峠の小さなパーキングスペースに車を入れて、久々の背伸びをするために車外に出る。反対側のドアも開いて耀子も体を伸ばしている。その間も胸の高さぐらいのところをガスが通りぬけていく。時折背の高い塊がやってきて辺りを覆い尽くす。足元さえろくに見えないので車伝いに反対側に周るとガスの上に首だけ出した燿子がいた。二人してお互いの姿を笑っていると一際巨大な塊がやってきて二人を飲み込む。彼女が闇雲に降りまわした手が腕に当たった。「見えないよ〜」 と腕を掴まれてしまった。
「なんか目を瞑って泳いでいるようだね」「冷やっこいし」
「湿度100%だからホントに濡れるよ」 と答えたときに、雲の切れ目から断末魔の夕日が一筋覗いた。上空の紫色の雲は恐ろしい勢いで流れている。光が当たっている部分の山の稜線の影はそこだけ紛い物のように曖昧な世界から浮き上がっていた。瞬間的な突風以外は風もおさまったようですっかり無音の静寂が無声映画のように周囲を圧倒していた。
「隆クンの恋人だったら良かったのになぁ」
ん? 答えろというのかなと横目で伺うとそういうわけではないらしい。
「そうならキスとかしてもおかしくないじゃない」
「そだねぇ」
「ねぇねぇ、完璧にそういうシチュエーションだと思わない?」
と、上目遣いに覗きこむ。
「圧倒的な光景を前にする二人ってとこだねぇ。絵にするといいだろうなぁ」
見下ろしている雲がぼうっと発光している。街の灯が雲で反射しているのだろう。雲は高速に流されているので、一筋の亀裂があっという間に拡大する。みるみるうちに漆黒の闇とその闇を囲うように弧を描いて小さな光の粒が現れた。
「あれが湖?」
「そう」
湖の向う側でドライアイスが昇華するように雲が蠢く。その底から光の洪水が現れた。宝石をぶちまけたような光の粒の集積が耀子の瞳に正確に反映していた。
「あそこが隆クンの生まれた街?」
「うん、そうだね」
腕にこめられた力がほんの僅かに震えた。3分間も瞬きをしないで夜景を眺めた眼を彼女に戻すと、あふれ出た涙が頬を美しい直線となって伝っていた。
「ありゃりゃ、どうしたの?」
放心したように瞳が動かないのでそっと指で頬の涙をすくってやると、ようやく状況を理解したらしい。「夜景がさ・・・昔のことを思い出しちゃって」とぽつりと言った。
「どこの夜景がいちばん綺麗か知っている?」 と聞くので一瞬考えた。
「有名なのは函館とか神戸か香港か・・・実際に観たことは無いけどさ」
「飛行機から見た京都とか、これは見たんだけど」、「あと、関越で東京に向かうときの水上辺りから見た関東平野の光の海 ってのはどう?」
「うん、あれは凄いよね」「うんうん、そうじゃなくてね、中学の頃かな、親と一緒に弥彦に行ったの」「弥彦山って知ってるかな?」
「あぁ、寺泊の」
「そうそう、寺泊とか行って、弥彦神社を見てさ、その後、山に登ったわけ」
「車でね」「頂上はお決まりの観光地ってやつで、つまらない遊園地まであってさ」
「で、レストハウスみたいなとこでうどん食べたりしてさぁ」
「夕日の頃にちょうど展望台に登ったのよ」
「秋だったから空気が澄んでいたのかもしれないけど」
「新潟平野の縁に新潟の街がちょこんて乗っかっていてさ、ぱっくりと半分が日本海で、佐渡があって、黄金色の平野に新潟市の灯りがごちゃごちゃって固まっているの」
「ものすごいパノラマなんだけど、もう手を伸ばすと届きそうでさ」
「ガラスの塊に閉じ込められたミニチュアにしか見えないの」
「でもあの灯りの下にはご飯食べてる人や仕事している人がものすごくたくさんいてさ」
「私も普段はそういう中でちまちま蟻みたいに生きているんだと思ったら、涙が止まらなくってさ」
「楽しいことも、つまらないことも、嫌なことも蟻の悩みなのかと・・・」
「でも本人は必死なんだよってさ」
後になって思うには、耀子が時折見せる諦めと紙一重の潔さみたいなものはそういった経験に依っているのかもしれない。いつも一歩引いて全体を見回しているような安定感を持ちながら、感情の深い部分を平気で突き詰めていけるという相反する魅力。自分を見失わない力がありながら、欲したことに自ら狂い、狂うことを厭わない。そんな感情を臆面もなく表して、かつ魅せることができる性質がとても気持ち良かったのだ。
結局その夜、二人が食事にありつくことができたのは、なんだかんだと面倒な説明をしなければいけなかったこともあって、9時を回った時刻になってしまった。