Lontano profondo 7-3 『峠のむこう 終』

残りの日も僅かという午後、友人に合いに出なければならない隆が出かけてしまうと、たちまち手持ち無沙汰で落ち着かなくなった。一緒に行こうよと誘ってもらったが私に気を使っては楽しめないだろうと遠慮したのかもしれないし、ただ単に知らない人の中に出ていくのが億劫だったのかもしれない。することもなく縁側で庭を眺めていると隆の母に声をかけられた。

「私も出かけなければならないのだけれど、よかったら御一緒しませんか」
「えっ、誰もいなくなちゃうんですか」
「母は足がちょっと悪いんでおりますけれど」
そう言って離れのほうを少し見やった。
「お墓参りなのだけど、すぐそこだから。」
「主人も隆も遅いみたいだから帰りにどこかで食事しましょうよ。さぁ。」

午後の街を川と反対側に一本裏の路地に入る。すぐに民家が途切れて青い稲穂が一面に広がった。代々の墓は田んぼの先の山裾の社にあるそうだ。
「わたしも東京から来たのよ」「もう、ずっと昔のことだけどね」
唐突に声が聞こえた。初めて聞いた話だから少し驚いた。並んで歩くのがやっとという田んぼの中を一直線に伸びるあぜ道の中間ぐらいだった。そういえば話す言葉にまったく違和感がない。
「あなたと話しているとなんだか昔に帰ったみたいよ」
そう言われて何だか嬉しくなってしまった。ひとしきりこの盆地の町に嫁いできた事情に話しの華が咲いた。

「でもね、何度逃げ出そうと思ったかわからないくらい」
「今日みたいな日に隆と上の兄の手を引いて町外れの峠まで行ったこともあるの」
ちょっとどう応えて良いのかわからなかった。
「やっぱり風習とか習慣とか違ったってことですか」
「そうね、人の目がもの凄く気になるの」「いつも見られているようでね」
「あ、それはあたしも感じます」
「そうでしょ」
「あなたたちのことも聞きたくなくとも聞こえちゃったりして」
そう言って隆の母は笑った。
一瞬の後、顔に血が上るのが自分でもわかった。見られたくない生臭い一面を剥き出しにされたようで思わずお供えの花で顔を隠していると
「あら、責めてるわけじゃないのよ、誤解しないでね」
と日傘を差しかけてくれた。

「でもねぇ、峠に立って振りかえったら戻ってきちゃったのよ」
「何も知らない子供たちに早く帰ろうよって手を引っ張られたのもあるのだけど」
「湖がびっくりするくらい蒼くてね」
「誰にも言わないでね」
笑いながらそう言ってまた歩き出した。

「きれいでしょう」
傾いた陽に赤く色づいた腰高まで伸びた稲穂をかき分けるように進んで行く。
私はその光景のあまりの美しさに声も出ない。
「風が渡って見えますね」

「御盆だというのに誰も来ないのよ、うちの人間は」と嘆きながら手早く掃除を済ませて花を供えた。線香の煙が白く立ち昇り、草いきれのなかに懐かしい匂いが甦った。 あっという間に山陰に日が落ちて空の青みが暗く色落ちしていく。暗いかしらと隆の母が提灯に火を点けた。暮れかけた群青色の空の下で提灯の灯がぼんやりとあたりを照らす。蛙の声と稲穂の上を渡る風の音を聞きながら田んぼのあぜ道を引き返した。濃密な晩夏の夜の匂いの中で、橙色の提灯が先を歩いて行くこの光景を忘れることはないだろうと思った。

3

Lontano profondo 7-3 『峠のむこう 終』

峠から見下ろした湖は恐ろしいくらい蒼かった。半月ほどを過ごした町と背後にそびえる山脈が痛いほどくっきりと目を刺した。いつかこの光景を忘れてしまうときが来るのだろうか。それとも日常の風景として生活の中で埋没していけるのだろうか。隣に立って同じ光景を眺めている隆に夢を托せるのだろうか。この半月は決して泡沫の夢ではなかったはずだ。「またいらっしゃいね」といってくれた隆の母の言葉も大事に胸にしまいこんだ。ゆっくりと隆の腰に回した手に力を込めると、同じように私の肩を抱いている力が強くなった。つかの間の安心とワインの底に溜まった澱のような不安が交錯する。道は峠のむこうに続いているがその道を下って良いのだろうか。判断がつかなかった。

怒涛の放水がまるで嘘だったかのようにダム湖は静まり返っていた。桂川では最大のダムらしいが常時人がいるわけではないらしい。管理施設は高いフェンスで囲われて門扉は頑丈に施錠されていた。脇の階段を降りていくとダムの堤体のてっぺんに出られるようだ。ざっと見回したところ人気はないようだ。峠で休憩したときに下着をすべて毟り取られてしまったので、近くに人が来るとサマードレスの薄い生地を通して胸や下半身が透けて見えているようで気が気でないのだ。隆の手を取ってゆっくりと堤体のコンクリート歩廊を進んでいく。クレストゲートはもちろん、オリフィス吐水口も全閉で物音一つしない完璧な静寂が圧倒的な沈黙をもってのしかかってきた。あの時以来雨が降っていないのだろうか。手摺越しにはるか下の湖面を覗き込むとすっかり干上がったダム湖が白茶けた無残な湖底を午後の陽に晒していた。クレストゲートを可動させる真紅に塗られたトラスの巨大なアームが白いコンクリートに突き刺さった巨大な棘のように見える。鮮烈な赤が目に焼きついて刺し込まれるように痛んだ。隆の動きが止まった。振り返ると動くものが何一つ無い森閑とした静寂の中で呆然と乾いたコンクリートを見つめていた。

