「怒ったァ?」
耀子が胸に頭突きをくらわせた。そのまま額を押し付けているので、泣いちゃったかと思って慌てて顔を覗きこむと少しあかくなっているらしい。
「怒ってないけどさぁ、恥ずかしいじゃない」「他の人だったら張り倒すか、悲鳴あげてるよ、もう」
ゆっくりと持ち上げた額に髪がぺったり貼りついていたので、そっと両側に流してやった。
「もう、よく見てるよねぇ」「いつもそんなとこばっかり見てるわけ?」
「そうでもないよ」「偶然だって」
大きな黒目が少し光った気がした。
「しかし、まぁ、ダブダブだな」「Tシャツが歩いてるみたいだ」
「肩がおっこちゃいそうだよ」「男ものって巨大だよねぇ」「隆クン、そんなにがっちりってわけでもないのにね」

途中のATMで資金調達して駅のある中心街を目指す。取り敢えずいちばん近い大型店に行ってみることにした。こんな田舎町にも大資本が押し寄せてきているのだ。しばらく見ないあいだにすっかり趣の変わった商店街を抜けていく。「ブラジャーはよくわかんないけど、パンツぐらいなら選んであげるゾ」と囁くと「じゃあ、ブラ買ってる間に買っておいて」と切り返されてしまった。意外に立ち直りが早いのだ。なんだつまらないと思いつつもせっかくの機会だからいくつか選んであげた。耀子は「紐は不安だよ」とか「こんなの恥ずかしくて洗濯できないよ」と首を振っていたけれど、結局「ありがとう」と一言消え入るような声で言ってレジに向かっていった。予想もしない展開だったので正直ちょっと心配になって、戻ってきた耀子に「ちょっと強引過ぎたかな」と言うと、
「私が好きな色ばかりだから・・・」「選んでくれてありがとう」
とまた下を向かれてしまった。

「えっと、苛めてるつもりは全然ないからね」
「わかってるよ」
「母が買ってきたのは別として、人に選んでもらったなんて初めてだから」
「なんか、こう、照れちゃうよね」

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Lontano profondo 3-1 『峠のむこう 5』

結局昨夜の状況説明は、耀子がしばらく逗留することに関して「そちらが良ければうちはかまわない、ただしお家の方にはきちんと了解を取ってくださいね」という見解に落ち着いていたので、あせって帰る必要はなくなった。帰ったところで誰もいない大学の街で一人過ごすというのも気乗りしないことだ。特に一人で食事をする侘しさには何年経っても耐えがたいものがある。何日滞在するかわからないけれど、着替えの服も少し買いたいというので勝手のわからない売り場を右往左往する。どうせ買うならせっかくの機会だから決めてあげようと、ミニスカートと袖なしサマーセータにサマードレスみたいなワンピースを選んでみた。着せ替え人形の楽しさはこれを指すのだろうか。耀子に似合うものを選ぶのがこんなに楽しいものだとは思いもしなかった。耀子は自分ではどういう服が似合うのか実際よくわからないらしいが、普段見ている限りは颯爽としているのだ。最初、「似合うかな」と自信なさそうに唸っていた耀子も、結局、「絶対似合うって」と太鼓判を押して店を出ると、ちょっと安心したように見えた。

「なんか、香織に申し訳ないよねぇ」
耀子の顔が少し曇った。
「まぁ、成り行きだから」ぐらいしか返す言葉がなかったけれど、どこかで今の状況を楽しんでいる自分がいることもまぎれもない事実だった。そして、そのこと自体には既にずいぶん前から気づいていたのだ。

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日が傾いて気温が落ちてきたのでだいぶしのぎやすくはなってきたけれど、けっこう歩いたので汗もかいたし、空腹も感じていた。門から庭へ回ろうとしていたところ、勝手口が開いて母が顔を出した。
「鮎を戴いたのだけど、あなたたち食べるかしら」
「食べるよ」
「たくさんあるから、じゃあ、好きなだけ焼いて食べなさい」
耀子が「あっ、私やりますから」と一歩前に出た。
「あなたは気にしないでいいから」「そんなことは隆にやらせればいいから、あなたはお風呂をどうぞ」「暑かったでしょ」
と、母は笑っていたが、耀子は前にも進めないし後にも引けないと困った顔をしていた。
「ちょうどいいじゃない、ついでに着替えてきたら」
「でも……」
「ほれほれ、そんな緊張しないで」と腕を引っ張って連行した。
「お客さんなんだから気にしなくていいんだって」
「なんかあたし、迷い込んだ野良猫みたいだね」
「そのわりにはずいぶん毛並みの良い猫だな」「お背中でもお流しいたしましょうか、お嬢さん」
というと、耀子はまたうつむいてあかくなってしまった。真夏の宵の濃密な空気の中で、その様があまりにもストレートに伝わってきたせいか、どうにも抑制が効かず思わず耀子の頭を撫でてしまった。

(つづく)


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