ルーフガーデン 2

10時を少し過ぎたときインターホンが鳴った。
鳴ったけれどもそこに辿りつくのが至難の技だった。案の定、辿りつく前に携帯が鳴り出した。
昨日、帰り際に携帯の番号を教えておいて良かったと今更ながらに思った。
「もう一回鳴らしてくれる?」
オートロックを解除すると溜息がでた。
玄関までやっとのことで移動してもう一度インターホンが鳴るのを待ち構える間もなく、嘲るように軽やかな電子音が響いた。

「どうしたんですか」「大丈夫?」
間抜けそうに突っ立っているわたしを見て、彼は取り敢えずは安心したようだった。
「まだ店が開いてなくて、買い物はまた後で行きますから」
動かないわたしをまじまじと見た彼の視線が足元に落ちた。
わたしは恥ずかしながらパジャマのまま胸を抱えて立っていた。その膝丈のズボンから出ている右足はサポーターがはずれて湿布も剥がれかけていた。
「治ったって云う雰囲気じゃないですよね」
情けない顔をしてわたしは頷いた。
「痛いんですか?」
ほっとして目が潤んでしまう。
「動けないの、固まっちゃって」
彼が肩に掛けていたバッグを床に下した。
壁に寄り掛かっているわたしの背中に腕を廻して脇に肩を入れられて、ようやく動くことができた。寝室に辿りついたはいいが今度はベッドの縁に腰掛けるのがまた一苦労だった。
「湿布替えましょう」
枕元のテーブルに投げ捨ててある湿布の箱を彼が見つけた。
わたしの前に膝まずいた彼の膝に右足が乗せられた。彼が剥がれかかった湿布をゆっくりと剥がした。思いついたように剥がした右足の隣りに左足を並べて彼が首を傾げた。
「昨日よりは良くなってる気がしますけど」
「え? うん。足首は熱が引いてきたみたい」
箱から湿布を取り出して表面のビニールを剥がす。足首に丁寧に巻きつけられてその冷たさが飛び上がりたいほど気持ち良かった。床に落ちているサポーターを装着されると関節が固定された。
「もしかして、昨日のまま?」
「交換しようと思ったんだけど……」
「けど?」
「膝…と、あと腰と肩も打ってたみたいで、痛くて上手くできなかったわけ」
「なんで昨日言わないんですか、もう」「病院では見てもらった?」
わたしは怒られた子供のように首を振った。
「だって、その…服脱ぐのやだし、恥かしいじゃない」
「は?」
「そんな顔しないでよ」「たいしたことないから」
「だって、歩けないんでしょ」
「ゆっくりなら大丈夫」
右足のズボンの裾を彼が膝の上まで持ち上げた。さっき自分で見た限りでは内側が少し痣になっていた。曲げようとすると軋むような感じがして力が入らなかった。
「あとは?」
「肩」
「どのへんですか」
「腕の付け根の背中側だと思うんだけど、見えない」
困惑した彼の顔が目の前に合った。
「ちょっといいですか」
「え?」
「余計なところが見えないように自分でちゃんと押さえててくださいよ」
彼の右手がすっと襟元に伸びて赤い大きなボタンが一つ外された。
慌ててわたしは胸を両手で抱えるように押さえた。パジャマの襟がぐっと引っ張られて耳元から彼が背中を覗きこんだ。
「あぁ、よく見えないけど腋の上のとこ内出血してますよ、たぶん」「青くなってる」
「腕動きます?」
「動くけど、力を入れると痛い」
「ちょっと触りますよ」
パジャマの上から肩の後ろを指で押された。
「触ると痛い」
「まぁ、骨は大丈夫そうですね」
襟を元通りにしてくれたけれど、彼の目はわたしの腰に注がれていた。
「いちばん酷いのは腰?」
わたしは諦めて素直に頷いた。身体が廻らないわけではなかったから、ただの打ち身だと思っていたが、体重がかかるとズキンと突き抜けるような痛みが走った。朝、トイレに行こうと起き上がるのが至難の技だったし、足首とのダブルパンチで立ち上がって動くのはもっと大変だった。
「横になれますか?」
左肘を突いて身体を傾けようとするが辛い。見かねた彼が腋に手を入れて支えてくれた。
「体重全部腕に掛けて」
彼の二の腕に乳房がしっかりと当たっていたが、もう気にする余裕もなかった。すべてを任せてしまいたかった。
横にされてパジャマのズボンが少しだけ捲られた。剥き出しになった腰骨を彼の指が弾いた。
「響きます?」
「んん、それは大丈夫」
「このへん?」
彼の手の平がそっと肌に触れた。
「もうちょっと下」
ズボンが更に押し下げられた。
「そんなに見ないで」
「青痣はないようだけど…湿布しといた方が良さそうですね」
「お願いするわ」
湿布を貼ろうとした彼の手がショーツを少し摺り下した。あっと思ったが遅かった。
お風呂にも入っていないし、昨日の下着をそのまま着けていることに気づいてわたしは頭がかっと燃えて我を忘れた。