瞬間的に怒りにも似た感情が身体の奥底から突き上げてきた。白く乾いた予感が押し寄せてくる。隆の胸に飛び込むと頭を打ちつけた。不安に飲み込まれそうになって思わず涙ぐんでしまう。隆の少しびっくりしたような目を見て強引に首を引き寄せた。唇を求めながら左手でサマードレスの背のジッパーを一気に引き降ろした。両の肩紐を落とすとドレスが足元にきれいに丸くなって落ちた。
「今すぐ抱いて、ここで抱いて」
多分泣いていたのかもしれない。隆は素裸になった私を抱き留めようとした。私は隆のものを受け入れながら狂ったようにめちゃくちゃに暴れた。隆の背中に爪を立てて掻き毟った。狂ってしまいたかった。最後の瞬間に引き抜こうとする隆の腰を押さえつけてはっきり「いや」と叫んだ。「絶対にいや」と泣き喚きながら首を振った。
「最後までしてよ」
すべてのものを身体のいちばん奥底で受け止めなければ気が済まなかった。後のことなどどうでもよかった。何も考えなかった。ただ本能のなすがままに、私は私を完璧に信じていたのだ。一際強い抉り込まれるような快感の後で隆の動きが止まるのを待った。取敢えずの満足感にひたりながら、そっと目を開けるとはるかな上空を終わりかかった夏の空を背景にして鳶が一羽ゆっくりと旋回していた。

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遠くに止まる車の音とざわめく人の動きを感じて、朝礼の時に元請けから指示されたことを思い出した。あちこちに頭を下げて、頼むべきところへ平身低頭してようやく食い込んだ公共工事だ。桂川第三ダム堤体上部設備補修工事などという四角い名前がついてはいるが、要は手摺のペンキの塗り替えなわけだ。町では知らない人のいなかった父の工務店もすっかり傾いてしまった。代替わりして傾けてしまったという方が正確か。酒の席で倒れた父は実にあっけなくそのまま他界した。東京に出ていた兄は畑違いの私に「おまえ頑張れよ」といって逃げた。そして社長と言いながらも経理も事務も営業も、現場監督だってやるしペンキ職人にも変身しなければならない羽目に陥ったというわけだ。片側200mに渡るダムの堤体のてっぺんの手摺を塗り替えるために先週から始めた錆落としはカタツムリが這うようなスピードで一日当たり20mくらいづつ進んでいた。手摺の背が低いため作業はほとんど座って行うので、若くはない体には無理な姿勢がかなりこたえたが、代わりの職人を雇う余裕はなかった。その日も秋の透明な日差しの中で静まり返ったダム湖を背に、ただひたすらグラインダとブラシで錆を落としていた。

今日の午後、水資源開発公団と地元の建設局、本省の役人が視察に来るとかで、粗相の無いようにと元請けから厳命が出ていた。職人の服装、言葉使い、一行が近づいたら音の出る機械は止めろ等具体的な指示を受けていたのだ。女性もいるらしいし、お偉いさんの靴が汚れないよう通路の部分はぴかぴかに磨いておけと、清掃指示まで出ていたが、いったいどこまで本気でやればよいのか誰もよくわかっていなかった。わざわざ観に来るような工事なんですかと尋ねると元請けの所長も首をかしげて、時間つぶしか何かのついでだろうと迷惑そうに呟いていた。どうやらその御一行様がこちらに向かって堤体の上を歩いて来るらしかった。20mほどの距離でグラインダのスイッチを切る。元請けの所長が露払いのように腰を低くして先導しているのを見て笑いをこらえる。現場の職人なんぞには目もくれずに進んでいく大名行列をやり過ごしていると、グレイのスーツの塊の中心のラベンダー色が一瞬だけ網膜を刺激した。復路はエレベータで降りて堤体の中の管理用通廊を使うという話だったので一行の後姿が遠ざかるのを見て、何も無かったように再びグラインダとブラシの音が湧き上がり、ダム湖の湖上に吸い込まれていった。

日が傾き始めた頃、コンクリートの地べたに座りこんでその日16本目の手摺の支柱の錆落としをしていると、手元が突然影になり後に人が立っていることに気づいた。暗いなぁとグラインダを回したまま首を向けると1mほど離れたところに場違いな黒く光る細身のパンプスとストッキングに包まれた足首が見えた。
「……でしょう」
何か聞こえたような気がしたのでグラインダを止めるのと、パンプスが少し歪んで、女がしゃがみこむのが同時だった。ゆっくりとラベンダー色のスカートの裾がめくれてその下から形の良い白い膝が現れた。その瞬間、小さな膝に目が釘付になった。息が止まるような衝撃とともにかつての狂おしい夏の光景が一気に甦った。

「隆くんでしょう」
今度ははっきりと聞き取れた。
左手で持っていたはずの金属ブラシの感覚が無い。カン、カンと二度足場に当たる音を聞いたけれど、はるか下の水面に落ちる音はもう聞こえなかった。

<<おしまい>>


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