その年の春は早かった。
三月に入って山脈から吹き降ろす西風が止まりめっきり暖かくなったが、それは同時に北上する低気圧と共に周期的に雪が降ることを意味していた。ときおり乾燥して晴れた冷たい青空に西風に乗った吹雪きが吹き荒れるのと、比較的暖かいけれど湿った積雪を伴う陽気はどちらも選ばなくてすむならば遠慮したい季節だった。
卒業式が済むと3年生がいなくなり校舎にもがらんとして冷え冷えとした雰囲気が漂った。1、2年生の授業も午前中で終わり春休みと年度末がもうすぐそこまで近づいていた。
その金曜日も昼前から雲が増えて、午前の授業が終わる頃にちょうど雪が降り始めた。
松崎智美は教師になって初めて受け持ったクラスが取り敢えず表面的には大きな問題もなく、年度末を迎えられたことに安堵していた。対人関係の難しさというか、生徒たちの思いもかけないリアクションに悩んだこともあった。顔が青くなるような出来事もあったのは事実だが、あと数日でそのクラスもきれいさっぱり過去に封印されるところまで漕ぎ付けていた。
ところが今朝、職員の連絡会議で学年主任から昨日の文系科目の成績会議で問題が持ちあがったことを知らされた。
木南寛だった。
昨日の会議で現代国語、古文、漢文の担当教師が揃って異議を申し立てたらしい。
けれど、説明を聞いたわたしは思わず笑いそうになるのを堪えねばならなかった。三人の国語教師は最初から笑っていた。テストの成績に問題があったわけではない。図ったように出席日数が許容限度ぎりぎりなのだ。彼が理系を選択したことは周知の事実だったが、3年次にも国語の授業はあるのだ。
《こういうことをされては示しがつきませんよ》
そういわれてわたしもその通りだと思った。
担任教師であるわたしが担当する数学もぎりぎりとはいわないまでも似たような状態だった。確かに進級することに問題はないが、その手の内を見透かしたような、予定調和的な姿勢が気に入らなかった。わたしはそれでもデータとしては問題がないから、と割り切って今日午後の成績会議に臨むつもりだった。だが、教師だって当たり前の人間だ。国語教師たちの言い分も分かり過ぎるほど理解していた。
若干の論議の末に、国語科とは始末書ならぬ反省文を書かせることで合意した。《彼の作文というか論文は面白いですよ》とまで云われて、問題が深刻でないことにほっとした。
だが、もちろん、彼の前でそんな顔はできない。二時間目の数学の授業が終わった後木南を可能な限り冷酷に呼びつけた。
《午後、居残って反省文を書くように》
露骨に嫌がるかと思ったが、あっさり受け入れた木南を見て少し拍子抜けした。3時半まで会議だからそれまでに書き終えるように指示をした。
「わかってると思うけど、ちゃんと三通違うものを書かないと駄目よ」
「たぶん見せ合うから」
彼は《わかっています》と言って苦笑していた。
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理系の成績会義が終わって廊下に出ると冷え込んだ空気が床を這っていた。教室に戻る廊下を歩きながら外を眺めると、昼頃から振り始めた雪が既に校庭を白く覆い尽くしていた。
朝は晴れていたから普通のパンプスで来たことを思い出して一瞬うんざりした。
教室の扉を引くと建て付けの悪い扉が大きな音を軋ませて開いた。気温が下がって吐く息が白かった。
木南は窓際の机に座りこんで外を眺めていた。
もうずいぶん前に書きあがってしまったように、すぐ隣りの机に反省文が揃えて置かれていた。
「あら、ごめんなさいね。冷蔵庫みたいね、ここ」
「頭が冷えてちょうどいいですよ」
事実、彼の前の窓が30cmほど開いていた。彼の吐く息が白く四散して暗くなり始めた教室に吸い込まれていった。
「ほんとは数学の分も書いてもらおうと思ったのだけど……」
