ルーフガーデン 4

明るさとザッザッという規則的に聞こえる音で目が醒めた。
カーテンが半分開いて外の光が眩しかった。音はその外から聞こえていた。
身体をそっと動かすと思ったより軽く腰が廻った。ゆっくりと肘に力を入れて起き上がると、ルーフテラスにいた彼が気づいたらしい。
ほんの数センチ開いていた窓が開いて彼が顔を出した。
「おはよぅです、大丈夫ですか?」
「うん、おはよう。だいぶ良くなったみたい」
「ちょっと、待っててくださいね」
顔が引っ込んで、リビングから廻って彼が寝室に入って来た。
布団は既に部屋の隅に畳まれていた。
「何してるの?」
「天気良いから雪かき」
「けっこう、積もってる?」
「う〜ん、20cmくらいかな」「排水溝に積んでありますから」
「スコップないからチリトリ使いましたよ」
「あ、うん」
「腰はどうですか?」
「ありがとう、何とかなりそうな気がしてきた」
目の前に座っている彼と目が合った。

「全然、眠れなくて困っちゃいました」
彼がわたしの右手を取って、指先の匂いを嗅いだ。何をしているのか意味がわからなくてわたしは困惑した。
「え? 何?」「何でそんなことするの?」
寝惚けていたのかもしれない。自分の鼻先に指を近づけてようやく意味がわかった。
羞恥が爆発した。きゃぁきゃぁ騒いで、わたしは毛布を引き寄せて頭から被った。

まったく、何を手玉に取られているのだろう。
わたしの方が八つも年上だし、おまけに現役の教師と生徒なのだ。
どうも、彼と居ると調子が狂う。普段、張り巡らしているはずの体面と常識がことごとく、なし崩しにされてしまう。
ストレートなのか屈折しているのか、出方が読めないと思った。

「お風呂入る」
消え入りそうな声で彼に告げた。
歩けそうな気はしたが、こうなりゃとことん甘えてやれと開き直った。
洗面室まで運んでもらって、タオルと着替えを持って来てもらう。
「なんかあったら、その、呼んで下さい」
でも、昨日とまったく同じように、洗面室から出て行こうとする彼を見て、なんだか本当に申し訳ない気持ちが込み上げてきた。

「待って」
「あの、さっきのこと誰にも言わないでね」
「そんなこと人に知られたら、恥かしくて生きていけない」
「え? あ、言うわけないですよ。信用ないなぁ」
振り返った彼にぽんぽんと頭を撫でられてわたしはようやく安心した。

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「もう、来年のクラスは決まってるんですか?」
「まだ。来週。あなたたちが春休みに入ってからよ」「大枠はそんなに変わらないと思うけど」
「先生はみんな持ち上がりでしょ」「おれ、先生のクラスだといいなぁ」
一瞬迷ったが、どうせ再来週にはわかることだ。勿体ぶることもないだろう。
「今のクラスで理系志望はそのままだと思う」「よっぽどのことがない限り」
「よっぽどのことって?」
「あなたが休み中にトラブルを起こしたり、二人の仲が教師と生徒を越えているとか噂が立たない限りは、ってこと」
「へ〜、じゃぁ、もう決まりだ」
わたしは彼の笑顔が見れて嬉しかった。

「女の子はやっぱり少ないですか? 5、6人?」
「そう、そんなもん」
「あけみと西田、あとは前野に北に石田の薬学部組かな」
「よく知ってるわね」
「やっぱ、男だけってのは極めて味気ないですよ」
「うん、それはちょっと嫌よね。わたしも」

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ゆっくりと時間が流れていた。窓から見える空はすっきりと晴れあがって、差し込む光が明るかった。
「本棚見てもいいですか?」
「あ、うん。どうぞ」
リビングの壁際に並べられた本棚を彼が端から眺めていた。別にたいしたものはない。学生の頃に買った数学書に、教員になってから必要に迫られた数学教育の本。あとは教科書や問題集などのサンプル、指導要領や研修の資料関係がほとんどだ。あとはお決まりの小説本に漫画、料理に服や小物のデザイン雑誌に旅行ガイドの類と平凡かつ恥かしい限りだ。
右端まで来て、彼が本棚から引っ張り出したのはA4くらいの外形だった。
黒表紙に製本されたのがチラッと見えた。大学卒業時の卒論だ。
開いたページから音を立てて何かが床に落ちた。

「お、若い」
「え? ちょっと。何見てるの」
彼の目が一気に険しくなった。
あぁ、そこに挟んでいたこと自体をすっかり忘れていた。
封筒に入れた昔の写真を挟んでおいたのだ。どうでもいいような写真ばかりのはずだが、昔の彼と一緒に写っているものもあるはずだ。
「今もきれいだけど、昔もきれいだったんですね」
彼が写真を手にとって眺めていた。
隠したところで何の意味もない。敢えて止めることもなかった。既にわたしの中では終わってしまったことだから。

