窓の半分くらいが結露して曇っていた。
風向自動に設定されたエアコンが風向きを変えるたびに吹き出し口の羽根がカタカタ音を立てていた。
春なのに外は雪。
外の音が雪に吸い込まれて聞こえない。
静かな午後。
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そして、もちろんあの事件だった。
最初は何が起きたのかまったくわからなかった。
木南の手が血で真っ赤なのに気づいたときは正直動転した。
そして、事情を問い質そうとしたときには彼は廊下に出て行ってしまった。
慌てて近くにいた生徒に事情を聞いて、もう一度びっくりして目の前が暗くなった。
佐々川が手をポンポンと叩いて言った。
「おおっぴらになるといろいろ支障があるから、他のクラスや家に帰ってしゃべらないように」
「二人の問題だから放っておいてやろう。異議ある?」
「おい、雑巾」
別の男子が言った。
応えるように流しから雑巾を持って来た女子が
「人使い荒いなぁ」
と言いながらも、血で汚れた床を二人で掃除し始めてわたしは出る幕がなかった。
血まみれのカッターナイフを拾い上げようか躊躇していると、佐々川が横から手を出した。一瞬、目が合ったけれど彼は拾い上げたカッターを流しに放り込んで水で洗い始めた。
「先生、木南は殺しても死なないから…。それより久野さん見てあげて下さいよ」
そう言われてわたしは阿呆のように唯頷いた。
保健室に向う途中で一緒について行った菊川あけみに行き合った。
「あ、ちょっと、先生…」
後ろにいた菊川が引き止めたけれど、わたしは声を掛けてベッドのカーテンを引いた。
包帯を巻いた木南の手を久野が胸の上で抱きかかえるように押し当てていた。わたしはあっけにとられた。久野はわたしの方など見もしない。木南の顔だけを見ていた。
顔を上げた木南と目が合うと、彼は久野の髪を撫でて手を解いた。
立ち上がって外を指す木南について廊下に近いコーナーに移ってようやく話ができた。
怪我の処置は済んだこと、緘口令をしいたこと、久野を送っていくこと等々。でも一応、教頭には報告しないと後々問題になる、といったときの彼の視線が怖かった。
そして、たった今から「これは手が滑って自分で切った」んですよ、と言われてわたしは詰まらない保身を諦めた。
「でも、いったいどうしたっていうの?」
「落ち着いたら、夕実に直接訊いてください。俺がどうこう言っても意味ないと思うし」
「ありがとうございます。助かりました」
そう言って彼に深々と頭を下げられたとき、わたしは久野夕実がなんだかとても羨ましかった。
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その男が今、テーブルの向いに座っていた。
あの後、しばらく経ってからわたしは久野夕実と話した。
彼女は多くを語らなかったけれど、その気持ちは同じ女としてわかってあげられたと思う。
木南と付き合っているからといって成績が落ちるような子ではなかったから、もっとドライな子だと思っていたが、その内側にあるものを僅かに覗いただけで正直怖くなったくらいだ。
《彼に抱かれていないと気が狂いそう》
そう言われて、わたしはもう返す言葉がなかった。
我ながら通り一遍だと思いつつも、少し距離を置いて冷静になりなさい、としか言えずに、どっぷりと自己嫌悪に陥ったことを思い出した。
そして、久野をそこまで追い詰めた男として、私自身の彼に対する興味も増えこそはすれ減ることはなかったし、この先再び同じような問題が起こるのではないかと不安にも思った。
向いにいる男は食事の後片付けをして頬杖をついていた。
お茶を飲みながらわたしは彼の顔を見ていた。
「あなた、不思議な人ね」
彼の目が微かに光って視線があった。
「わたしが言うのも変だけど、高校生ってもっと子供だと思ってたんだけど」
なぁんだ、と云うように彼の視線が紅茶のカップに落ちた。
「子供ですよ。まだまだ」
「なるべく自分でいろいろやるようにはしてますけど、経験がないことはどうしようもないし、その分は知識で補うしかないでしょう」
「誉めてるの」「ありがとうって」
「普段誉められない人に誉められるのは悪い気はしないですけど、誉められたくてしてるわけじゃないから」
「そう。うん、それはわかる。そういう人じゃないよね。木南君は」
彼がにっこり笑った。
時間は止まったように流れていたけれど、現実はわたしに容赦がなかった。
「いくつかしたいことがあるの」