まったく何事もなかったように身体を持ち上げられて仰向けにされた。横で丸まっている毛布を掛けてもらったけれど、わたしは彼の顔が見れなかった。
「お茶入れてきますよ」「コーヒー飲みますよね?」
そう訊かれてわたしはようやく声がでた。
「ありがとう」

抱き起こしてもらうと、白く曇った窓の外がうっすらと見えた。
「まだ降ってるの?」
「みたいですね」「道路はべちゃべちゃだけど」

湯気とコーヒーの香りに包まれてわたしは朝起きて初めてほっと一息つけた。
わたしの前で、床のカーペットに直接座り込んだ彼に下から覗き込むように見詰められた。
「もう一回病院行きますか」
「いや」
「子供じゃないんだから」
「いやよ」「大丈夫だから」
「腰は後々響きますよ?」
「何よ、知ったふうな口効いて」「それに今日も明日も休みでしょ」
呆れたように彼が溜息をついた。
「月曜になっても治らなかったらちゃんと行って下さいよ」「連れていきますから」
「だめよ、ちゃんと学校行きなさいよ。どっちが大事なの」
「そりゃ、先生でしょ」
遠慮がちに聞こえた彼の言葉がプライドという殻を貫いて染みるには少し間があった。

挿絵2

『接近遭遇』

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去年の春、初めてクラスを受け持ったとき、彼の印象はあまりよくなかった。
休みや遅刻が多いことや、わたしの言うことなど歯牙にも掛けぬといった不遜な態度を示すこともあったし、それなりに指導すると手の平を返したように従順になったりとどうにも扱いにくい生徒だった。
家庭環境に問題があるようにも思えなかったし、成績が悪いわけでもなかった。大きな問題を起こすというタイプではなかったので、それほど気にすることもなかったのだが、彼はいつも妙な存在感を発散していた。そして、それは要は背伸びしたがる年頃にありがちな、斜に構えた生意気盛りだとわたしは判断していた。

最初にその認識を新たにしたのは6月の修学旅行のときだった。教師にとってはありがたくない行事だが、クラス委員である佐々川雅明の優れた統率力にわたしは安心していた。大枠を示してやれば、その中でこちらの意に沿うかたちで応えてくれるのが経験の浅いわたしにはとてもありがたかった。結果的に細かい部分にはまったく介入することなしに準備が整ってしまうのだ。だから、宿の部屋割りも新幹線の席にもわたしはまったく無関心だった。

朝、集合場所で員数確認をしたときに、久野夕実の顔色が少し青かった。
新幹線に乗ってから、そのことが気になって彼女を探した。手近にいた佐々川に尋ねると大丈夫ですよと即答されてわたしは面食らった。
それでも自分の目で確かめようとわたしは通路に立った。順繰りに後ろに向かって彼女を探す。ようやく車両の最後尾の二人掛けの窓側に座っているのを見つけた。そして、その隣りで新聞を広げていたのが木南だった。
《なんであなたがここに座っているわけ?》
わたしは不思議に思って木南に問うた。
困惑した表情を浮かべた彼が口を開く前に久野が答えた。
《ほんとはここが木南君の席で通路側が佐々川君なんです。わたしが代わってもらったんです》
わたしは面食らった。
声を掛けたとき、新聞を読んでいる木南の右腕にかけられていた小さな手が諦めたように膝に戻った残像が目の奥でリプレイされた。おまけに彼女は木南のブレザーを足に掛けているようだった。
《さっき具合が悪そうに見えたけど、大丈夫?》
《もう大丈夫です。ちょっと貧血だったみたいで》
顔色も戻っていたので取り敢えずは安心したのだが、わたしはわかったようなわからないような不思議な感覚に陥っていた。
結局、その日は宿に着くまで彼女の荷物を木南が持って、その傍にいつも影のように久野がいた。他の生徒たちもまるで当たり前のようにそれを受け入れている気がして、そのこと自体に今まで気がつかなかったことでわたしは掴みかけていた自信をなくした。

