『虚空蔵淵往還(前編)』

「薄情者!」
「そりゃずいぶんと古風な言いまわしだな」
「自分だって悟りきった坊さんのような口ばかり利くくせに」
そういって拗ねてみせると、いきなり私の手を取り目の高さまで持ち上げて、本当に悟りきった坊さんの顔になって言った。
「では待ちますか、水が引くまで」「お嬢さん」

先ほど渡って来たときは気づかなかったが、どうやら干潮で干上がっていたということらしい。幅が200mほどの河口だが今は水深50cmほどで満ちているのか、滞留してるのか、所々の中州を除いて一面を水が覆っていた。目を凝らせば上流3kmほどのところに橋が見えるが、そこを渡るためには往復で6kmも歩かなくてはならない。
今のうちなら渡れるだろうと急いで戻ろうとしたのだが流れを見て嫌気が差したのだろう。《急がなくてもいいじゃない》と言い出した。一人だけ近道をして楽をするのが許せないらしい。ここまで満ちるのに3時間かかっているのだから、どう考えてもあと数時間は足止めを食うことになるはずだった。

自分一人だけさっさと渡ろうとするのだ。
渡って来たのは午前中だけれど、気持ちのよい場所だし静かだし人気も無いし、もっとゆっくりしていきたかっただけなのに。
何から話してよいか自分でも整理がつかなくて、お互いにほとんど内容のある話しができていなかった。2年近くに渡って溜め込んできたものが、溢れそうになっては持ちこたえるような微妙な感覚を楽しんですらいたかもしれない。
 
だって、彼は今わたしのすぐ手の届くところにいるのだ。
 
潅木を揺するざわざわとした音を背景に呆けた時間が緩慢に流れていった。北向きの影になった砂の斜面に足を突っ込んで冷やっこい感触を楽しむ。すぐ隣でサンダルを投げ出して座っている彼の剥き出しの肩の筋肉が冷たくて気持ち良さそうだった。せっかくだからおでこをくっつけてやった。
「熱いなぁ」と振り返った目がビールが飲みたいねと言っている。車を走らせて来る途中も道沿いに洗濯物を干すようにはためいているイカの一夜干を見ながら、どこで冷酒を手に入れようか考えていたに違いない。

「川止めだっけ、川が渡れなくて足止めなんて江戸時代みたいだねぇ」
「これぐらい江戸時代なら子供だって渡っただろ」
露骨に面倒臭そうな答えが返ってくる。
「着物は裾長いから捲り上げるのも大変だっただろうね」
ん? それは暗にスカート短いんだから歩いて渡ったところで問題無いだろってことかな。癪に障ったので、ちょっと大胆かもしれないと思ったがつい言ってしまった。
「じゃぁ、川人足みたいに背中に背負ってもらおうかな」

挿絵1

『虚空蔵淵往還(前編)』

河口は名前があるのか無いのかはっきりしない河川の堆積物のせいで、すっかり浅瀬になってしまっていたのだが、中ほどに幅10mほどの淵があってそこだけはいつも深い青緑色の水をたたえていた。亀裂の周囲はどうやら大きな岩盤で滑らかな石の河床が続いていた。長さも30mほどなので迂回するのにたいした手間はかからないのだが、虚空蔵淵という名前だけは高校の頃誰かに聞いて知っていた。きっと虚空蔵菩薩でも出るのだろうぐらいに思っていた。

淵まで背負っていってポイって放り出してやるのも一興か。一瞬考えたが暑くて思考が続かない。頭の後ろで手を組んで、砂の上にごろんと仰向けになって空を見上げる。まだ7月の頭だというのに強烈な日差しのコントラストで目が眩む。普段なら梅雨の真っ最中のはずなのに今年はこの地方も雨が少なかった。
ぬるくなったペットボトルを回し飲みしながら、目だけを横に向けて彼女を眺める。風にあおられてスカートが太腿まで捲れ上がっているけれど気がつかないようだ。記憶の底に埋もれていた感触が甦る。伸びやかな白い肌に直射日光があたって眩しかった。
「きゃっ」
と声が聞こえて彼女がこちらを振り向く。振り向く前に目は閉じている。
「見えた?」
躊躇無くもちろん答えは
「何が?」

「手引きだけとか肩車もありますぜ、お嬢さん」
再び引き始めた潮を見ながら提案してみた。
「肩車なんてできるかなぁ」「重いよ」
と人を小馬鹿にする。
「練習しようか」「こけたら危ないからさ」