彼の反応を窺がう。
「お風呂に入りたい」
「髪を洗いたい」
「下着を替えたい」
最後は恥かしくて顔を合わせられなかった。
「いちばん差し迫っているのがトイレに行きたい」
逆に彼が困惑した。
「どうすればいいですか?」「連れていけばいい?」
わたしは馬鹿みたいに頷いた。
「一人でできます?」
「できるわよ」
軽い音を立てて扉が閉まった。トイレはけっこう広くて気にいっている。
左手に奥行き25cmほどの石のカウンターがあって、手洗い器が埋め込まれている。
その上には壁一面大きな鏡になっている。これは逆に掃除が大変。便器にはフル装備のウォシュレットがついて、便座も暖房が入る。
ただ、カウンターの隅っこに置かれた小さな花瓶の枯れた花が数ヶ月前から住人の資質を告発していた。
わたしは右手を小さなカウンターに突いて左足だけに体重を乗せてしゃがもうとした。
けれど、朝、トイレに入ったときの激痛を思い出して、どうしてもある一定の角度より腰を落せなかった。怖かったのだ。
困り果ててドアに向かって声を出した。
「ねぇ、いる?」
少しして返事が聞こえた。
「はい、いますよ」
「駄目みたい」
一瞬の躊躇があった。
「いいんですか、開けて」
ドアが細めに開いて空気が流れた。
「朝はできたんだけど」
「それで酷くなったんじゃないですか?」
「そうかもしれない」「でも、だって一人だったし…しょうがないじゃない」
わたしはすがるような目付きで彼を見上げた。
「どうすればいいんですか」
「座らせて」
彼の両腕が腋に差し込まれて正面から抱き合うような姿勢になった。わたしは左腕を彼の首に廻して彼にぶら下がった。そのまま彼がゆっくりと前傾してほとんど足に体重をかけずにわたしの身体が下がって便座にお尻が着地した。
「でも、先に脱がないとまずくないんですか?」
お尻が着いたときにわたしも悟った。この姿勢でズボンを下すことは不可能だった。
「もう一度」
彼がわたしの耳元で囁いて、今度は逆に身体を持ち上げられた。
抱き合ったままの姿勢で彼の唇がそっとわたしの右の頬に触れた。
「脱げます?」
わたしは力なく首を振った。
彼の手が下に伸びた。
「待って」
自分でも思いがけない言葉が口から出た。
「あなた、わたしのこと好き?」
「もちろん」
真っ直ぐ見詰められて思わず目を逸らした。
「だって、わたしのこと好きでもない人にこんなこと頼めないし、見られるのは絶対嫌」
注がれた視線が痛い。
「好きでもないのにのこのこやって来るような人間じゃないのは知っているでしょう?」
「どっちかっていうと、その、介護したり、同情したりって苦手だし」
「先生が望まないことは絶対しませんよ。見るなといえば見ないし、聞くなといえば聞きません。触るなといえば触らないし」
彼の手がズボンのゴムにかかって膝までパジャマが押し下げられた。すぐにショーツの両脇に指先が入れられて浮かすように引き下された。
わたしはあまりの恥かしさに身体が引きつって声も出せなかった。
「そんなに恥かしがられると俺の方がおかしくなりそうですよ」
親やかつての恋人にもさせたことがないようなことを、今、わたしの目の前にいる男は平然と当たり前のようにしていた。
再びお尻が着地すると彼はわたしを見ないようにドアから出ていった。パタンと扉が閉まって音が消えた。
ウォシュレットの操作盤は左側についていたので助かった。
壁をコツコツ叩くとレバーハンドルが回転して扉が細く開いた。
再び抱き上げられて立ち上がった。彼がさっきとは逆に下したものを持ち上げてくれた。肩を借りてトイレから出ると少し冷たい空気が頬に触れて流れていった。
突然目頭が熱くなって、目から涙が溢れて止まらなかった。動かなくなったわたしに彼が気づいた。
「ちょっと、ちょっと、泣かないで下さいよ」
「まるでおれがとんでもなく酷いことしているみたいじゃないですか」
わたしは《そうじゃない》と言おうとしたが言葉が出なかった。左腕を伸ばして彼の首筋を引き寄せた。正面から抱き上げられてわたしはその腕にすべてを預けた。
その腕に強く抱かれて、わたしは安心と彼の好意を痛いほど深く感じていた。
「あ、ごめんなさい」
我に返ったわたしはただ恥かしかった。
「忘れてね、今日のこと」
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食事の準備をしている夕暮れの部屋に電話が鳴った。
彼が立ち上がって、わたしの顔を窺がう。