「いろいろ助けてもらったこともあるから今回はいいわ。でも来年はちゃんと出席しないと駄目よ」
目と目が合って意思の疎通が成ったとわたしは直感的に思った。
「けっこう、積もっちゃいましたね」
木南の目が降る雪を見つめていた。
木南に《帰っていいわよ》と告げて、わたしは国語科の教師に反省文を届けに戻った。届ける合間に内容を興味深く読んだ。三枚読み終わった下にもう一枚紙があって驚いた。
『いろいろご迷惑をおかけしてすいません。ご尽力に感謝します。お礼といってはなんですが、桜が咲いたらとっておきの花見にご案内いたしましょう』
最後に滑らかな筆致で松崎智美様と書かれていて、わたしはラブレターを貰った女子中学生のように辺りを見回して、抜き取った一枚を折りたたんでポケットに捻じ込んだ。
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案の定、駅に向かう道路は既に踏み固められて圧雪状態だった。傘も持っていなかったが、たいした降りではなかったのが救いだった。滑らないように恐る恐る圧雪に足を乗せると氷の上を素足で歩いているような冷たさが靴底とストッキングを通して這い上がってきた。
普段なら10分ほどの道程が倍以上かかりそうだった。それでも、駅が近づいて商店が増えてくると、雪かきされた部分が増えて気分が楽になった。

もう僅かで春分の日だというのに、既に陽が落ちたように夕闇が忍び寄っていた。寒さに震えながら駅に近い書店の前を通り過ぎたとき、後ろから傘が頭の上に突き出されて顔にかかる雪が消えた。誰だろうと思って振り向いた途端、左足が宙に浮いた。
次の瞬間、わたしは右腰をしたたかに凍ったアスファルトに打ちつけて呻いていた。
慌てて差し出された手を握って立ち上がろうとしたとき、右足首に激痛が走った。
「大丈夫ですか」
涙で霞んだ視界の先に木南寛の顔があった。
やっとのことで立ち上がったが、右足に体重を掛けると脳天にまで痛みが走る。雪の上にぶちまけたハンドバッグの中身を彼が集めてくれた。
「歩けますか?」
身体についた雪を彼が払い落としてくれた。
「すいません。びっくりさせちゃったようで」
「あなたのせいじゃないわ」
ようやく言葉がでたけれど、右足がずきずきと痛んだ。
「痛そうですね。肩貸しますから取り敢えず濡れないところに行きましょう」
右手を彼の肩に掛けて、そうっとびっこを引きながら歩き始めたが捩った足首の痛みと雪で滑る左足のせいでなかなか先に進めなかった。
「駅行ってタクシー呼んで来た方が良さそうですね」
そう言われてわたしはただ頷いた。
「先生のところ南町でしったっけ」
「そう」
「駅前にでかい病院ありましたよね」
「あぁ、市民病院?」
わたしを座席に座らせると彼がすばやく隣に腰掛けた。
「運転手さん、そこ行ってください」
ぎりぎり外来診療時間に間に合ったようだ。車寄せに降ろされたわたしは彼が中に入って借りてきた車椅子に乗せられた。整形外科の受付までしてもらって、受付票の記入も彼が書いてくれた。
「先生、いくつですか」
受付カウンターで振り向いた彼にそう訊かれ、一瞬躊躇してわたしは答えた。
「25」
レントゲンを撮って診察した結果、骨には異常がなかった。右足首の捻挫ということで湿布をされて包帯で巻かれた上をサポーターで固定された。痛み止めの薬を貰ったころにはとっぷりと暮れて、積もった雪が季節外れの白い夜を演出していた。
病院の目の前が借りているマンションだった。
ふたたび彼の肩を借りて雪の歩道をぎごちなく歩いた。足の裏に伝わる冷たさは惨めに転んだ前ほどではなかった。
「もうここでいいわ。ありがとう」
マンションのエントランスを入ったところでわたしは言った。
彼が少しだけ悲しそうな顔をした気がした。
わたしはかまわず一歩を踏み出したが、足に力が入らず前に進めなかった。