「先生は理学部? 数学科?」
「そう、一応」
「う〜ん、読んでも前書きしかわからん」
「あと3、4年すれば嫌でもわかるわよ」

「なんで一応なんですか」
「ん〜、才能ないのよ。はっきりわかった。」「で、さっさと逃げたわけね、教職に」

「頭の構造が違うのね」「思考のセンスみたいなものが根本的に違うっていうか」
「それこそ自分ではどうにもならないことで、それを思い知らされたときは悲しかった」
「ほら、例えば凄い絵を描く人がいるじゃない。で、練習すれば自分も多少は上手くなって近づける部分もあるけれど、根本的な素養が違うというか、どうあがいても真似の出来ないものに近いの」
「論理の究極は結局、感性なの」

「彼氏は同じ学科?」
「んん、全然別。法学部」
「なんで別れちゃったんですか? って別にいいんですけど」
「ん? 大した話じゃない。卒業して彼は東京で就職して、わたしはこっちで教員になったから。お互い忙しくて、自分のことに精一杯で、だんだん疎遠になって面倒になったのかな」
「卒業して一年くらいかな。連絡もないし連絡もしなくなった。それだけ」
「その写真、就職して最初のゴールデンウィーク、弘前に行ったの。桜がきれいでね」
「でも、それっきり。昔の話」
彼はその写真を瞬きもせずに食い入るように見詰めていた。
そして言った。
「めちゃくちゃ悔しいです」
「おれも先生をこんな顔にさせられるようになりたいですよ」
元通りに封筒に丁寧に写真が仕舞われた。

挿絵4

『構想』

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「あなたはどうするの?」
「う〜ん、他の人みたいにどうも先が読めなくて」
彼は取り敢えず“そこ”と言わんばかりに、窓から西を指差した。
「学部は?」
「せいぜい工学部。だけど、ま、厳しいでしょう、今年は」
「まだ一年あるわよ」
「う〜ん、そうだけど、それは他の人にも同じように一年あるわけで」
「資格試験じゃなくて競争試験だから、相対的に勝ち続けるのは今一つ自信がないです」
「あなたがそう思うのはわかるけど、割り切らないと駄目よ」
「菊川さんにいろいろ教えてるのも知ってるけど。自分のことも考えなさい」
「あはは。けっこう見てますねぇ。さすが」
「彼女、応援したくなっちゃうのはわかる。今どき珍しい子よね」
「えぇ。でもおれも勉強になるし」「本当は、前に夕実、久野さんに教えられたんですよ」
「いろいろ。彼女は本当に和歌とか漢詩とか好きで、学校の勉強とは全然別の次元で生きてるんですよね」「いろいろ、話を聞くうちにその本質みたいなものがおぼろげに見えて来て、感激しちゃって。先生もそうだけど、やっぱり知ってるってことと分かってるってことは全然違ってて、おれもそうなりたいなぁとは思うんだけど、なんかまだまだレベルが違う」「だから、数少ない分かってるレベルのことをあけみちゃんに伝えられるなら、それはそれでおれとして凄く嬉しいんですね」

そう言われてしまうと、わたしだって何も言えなくなってしまう。分かることの喜びを知っているならば、教師として教えられるのは本当に単なる知識でしかない。彼のようなタイプが必ずしも現代のこの国の社会で有効に機能するかは疑問だが、同じ感動を味わえる人間として旧知の間柄のような懐かしさすら感じてしまう。久野については、少なくとも数学に関しては欠点がなさ過ぎで、そこまで理解してやれたかどうか自信がないが、同じものを持っていることぐらいは分かっているつもりだった。
そして何よりも、こういう生徒たちと出会えることが教師として本望だった。