頷いたわたしを見て取り上げた。
「せんせ、電話」「…大川センセ、かな?」
本体ごとずるずるとコードを引っ張ってわたしの手元に持って来てくれた。
受話器を置いたわたしを見て彼が戻って来た。
「ときどき掛かってくるの」「大川先生だけじゃなくて他にもね」
「びっくりしてませんでした? 男の声が出たから」
「弟が来てるからって断ったわ」
「食事のお誘い? もてますね」
「そう。で、その後飲みに行こうって」
彼の顔が少し暗くなったのを見て、つい遊び心が出てしまった。
「何回か奢ってもらったの、あと平野先生と石川先生も」
「一人で作って食べても美味しくないし、面倒だし」
「でも、みんな下心が見え見えで」
彼はむっとしてそっぽを向いている。
「余所で言っちゃ駄目よ」
「で?」
「それだけ」
わたしは目の前に並べられる料理を見ていた。
「でも、こんなに美味しいご飯が食べられるなら行かなくてもいいかなぁ」
「一応、同僚というか先輩というか上司だからね、断りにくいの。でも、警戒しちゃうから何食べてもちっとも美味しくないの」
「他の女の先生も一緒に誘ってくれればいいのに、角が立っちゃうのよね」
「あはは。その気持ちはわかる。男の先生のね」
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「明日は……誰か来る予定あります?」
「え? なに? 別にない」
「じゃあ、また来ても良いですか?」
「そうしてくれれば嬉しいけど。でも悪い…よね」
彼の目がわたしを咎めたように見えた。
「ちょっと、電話」
携帯を取り出した彼が指を三回動かして、背を向けた。
《あぁ、おれ》
《佐々川のとこにいるから。そう。そゆこと》
《よろしく》
「……」
「妹です」
「さて、髪洗います?」
「いいけど、時間かかるわよ」
「今夜は佐々川んとこに居るんで無制限です」
「あ、え? あ、そうか」
「よかったらの話ですけど」

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前傾にするか後傾にするか迷った末に、後傾の方が腰の負担が少なそうだった。椅子に載せられたままシャンプードレッサーに仰向けに頭を乗せた。
頭の上でシャワーの水音がして彼が湯温を調整していた。
顎を抱えられるように腕で押さえられた。
「いきますよぅ」
髪に湯がかかって水圧が頭皮を刺激した。
彼の手が櫛のように動いて満遍なく髪を濡らしていった。
気持ち良い。
シャンプーの香りがして頭が泡と共にうねるような波に包まれる。
何度も何度も指先が往復して蕩けるような陶酔感に目を閉じる。
泡が洗い流されるとリンスだ。頭皮を揉まれるようにマッサージされて夢見心地の心境に浸りきる。
そのままずっと続けてと思ったとき、無情にも蛇口からお湯が吹き出て再び髪が洗い流された。手先で絞るように水を切られると、タオルをあてがわれたまま身体が起こされた。
彼の腕の先が真上を向いていた胸の先端に当たって、気づかれないようにわたしは微かに呻いた。
パジャマが濡れないようにタオルで髪の水分を拭き取られて、すぐさまドライヤーが当てられた。こんなに大事に髪を洗われたのは初めてだった。髪を梳くように暖かい空気を送り込まれてわたしは目を開けていられない。
額の生え際から襟足まで、耳を指で挟まれて身を任せるように、彼にすべてを委ねた。
唐突にドライヤーの音が途絶えて、耳元で声が聞こえた。
「先生、すっぴんでもめちゃくちゃきれいですね」
濡れたタオルを彼が再び湯に浸して硬く絞った。
わたしはとろんとして暖かな幸福感を味わっていた。
「お風呂は暖めるとまずいから明日にしましょう。今日はこれで我慢してください」
タオルが目元に触れて頬を下り首筋に当てられた。わたしは何もしたくなかった。
拭われた首筋から気化熱が放出されてさっぱりした快感が湧き上がってきた。胸元とパジャマから出ている肩を拭かれたときは、自分でパジャマを脱ぎ捨てたい心境だった。
「あの…」
嫌々ながら目を開けると、ちょっと幼い表情で困惑している彼の顔が目の前にあった。
「えっと、後は自分でやってください」
お湯ですすいだタオルを渡された。
「終わったら、その、呼んでください」
そう言い残して洗面室を出ていった彼が恨めしかった。
閉まったドアに悪態をつく。
「ねぇ! ちょっと!」
静まりかえった部屋。
「いないの?」
ようやく扉のレバーハンドルが廻った。
扉の隙間から細い影だけが部屋に入って来た。