「やっぱり、駄目みたい」
彼が無言でわたしのハンドバッグを肩から抜き取った。次の瞬間、背中と膝裏に腕が当たってわたしの身体は宙に浮いていた。
「ちょっと、こら」「降ろしなさい」
見上げたすぐ前に彼の顔があった。
「何階ですか」
わたしは赤面しながら14階と告げた。
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電気を点けると冷え切った空気が迎えてくれた。リビングのソファにゆっくりと降ろされた。
「軽いですね」
わたしは抱き上げられてここまで誰にも会わずに来れたことに胸を撫で下ろしていた。
彼はソファの先でわたしの左右の足を並べて見比べていた。
「膝は大丈夫でした?」
スカートの裾が少し捲り上げられて、わたしは別の不安にとりつかれた。足が硬直して膝が閉じた。びっくりしたように振り向いた彼と正面から視線が合った。
「すいません。そんなつもりじゃないです」
「あ、ちょっと、びっくりしちゃって。ごめんなさい。気にしないで」
気まずい沈黙が流れた。
暖房が入ると少し人心地がついた。向かいのソファに座った彼のすぐ脇に、いつ脱いだのか記憶にない服と靴下、おまけにその下の床には下着までが放り出されていることに気づいて慌てた。起き上がろうと必死の形相を彼に気づかれてしまって、ますます慌てて右足に痛みが走った。
「あぁ…」
彼はつまらなそうに拾い上げた下着を服の下に隠してくれたが、わたしは気が気ではなかった。
「お茶でも入れましょうか」
そう言って彼が立ってくれたのでようやくわたしはほっとした。
リビングの奥にあるキッチンで電気ポッドが沸騰を知らせていた。
「あなた時間は大丈夫?」
「ああ、全然平気です」「それよか腹減りません?」
確かにもう7時を廻っていた。冷蔵庫の中身を必死に思い浮かべようとするが記憶が薄い。要するに普段一人ではろくに料理などしたことがないのだ。
「コンビニで買ってきますよ。適当に」
なんとなく察したような木南が笑った。
「たくさん適当に買ってきて。申し訳ないけど」「あなたの分も好きなだけ買ってきて」
バッグから財布を抜き出して一万円札を手渡した。
彼が玄関から出ていくのを見送って壁伝いにそろそろ歩いて、わたしは化粧を落として着替えた。痛みは最初ほどではないが、医者に言われた通り二、三日は安静にしていなければならなくなりそうだった。他にも問題になりそうなものがないか部屋をざっとチェックして、洗濯物は洗面室に放り込んだ。開きっぱなしのカーテンの向こう、けっこう広いルーフテラスで真っ白に積もった雪がガラス越しの照明の光に柔らかく浮かび上がっていた。
食事が終わったとき時刻は9時を廻っていた。
あまり引き留めておくのも申し訳ないと思い、わたしはもう帰るように彼に薦めた。
意外に素直に《わかりました》と言われて、わたしはほっとすると同時に少し落胆していた。そんなわたしの心を見透かすように彼が応えた。
「また明日来ますよ」
「せっかくの休みなのに、大丈夫よ」
「迷惑だったら来ないけど、食事とか大丈夫ですか?」
わたしは悩んだけれど結局彼の好意に甘えることにした。県南の田舎町にある実家の母でも呼ばなきゃいけないかと考えていただけに正直助かった。少なくとも彼はつまらない小言は言わないし、ぐだぐだと今の自分の境遇に愚痴も言わないし、微に入り細に入りわたしの今の生活を詮索しない。
「余計なお世話かもしれませんが、寝る布団とか大丈夫ですか?」
「あ、うん。ベッドだし」
けっこう細かく気が廻るようだ。ぐちゃぐちゃの寝室を見せるわけにはいかないので焦った。
「今日はお風呂入ったら駄目ですよ」
最後の言葉を残してドアが閉まったとき、わたしは寂しいような嬉しいような複雑な心境に陥っていた。
『ルーフガーデン−1』(続く)