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「家の人、何も言わないの?」
外泊させたことが微妙に罪悪感としてしこりになっていた。
「あぁ、なんかあってないような感じだし…」
「べつにその、人と比べるものでもないし…」
「お父さん、裁判所なんでしょ? 高裁? あなたが去年書いた書類には公務員ってあったけど」
「おや、詳しいですね」
「親父は別に判事じゃないですよ。事務、調査官っていうのかな」
「検察や弁護側の証拠の確認とか精査、場合によっては直接捜査みたいのもあるみたいですけど」
「管内がこの地方全部だからしょっちゅう出張で、いるんだかいないんだか」
「あら、お母さんはいるんでしょ?」
「ええ、まぁ、そうだけど…」
「母は5年くらい前からかな、その……文筆業なんですよ」「知ってます? 木波遙って」
「うそっ、本当?」「知ってるわよ、よく本出してるじゃない」
「へ〜、そうなんだ」
「一応、誰にも言うなってことになっているんで」
「あら、そう。うん、それは大丈夫」「守秘義務は心得てる、一応、公務員だし」
「でも、みんな実態を知らないからなぁ」「締め切り前はもう大変ですよ、荒れちゃって」
「最初は順調だったみたいですけど、最近はいろいろあるみたいで……」
「月の半分は飯作んないし、家事やらないし、全部うっちゃりモードだから全部しわ寄せが俺と妹に来るんですよ」
「挙句の果てには、書いて! なんでもいいから! 作文よこせ! だから」
「妹なんか日記を読まれて、ネタにされて逆上してましたよ」
「それが駄目だと今度は泣き落とし」「お願い、寛、お母さん、何でもするから、今度だけで良いから書いて、とかって涙ぽろぽろ流すんですよ」
「そんなこと、親父に言えって〜の」
「で、挙句の果てには、《もう、止めよう。才能ないわ。やっぱり》とかぶつぶつ言って、特上寿司とか出前とって食ってるんですよ、それも自分一人で三人前とか。もう、たまらん」

わたしがけらけら笑ってしまったのを見て、彼も苦笑していた。
「あら、でも、仕事を仕事として続けていくのは大変なんだから、そこはわかってあげなくちゃ」
「う〜ん、確かにバイトなんか嫌になったら替えればいいし、止めてもいいし。そういうレベルとは違うのはそうでしょうね」

「偉そうに言うつもりは全然ないけど……」
「あなたたちはもうすぐ休みだけど、わたしたちは一年でいちばん忙しいの。異動になる人は特にね」
「ていうか、相手している暇がないから休みなの」
「あ、そっか」
「まぁ、うちのような学校はつまらないことに気を廻さなくていいけれど、その分結果が問われるから、それはそれで大変なの」
「ん? つまり変に非行に走ったりとか犯罪沙汰の心配はしなくてすむけれど、教えることはきちんと教えないといけないし、実力テストや補習もけっこう負担なのよ」
「あぁ、夏休みとか半分くらい補習やってますもんね」
「そう、問題作るのだって片手間に出来ないんだぞ」「ちゃんと努力して解答してくれないと悲しくなるよ」
彼の顔が真面目になった。
「でも、いろいろ県の研修とかで他の学校の先生に聞く話に比べると恵まれてるかな」
「へぇ、どういう?」
「どことは言わないけれど、警察沙汰が絶えないところとか、女の先生なんか身の危険を感じるんだって」
「ふ〜ん」
「うちも一応、信用してないわけじゃないけれど、行事のときなんか女の先生が一人にならないような配置はとってるの」「トラブルはお互いに困るからね」
「へ〜ぇ」
「外で喋っちゃ駄目よ。微妙な話なんだから」

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「妹さんいくつ?」
「えっと今度、中三」
「あら、じゃあ受験?」
「そう、おれとぴったり三年違いだから」
「あら、いいわね、可愛いでしょ」
「先生は?」
「あたしは弟が一人。めちゃくちゃ憎たらしいわよ」

結局、一日中彼に甘えた。
三食作ってもらって、トイレに連れて行ってもらい、最後には昨日のように髪も洗ってもらった。
最後の湿布を張り替えてもらいながら、わたしはこの数日を反芻していた。
恥かしいやら、嬉しいやら、暖かいやら、ふわっと軽くなるような、長い間忘れていたような感情に浸かっていた。

「このこと誰にも、その……、言わないでね」「めんどくさいから」
「えぇ。大丈夫。安心してください」
そこまで馬鹿じゃないですよ、といわんばかりの顔で彼が見下ろしていた。
「お礼しなくちゃいけないね」
「お礼してもらおうと思ってしてるわけじゃないから」
さっぱりしている彼が今のわたしにはとてもありがたかった。
冷たく殺風景な廊下を歩いていく彼が一度だけ振り返った。手を振られて、思わず10年ほど若返って少女のように手を振り返している自分に気づいたとき、一体何をしているんだろうという思いと恥かしさが同時に込み上げてきた。

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月曜日、速く歩けないから普段より30分ほど早く家を出た。
ゆっくりと歩き出す。
エントランスを出ると朝日が眩しい。

顔が庇の影になると、正面の植え込みの縁石に寄り掛かった制服が見えた。
彼だった。

「いつから待ってたの?」
「今来たばかり」
うそ、と思ったけれど何も言えなかった。
「おはようございます」
ふざけたように頭を下げられて可笑しくなった。
「おはよう」「もう大丈夫よ」
「電車混んでるし、防波堤ぐらいにはなれますよ」
わたしは言葉が続かなかった。

『ルーフガーデン−4』(続く)


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