「その、下着を替えたいの」
「……」
「寝室の箪笥のいちばん上の左」「どれでもいいわ」
戻って来た彼にパジャマのボタンを全部外して背中を見せた。
肩の青痣はだいぶ引いてきたそうだ。朝に比べて痛みも引いた。
「手が届かないから拭いて」
背中にタオルが押し当てられると再び目が閉じてしまった。
「あの…下着」
彼から手渡されるとさすがに恥かしい。
「だって、湿布を替えるとき見られるから汚れた下着じゃ羞ずかしい」
「それはそこの籠に入れて」「見ちゃ駄目よ」
彼が不思議な顔をして振り返った。
「え? あぁ。はい」
彼が手にしたショーツを両手で広げて内側を覗きこんだ。
頭にかっと血が上った。
「ちょっと、やめて、もう」
彼は手を振り回して奪い返そうとするわたしの手の届かないところにさっと後ずさりした。
「ひどい」
恥かしさに翻弄されてすっかり形勢が逆転してしまった。
*************************
「白が多いんですね」
「あぁ、白いスカートとかのときは白じゃないと色が透けて見えちゃうでしょ。ほんとはベージュとかのほうが透けないんだけど、なんかちょっと苦手なの」
「あ、そっか」
「あげよっか?」
彼が目を白黒させている。
「あげないよ〜」
彼が怒ってそっぽを向いた。
ベッドの上で身体をずらして場所を空けた。
「ここに寝る?」
大胆かなと思ったけれど、わたしは子供のように浮かれていた。
「狭いですね。一人45cmですか」「下で寝ます」
なんだ、つまらない。
クローゼットから一つしかない客用布団を出してもらって、ベッドの脇に並んで敷いてもらった。
布団の上で胡座をかいた彼と向き合うと、わたしたちは今更ながらお互いに照れてしまう。
「まいったな、夢に見そうですよ」
「このまま一生面倒見てもらおうかな」
軽口が口をついて出た。
電灯が消えても、一日中何もしていないのだから体はまったく疲れていない。ちっとも眠くない。身体を動かせば腰が悲鳴を上げたけれど、その他はいたって健康で元気なのだ。
目が慣れるとカーテン越しの窓の雪明りが部屋を薄白く染め上げていた。
「ねぇ、花見ってなに?」「連れてってくれるの?」
わたしは昨日渡された紙を思い出した。
「えぇ、もし、その、よかったら」
「いつ?」
「連休前かな。土曜か日曜」
「いいわよ。連れてって」「楽しみにしてる」
「よかった。断られると思ってました」
「どうして?」
「さぁ、なんとなく」
「トイレとか行きたくなったら、夜中でも起こしてください」
「うん」
「ねぇ、もう寝ちゃった?」
左手をベッドの縁から落すと指先が彼の腕に触れた。
そっと手先に向かって手を這わせる。
指と指が絡んだ。
ほんの僅かな接触面積から伝わるもの。
力を込めると僅かの遅れで反応が返る。
その反応が段々遠くなる。まったく、なんていう男だろう。
わたしが眠れないのにどうして平然と眠れるの!
右手がショーツのゴムをくぐった。
神経を指先に集中すると躰の中心が脈を持って疼いていた。
こんなすぐ隣りでしたらばれないわけはないと思いつつも、大丈夫、いつもみたいにはしないから、ちょっとだけ、触るだけならばれない、と自分に言い聞かせていた。
指を沈めると溢れた液体が指先にまとわりついた。
お風呂に入っていないから臭いだけがちょっと心配だった。
そっと擦るようにすると快感が背筋に伝わって躰が溶け始めた。
頭にトイレでの光景が妄想を加えて再現された。
彼に抱きかかえられ、下着を脱がされる。跨った便器で大きく足を広げられて下半身が剥き出しになる。そこで止まらずに彼の長い指先が陰毛に潜り込んで、襞を割られる。指で左右に大きく広げられたとき、我慢できないおしっこが溢れて彼の指を濡らした。
わたしのおしっこをじっと眺める彼。指で広げてどこからおしっこが出るのか観察されているわたし。襞を広げられたままもう片方の手で内側を撫でられる。関係のないいちばん上の突起を剥き出しにされて指先でとんとんと軽く叩かれる。手の平におしっこを受け止められて湯気が立っている。凄い勢いで便器に当たるおしっこの音と立ち昇る臭い。羞ずかしくて止めようとするけど止められない。右手で彼の鼻を摘んで、慌てて音を消そうと左手をウォシュレットのスイッチにやろうとするけれど、腕を掴まれて身動きできない。
絶望的なまでの羞ずかしさに躰の中心がきゅんと音を立てて顔をそむけた。
わたしはほの暗い安寧の海にするりするりと滑るように漕ぎ出した。
『ルーフガーデン−3』(続く)