明日は今日より良くなるってのがすべての前提だからな」
「でも、みんなが同じ夢をみれなくなると、無理に無理を重ねて集積度が高いだけに凄いことになりそうね」
「まぁ、そこまで含めて自然なんじゃないの」