*************************

「お昼、作りますけど何か食べたいものあります?」「朝、食べてないんでしょ?」
「うん」
「和ですか、洋ですか」
「じゃ、洋」
「じゃぁ、足らないもの買って来ますから、鍵貸してください」
鍵の場所を教えて、彼が出ていってしまうと途端に部屋の気温が落ちた気がした。

ベッドに寝転んで手の届く範囲に転がっている本を読んだり漫画を読んだり。
でもまったく集中できなかった。
そのうちキッチンからはいい匂いが漂って来て、空腹感がいっそう募った。

再び彼に子供のように抱き上げられて、テーブルの椅子に坐らせてもらう。寝室に放り出してあったカーディガンを持って来て腕を通して前を合わせてもらう。
至れり尽せり。
「ありがとう。気が利くわね」
「いえ」「その、胸の先っちょがぽっちりしてて、気になって飯食えないから」
慌てて胸元を見るが今更遅い。顔が火照りながらも話を逸らした。
「美味しそうね」
事実、美味しかった。
熱くて濃いポタージュ・スープには刻みパセリが浮いていたし、カリカリのベーコンに添えられた卵はふわふわのスクランブルドだった。切れ目入りのソーセージは黒胡椒とマスタード和え。苺とヨーグルトのデザートには大粒のブルーベリーが添えられてミント風味、サラダ菜には生玉葱のスライスが乗ってセロリのスライスと真っ黒なオリーブの実入り。ドレッシングはオリーブオイルの自家製。ジュースはパイナップル。
たぶん数ヶ月ぶりに使うトースターからはパンに焦げ目がつく香ばしい香りが漂っていた。焼き上がったパンはじゅうじゅう音を立てているマフィンのバター乗せとライ麦パンのトーストで、わたしは感激してしまった。
「このスクランブルどうやって作るの?」
「そこにあったコーヒー用のちっちゃいミルク使いましたよ。本当は生クリームだけど」
「あとはバターで炒めてフォークでしゃかしゃか。温度が変わらないようにするといいみたいです」
「ふ〜ん、いつも作ってるの?」
「いつもやったら毎日10時半出ですよ」
「もう、まったく。人が朝から働いてるのに」
「たまにはいいでしょ?」

一時間もかけて食事をしたのは久しぶりだった。

「紅茶入れましょう」
「あったかな?」
「持って来ました。アッサム」
「俺はストレートだけど、先生は?」
「えっと、牛乳あったでしょ。それ入れる」
彼がテーブルの向こうでわたしを見詰めている。
「冷蔵庫の?」「だったら、賞味期限10日前に切れてるから捨てましたよ」
「あ、そう?」
恥かしい。すっかり忘れていた。
「さっき買って来ましたから」
「そんな顔で見ないでよ。がさつな女だって思ってるんでしょ」
「そんなことないですよ」「忙しいのはわかってますよ」

ポッドならぬ急須の茶漉しに紅茶の葉が軽い音を立てて落ちた。
沸かした熱湯が湯気を立てて注がれた。すかさず蓋がされて乾いたタオルが被せられた。
ポッドカバーなんてしゃれたものはない。
残りの湯で暖められたカップがテーブルに並べられた。
わたしのカップだけにガスに掛かった小鍋から牛乳が注がれた。
「砂糖は?」
「一個」
指で摘んだ角砂糖が無造作にミルクに放り込まれた。
蒸された紅茶が注ぎ込まれると強い香りが一気に部屋に広がった。

『ルーフガーデン−2』(続く)


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