花見

春は唐突にやってきた。

取り敢えず一校だけ受けた大学の試験は結果を見るまでもなかった。物心ついて初めて強制的に所属するところもなく、期限を切られているとはいえ、根なし草のような解放感と漠然とした不安感にとっぷりと浸っていた。
大学に行く人や就職する人を尻目に、母親は「下がつかえてんだから1年だけにしてよ」とだけいった。父親にいたっては「ふむ」と言った切り新聞に目を戻した。ありがたいと思うべきだろうことは十二分にわかっていたつもりである。
それでも、同じ境遇の友人達と会うたびに、お互い「どうしようかねぇ」などと、お茶を飲みながら入れそうな予備校を探す毎日を送っていた。
ようやく運は巡ってきたのだろうか。
ぐずぐずと4月になって受けた予備校の最後の試験に引っ掛かった。
結果的にわたし一人だけ離ればなれ、別のところへ行くことになったわけだけど、それは特に理由があったわけではなかった。唯、なんとなく「今は一人でいるのもいいな」と漠然とした気分に浸っていたのかもしれない。行き先が決まって、自分でも不思議なほどすっきりとしたストイックな気分だった。

やっとの思いで潜り込んだ予備校は駅からほんの5分ほどの高台にあった。
かなり年季の入った五階建ての、これ以上は落とせませんといった安普請で、床も壁も軒も剥きだしのコンクリートがお出迎えしてくれた。うっかりしてると見落としそうなさりげないファサードに比べ、内部のあまりの人口密度の高さと、あまりにも極端な男女比には最初、心底めんくらった。
怯えたといってもいいかもしれない。
なぜなら、高校の特別教室ほどの空間に番号から類推するに300人以上が座っているのだ。一言でいって気後れするどころかむさ苦し過ぎる。
けれどそんな最初の驚きも、葉桜が目立ち始め、道行く人々がライチの皮を剥くように瑞々しさを取り戻すころにはすっかり日常と化して、開放感を求めて講義の合間や終了後に付近の半径2kmほどを探索するのが日課のようになっていた。

周囲は比較的古くからのオフィス街と大学や専門学校の立ち並ぶ、学生街の狭間のような街だった。
石造風の仰々しくていかついビルの隣に崩れ落ちそうな古本屋や輸入レコード店が軒を並べていたり、大手企業の本社ビルのまるで庭園のような広大な敷地の脇に、看板だけは巨大な立ち食いそば屋が店を出していたりと、都会に不慣れな田舎者にとってはなかなか興趣に富んだたたずまいが続いていた。特に、わたしのようなどう見ても半人前の人間にとっては、あたりをうろうろしていてもそんなに場違いな感じがしない居心地の良い街だった。

その日の日課のルートは南東の坂下方面に決定した。
以前、前を通りかかって目星をつけておいたビルの谷間の小さな公園の葉桜の下で週遅れの花見でもしようかと目論んでいたのだ。
その日最後の講義の後、途中の酒屋で缶ビールを一缶調達してきた。看板だけ巨大で、傾いでいるようにしか見えない古そうな酒屋の爺さんが、差し出したビールを見て一瞬困ったような顔をして3秒ほど逡巡していたのを思い出して可笑しくなった。
目的の公園に向かって道を下っていくと、生暖かい風が下から吹き上げてきて雲行きが怪しい。
坂の途中で左手に折れるとやはり下り坂が続いている。突き当たりの角にはあまり古そうには見えない石碑が建っていて『幽霊坂』と刻まれている。もちろん周囲はこれでもかというぐらい純粋なオフィスビルばかりで、雰囲気もなにもありはしなかった。

幅が4m程のやっと車がすれ違えるかなり急な幽霊坂を下っていくと、坂の途中に工事用の仮囲いを張り巡らせた一角があった。銀色に鈍く光る仮囲いの向こうにはちょっと古めかしいアーチの上部が花曇りの空をバックに黒く影を落としていた。
暮れそうで暮れない中途半端な時間のせいか界隈は不思議に静まりかえっていた。湿った南風が隣の巨大なドームのある寺院のようやく緑が芽吹いた梢をざわざわと揺すっている。
その寺院の境内との境目あたりの仮囲いに小さな高さ1mほどのくぐり戸があった。
それが何故かその時、パタンと音を立てて向こう側へ開いた。
不思議に思ってしばらく見ていたけれど中から人が出てくる気配は無い。工事の人が閉め忘れた戸が風で開いたのだろう。
誘われるように、興味半分ちょっと覗いてみた。