確かに子供じゃないんだから首の力だけで支えられるかどうか自信はない。肩に乗ってしまえば、なんとかなりそうな気はした。彼女の腕を引っ張りあげて立たせて背後に回る。
「こけるときは前にこけろよ」
「うそ、うそ」「冗談だってば」
砂を蹴散らして逃げ回った。

どこまで本気でいったのかわからないけれど、結局、背負うことになったのだ。ところが勢いつけて飛び乗っても、腕の力が無いせいか下半身が重いせいか、ずるずるとずり落ちてくる。おかげで目いっぱい体重がかかって腕で持ち上げていなければならなかった。
「さあ、いこかぁ」
水に入って足で流れを漕いでいく。少しづつ首に廻された腕に力が入ってしがみつくので、時々、前傾して上に持ち上げてやるのだが、右だ左だとはしゃいで気にする気配もみせない。
「ねぇ、ねぇ、胸の膨らみとかさ、恥骨とか感じない〜?」
「背中ってのは意外と鈍感なんだよなぁ」
「ふんだ、どうせ胸ないし」
間にはお互いの服が挟まっているのだ。背中に神経を集中したところで、まぁ、そう言われればそうかもなと思うぐらいのものだ。騒ぐ割にはずいぶんと達者な口だなと思ったが敢えて口には出さなかった。

「夏になったら泳ぎに来ようよ」
「盆明けのほうがいいって」「日が暮れれば涼しいし」
「うん、それいいね」「それでいこう」
「クーラー持って来ないと、喉乾いて死ぬよ」
「大丈夫、大丈夫。家にあるの持ってくるから」
「どっちみち夏になっても見事に何も無いよ」「シャワーも無いし着替えるところも無いよ」
「大丈夫、大丈夫。その方がいいじゃん」
「普通、え〜っとかって言うんじゃないか?」
「そうなの?」
首に廻された腕の力が一瞬強くなった。

「ずいぶん昔に一度だけ泳ぎに行ったことがあったね」「憶えてる?」
「あぁ、なんか、昔のスクール水着みたいだったな」
「しょうがないじゃん」「持ってなかったんだから」
「誰かに買ってもらったか?」
「そんな人いないもん」「買いに行かなきゃね」
「一緒にいったろか?」
「うんうん、行こう行こう」「いつ?」

中州伝いに進んで行くとあっという間に淵が近づく。水深は深いところでもせいぜい30cmほどか。流れはほとんどなくて滞留しているも同然だ。
「おんぶしてもらうなんて、まるで、お父さんみたいだな」
「お父さんじゃないから危ないぞ」
「えっ、何が危ないの?」「ねぇねぇ」
うっかりかまうとはしゃいで余計面倒だ。
ちょうど淵の周囲の白い岩盤に足がかかったとき、流れを感じなくなり完全な静止状態で見渡す限りの鏡のような水面が広がっていた。
「すごいね」
示し合わせたように風音まで止んで動くものの無い無音の世界で背中の吐息だけに耳が反応した。

「なんで虚空蔵淵って云うの」
「出るんだろう」
「何が?」
「虚空蔵菩薩だろう」
「菩薩が出たらめでたいんじゃないの」
「ん? そりゃそうだな」

そうだ。それじゃあ確かにおかしい。祟りじゃないのだ。
どっかで聞いた話しだなと記憶の片隅をほじくる。虚空蔵菩薩は阿弥陀如来の脇侍で智慧を授ける仏のはずだ。しょっちゅう死人が出る危ない淵がある川を、どこかの僧が渡っているときに流れに呑まれてその淵に引き込まれてしまい、びっくりして持っていた虚空蔵菩薩の像を手放してしまったら浅瀬に押し流されて助かったという話だったか。うろ覚えだけれど。虚空蔵菩薩の像はそのまま呑み込まれてしまって二度と出てこなかったそうだ。で、それ以来死人が出なくなって、それはその淵で虚空蔵菩薩様が見守っているからだろうということだったかな。その虚空蔵菩薩が鎮座している淵だから虚空蔵淵という名前がついたというわけだろう。嘘か本当か知らないが憶えているままを話した。

透明な水に覆われた白い岩盤の先に10mほどの幅で深い青緑の亀裂が見えた。
「きれいだけど、きれい過ぎてちょっと怖いね」

(つづく;2003/08/28改訂)


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