「それは絵なのかな」
棚の最下段を耀子が覗きこんだ。まずいものを見つけられてしまった。見てもいい? と聞きながらも躊躇なく手は既にキャンバスを引っ張り出し始めていた。
「おまえ、意外に手が早いなぁ」
「ふ〜ん、アクリルやってたんだ。臭わないし」
「そう、金がなくてね」
「そうそう、カドミとかコバルトとか金属系は高いよね」
「おっ、これはこれは」「女の子ばっかりじゃない」
「同級生?」「ヌードはないの?」「あら、この子泣いてるじゃない」
「こらこら」「あんまり引っ張り出すなって」「しまうの大変なんだからさ」
「ねぇねぇ、泣いてる子をモデルにして描いたわけ?」
と絵を床に置いて身を乗り出してくる。
「まさか、それは写真から起こしたんだって」「ほとんど全部そうだったと思うけど」
「状況はよくわからないけれどさ、なんか冷徹過ぎない?」
「これだけきれいに描いてくれたら嬉しいだろうけど、泣いてるところがいちばんきれいだったから?」
「もう忘れたよ」と誤魔化して「時間があるから耀ちゃんも一つどう?」と話を逸らす。
「何をどう描くかで答えが出るってことなわけ?」
「そうそう、良い勘してるじゃない」
耀子は「う〜ん」と言いながら勢い良くクッションに寄りかかって、そのまま両手でキャンバスを持ち上げて下から見上げるようにじっと絵を観ていた。
「任せるけど、もしかして凄く恥ずかしいこと言ってるよね」
「難しく考え過ぎでないの?」

「ねぇねぇ、何て言って誘うわけ?」「君きれいだねとかって歯が浮くようなこと言うんでしょ」
耀子の目がきらきらと輝いて心なしか視線が据わっているような気がした。
「それとも、さっきみたいにいいお尻だねって言うの?」
「それはさっきが初めてだって」「きれいな足だね、くらいは言ったかなぁ」
「うわっ」「言われた子はどうするの?」
「えぇ〜、そんなことないよ、って言うんじゃないか? ふつうは」
「なんかみえみえだねぇ」
「ん?」

なんだか形勢が不利なので一発逆転だ。
「でも、耀ちゃんの足の方がずっときれいだね」「すべすべしてて頬擦りしたくなっちゃうね」
20cmくらいに顔を近づけて、目を見ながら言った。
耀子の唇が一瞬微かに動きかけて目を逸らした。急いでクッションで足を隠そうとする。
「せっかくきれいな足なんだから、隠さなくても良いのに」
「もっと近くでゆっくり見せてよ」
と言ったところでいきなり腕を掴まれて、ぶんぶんと振回された。
「もう、なんてこと言うの」「見たければ見てもいいけどさ、恥ずかしいってば」
顔を半分隠したクッションを抱いている耀子の足が少し見えた。
「ちょっとしか見えないよ?」と催促すると、また少しだけ範囲が広がった。そっと手を伸ばして腿をさすったら、クッションに顔を隠してしまった。膝から上にゆっくりと手を滑らして裾をくぐりそうになったとき掴まれていた腕に力が加わった。
「見てもいいけど、触るのはだめ」「そんなことされると水があふれちゃうよ」
「決壊したらやっぱり洪水になっちゃうかな?」
耀子は顔を全部クッションに埋めて「うん」と頷いた。

3

Lontano profondo 3-3 『峠のむこう 7』

「だいたいさぁ、いきなりやってきたりして 私、とんでもない女だって思われたよね」「家の人にもさ」と盛んに心配するので「とても堅実でしっかりした子じゃないの」と母に言われたことを教えてやった。
「鳥も美味しかったよ」
「それは作りたくて作ったからだって」「ルーチンワークに耐えられるかどうかはまた別じゃない」
母には「歩く人がみんな振り向きそうな子ね。あんたにしては人を見る目があるわね」と誉められちゃったぜというと「そんなことないって、全然そんなことないよ」と謙遜していた。全然、耀子はしっくりこないようだ。でも、たいていの場合、女性が自分で望んだり、女性同士で誉め合っているあるべき美しさはピントがずれているように思えるのだ。周りの人間が感じる魅力は多分本人がいちばんわかっていないのかもしれない。特に男から見ると実際その差は可笑しくなるほど大きい。
「まぁまぁ、おれの言うことは正確だぞ」
「一般論じゃなくてさ、あんまり良い表現じゃないけど」「耀子はいい女だし、魅力的過ぎて危ない」
「事実は事実として受け入れようね」「そのうちポイントも個別に教えてあげよう」
「もう、嬉しいけどさ、困っちゃうじゃない」「水位がどんどん上がっていくダムみたいだよ」
「それに長い目で見れば、ほんの一瞬だよ」と言いながら耀子はこっくりと頷いた。

朝方夢を見た。家にいる全身白毛のシロと言う猫が盛んに早く起きろとちょっかいを出しに来るのだ。犬じゃあるまいし。煩いよと寝返りを打つとそちら側に回って来てまたごねる。頭や背中を撫でてやるのだがいうことをきかない。引き寄せて頬擦りしているところで目が醒めた。最初に感じた違和感は臭いがしないこと。獣特有のちょっと生臭いような臭い。次に肌触りに毛の触感がなくてすべすべしているのだ。自分の足かと思って手を伸ばすと自分の足は所定の位置に二本ある。ゆっくりと顔を持ち上げると昨日耀子が買ったサマードレスの柄が目に入った。顔を戻すとすべすべの白い皮膚が枕になっていた。一瞬にして状況は理解したつもりだが身体が枕から離れることを拒否したので、そのまま状況確認に勤める。横座りになった燿子の裾を捲り上げて太腿の上に頭が乗っているようだ。目の前にはもう片方の足が見えてその足を左手で引き寄せているらしい。耀子は何も言わないし片手は頭に置かれているようだ。ゆっくりと真上に視線を向けると耀子と目が合った。「おはよう」とかすれた声が幽かに聞こえた。

(つづく)


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