頭を屈めて覗き込んだ瞬間、濃密なむせるような沈丁花の香りに囚われた。
沈丁花にしては少し時期が遅いなと思いつつ、香りに誘われてくぐり戸をくぐる。
見渡す範囲に人影はない。
静まりかえった石畳の先に講堂か学校のような朽ちた建物が現れた。
その時、パタンと軽い金属があたる音がして飛び上がった。
くぐり戸が風で閉まっただけらしい。
ほっとして目を元に戻す。右手奥には小さいながらも鐘楼のような塔も見えた。
正面の玄関らしき車寄せの上部に覆いかぶさるような尖ったアーチに目を奪われて恐る恐る近寄っていく。ガラスの代わりにぽっかりと空洞になった窓は建物が使われなくなってかなり月日が経っていることを示していた。
沈丁花の香りに混じって水を含んだ木材の放つ腐臭があたり一面に漂っていた。
建物の大きさと見なれない意匠に圧倒されて仰ぎ見る。背景にはそろそろと夕闇が忍び寄り、低くたれ込めた雲はインディゴ色に染まり始めていた。

既に闇の帳に塗り込められた建物内部を覗く気はしなかったので、そのまま真正面を通り過ぎて右手にまわっていった。
ますます強くなる沈丁花の香りの元を見つけようと思ったのだ。花壇らしき崩れた石組みを乗り越えて、ところどころ苔に被われた園路を進んでいく。
都会特有の暗騒音以外に物音一つしない園路に足音だけが響く。生暖かい南風がひときわ梢を強く揺すると、待っていたかのように、空気がしっとりと濡れて霧のような雨滴が混じり始めた。
外壁の漆喰が崩れてレンガが剥き出しになった壁、丁番が外れて横倒しになった重そうな木の扉、それでも尚、剛性を失わない模様の浮き出たコンクリートの柱、そんな打ち捨てられた建物の死骸だけが見渡す限りの視界を覆っていた。もう引き返そうかと角を一つ越えると唐突に中庭らしき空間に出た。

そして、目を疑った。

薄闇の中に、優に二階を超えるぐらい、高さ7,8mはあろうか。満開の枝垂れ桜が空気を薄紅色に染め上げていた。
吸い寄せられるように近づくと、唖然と見上げる眼前を頬に触れんばかりに小さな薄紅色の花が南風にゆらゆらと踊っていた。まるでそこだけが生きているかのように。
長く枝垂れた枝先は地面に届きそうなくらいまで落ちて、視界を遮るぐらい絡み合っていた。
静まりかえった廃墟の中で思わぬ幸運に感謝した。
桜の幹回りは1mほどもありそうだ。あらゆるものが見捨てられ、朽ちていく中で枝垂桜だけがまだ生を主張している、そんな気がした。
しばらくあたりを見廻して、予定の変更を決めた。音をたてないようにそっとビールの缶のタブを引き上げたつもりだが、反響した音に改めてびっくりした。枝垂桜を眺めながら最初の一口を飲んだ。

霧のような小糠雨は桜に落ち、枝を伝い、花を潤し、手に持った缶に滴を落とした。
根元に落ちた花びらは幹を中心にしてドーナツ状に白い絨毯を張り巡らしていた。ふわふわと気持ち良さそうな感触に、ほんの一瞬躊躇して靴から抜いた足先に手をやって交互に靴下を脱ぎとった。そっと足を乗せると白い敷物は思ったより柔らかく、暖かく迎えてくれた。
満開の枝垂桜の傘の中で真上を見上げての花見になった。

一陣の風が枝を揺する。頬に、首筋に触れた枝から溢れんばかりに花びらが落ちてくる。
窒息しそうなまでの桜の匂いに囚われた。濃密な大気の底で足裏の柔らかな感触が触覚をくすぐる。
「誰か……、そこにいるの?」
空気が震え、桜の闇に生き物の気配がした。
密生した枝がひときわ震えてシャツのV字の衿元に花びらが積もった。濡れた小さな花びらが無数に肌に貼りついて、シャツの中に潜り込む。取り出そうと指を這わせてすぐに諦めた。
艶めかしいまでの空気と薄紅色に包まれて、花びらの柔らかい感触を纏ってみたいと肌が望んでいるようだった。ちょっとシャツの胸元を引っ張ると、影になった三角形の隙間に吸い込まれるように花びらが降り注ぐ。頭の片隅で桜が望んだことがわかった気がした。そして桜が望む以上にわたしも囚われたのだ。

挿絵2

『墨桜』

遠くで電車のブレーキが軋む音がした。
胸元のボタンをいじる指先に小さな花弁が絡みついて促す。逡巡する指先が下に移動するたびに少しづつ剥き出しになる肌に花びらがまとわりついた。シャツを肩から落としてしまうと南風をまとった枝が踊るように暖かくざわめいた。
「これでいい?」
促すように枝は踊り続ける。
背中に手をやってブラジャーのホックを自ら外す。肩紐をなぎ払うように枝がまとわりついてきて離れない。柔らかく盛り上がった胸の先端を薄紅色の花が擦るように掠めると、からだの奥底でなにかがはじけて堰が切れた。
自分でも信じられない狂暴な感情が突き上げてきて、自制心が消し飛んだ。
怒ったように乱暴にスカートと下着を脱ぎ捨てた。

「私が見ているの?」「私が見られているの?」

羞恥が襲いかかって花びらの敷物にしゃがみ込んだ。そんなわたしのからだを花びらの吹雪が覆い隠す。
わたしが桜を愛でて見るように、見たければ見てもいいと思った。いや、むしろ見て欲しいとすら思ったかもしれない。
積もった花びらにそっと口で触れる。そのまま膝をにじるように桜の中心に向けてお尻を持ち上げた。恥ずかしさに全身の震えが止まらなかった。
「これでいい?」
しなやかに反った背中に、花器に水が溜まるように花びらが落ちた。望まれていることはわかっていたような気がした。だから、さんざん躊躇して、おなかから手を回して剥き出しになっている襞を更に左右に広げた。
「これでいい?」
答えるように枝先が大きく暴れた。
溢れた蜜にすべった指先が襞の内側にのめりこむ。そこを狙ったように花びらがまとわりついて薄紅色と冴えた紅色が絡み合う。
こねるような指の動きが止まらない。気が遠くなりかけて乱舞する枝垂桜に身を任せた。
桜の蜜とわたしの蜜が交じり合い、望み通りにからだ中に花びらをまとっていた。
白い肌が花びらと同じ薄紅色に染まり花の匂いにまみれる。固く尖った胸の先が敷かれた花びらに埋もれ、枝先が蜜の溢れる中心に襲いかかったとき、視界がすっとぼやけて脈動する桜の大きな影がみえた気がした。
そして、その影に呑み込まれたいという欲望と、逆に包み込みたいという願望が葛藤した。そのとき、桜の幹から遺伝子が共鳴するかのような懐かしい音が響いて記憶が途切れた。

気がつくと、わたしの四肢は枝に絡みとられ、花びらにまみれて蜘蛛の巣にかかった蝶のようだった。
痛まないように一本づつ絡みついた枝をほぐし放つ。枝の跡には少しの傷もないく滑らかな肌が花の匂いに染まっていた。生暖かい感触に内腿に手をやると溢れた蜜が足を濡らしていてた。

残ったビールは少しぬるくて、ひどく苦かった。
かつて花見が死者の御霊を弔うことから始まったことを思い出して、最後の一口を残した。枝に包まれながらこの枝垂桜がこの先たどる運命を思った。
桜の根元にビールを注ぐと少し目を閉じて祈った。仰ぎ見ると、髪を伝った花の滴が止めどもなく目に入ってきて、そして溢れた。

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前期の講義が終わる丁度その日に梅雨が開けた。あってないような、あったとしても楽しめない夏休みが始まる。わたしはさんざん迷ったけれど足を向けていた。見届けなければいけない。
《それが、…としての義務だから…》
「えっ?」と思わず振り向いても誰もいなかった。
いつもの道と眩しいまでの夏の光があるだけだ。
吹き出す汗と、くらくらするようなコントラストの視界の中を憶えている通りにトレースする。

予想は完璧に当たっていた。
仮囲いは既に撤去されていて、代りに高さ70cm程の黄色と黒の斜め縞のバリケードが道路との境をつくっていた。夏の光の中でかつての面影一つない完璧なまでの広漠の白が網膜に焼きついた。
人目も気にせずバリケードを跨いで中庭だった辺りを目指して走った。白茶けた砂質土だけが一面を覆っている。
汗が頬を伝い顎先から滴になって落ちる。と、その瞬間吸い込まれて跡形もなく消えてゆく。

諦めのうちに目を閉じると、網膜に見たこともない情景が怒涛のように流れ始めた。
懐かしくもせつない過去の集積。
下手にひろがる水路に区切られた家々。青く光る海。大きな荷を背負った人夫と粋な女。やがて、畑は屋敷になり、煉瓦造りの建物からコンクリートの洋風建築に変わった。地響きと煙が漂い、猛火が迫りくる。
汗が一気に冷えて震え、白昼夢に翻弄された。

滲んだ視界に光がゆっくりと戻ってくると、からだのいちばん奥底からあの懐かしい音が聞こえた。
わたしは当たり前のようにそっとおなかに手をやった。

<完>


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